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生死や生活の質に直結 訪問歯科で幸せ支える


 週が明けた月曜日は終戦記念日の15日。やはりこの日も医院は休みですが、訪問に休みはありません。
 阿部医師は、訪問歯科について「人間は生まれて口から呼吸をして泣き、吸綴(きゅうてつ=赤ちゃんがおっぱいを吸うこと)します。生命の基本が口にあります。口腔には噛んだりすりつぶすこと以外に、心理的な満足という機能があります。在宅介護では、食べられない状態になっている人にどれだけ満足してもらえるかということも重要です。食べられない状態の時、意思疎通ができない人だと口腔内がどうなっているかを見極めないといけないので、そこが歯科医の仕事だと思っています。今後は超高齢社会が進みますので、医療と介護を一体にして患者さんや家族を支えていく必要があると思います」と話します。
 日差しの強くなった13時過ぎに出発です。

阿部 こんにちは。歯医者です。
橋本陽子さん 先生、こんにちは。お世話になります。

4.JPG 家の中に入ると、玄関脇の部屋のベッドに患者の橋本隆さん(仮名、71)が寝ています。隆さんは、くも膜下出血の後遺症で右半身が麻痺しています。認知症もあって意思疎通はほとんどできず、要介護5です。嚥下機能が落ち、胃ろうを造設しています。妻の陽子さんが隆さんを介護しています。
 阿部医師は4年前に主治医から紹介されて、月2回の訪問診療を開始しました。胃ろうがあっても、口腔ケアを行わなければ、口の中が汚れて臭いも出てきます。加えて橋本さんの場合は、自力でつばを飲み込んだり、痰を排出したりすることができません。そういった嚥下機能の回復も目的に、口腔ケアの際に電動歯ブラシで口の周りや頬、舌の筋肉を刺激しています。
 阿部医師は、いつものように口腔ケアの用意を始めますが、今回は道具の中に携帯用歯科用バキュームも入っています。口腔ケアによる刺激で唾液が分泌されますが、橋本さんは飲み込めません。気管に入ったり窒息したりする危険があるため、注意深くバキュームを使って吸い取るのです。
 最初に橋本さんの様子を見るため、血中の酸素飽和度を簡易用の機械で測定します。

阿部 酸素飽和度、93やね。少しだけ低いかな。
橋本 そうですね、ちょっと低め。

 陽子さんが橋本さんの頭を支え、動く左手を握ります。橋本さんは口腔内の乾燥が強いため、阿部医師は保湿ジェルを使って橋本さんの口周りを湿らせます。ケアを始めようとしますが、右半身が麻痺している橋本さんの口は簡単には開きません。

阿部 はい、橋本さん。口を開けてくださいね。大きく。はい、そうです。

 上下の奥歯の突き当たりの、やや内側の粘膜を刺激すると開口反射が起こります。阿部医師は橋本さんの口が開くよう刺激し、噛まれても大丈夫なように硬いプラスチックで防護した指を歯と歯の間に挟みます。
 しばらく歯ブラシを動かし続けると、唾液や痰が出てきて橋本さんの呼吸も荒くなります。阿部医師はバキュームで丹念に吸い取りながら、歯ブラシを動かし続けます。橋本さんは刺激を受けて左側の手足を動かし続けているので、陽子さんがたまに柔らかく抑えます。
 次に歯石を削ってから、歯全体を研磨します。その後に再び電動歯ブラシの振動を利用して筋肉への刺激も行います。口腔ケアは約40分続きました。

阿部 はい、橋本さん、お疲れ様でした。

 阿部医師が使った器具を片付けていると、橋本さんの喉の奥で痰がゴロゴロと鳴ったので、もう一度吸引し、橋本さん宅を辞しました。次にめざすのは、先週も訪問した細谷さん宅です。調子がよければ今日も抜糸する予定です。
 
阿部 こんにちは~。細谷さん、歯医者です。
細谷 あ、先生。こんにちは。
阿部 甲子園見とったん?
細谷 そう。高校野球な。先生、今日も休みなしやな(笑)。
阿部 今日までクリニックが休みなんよ。
細谷 そうですか。
阿部 ちょっと水道借りるね。
細谷 はいはい。

 紙コップに水を入れるために部屋の隣にある洗面所に向かいます。細谷さんはリモコンでテレビの電源を切って、ベッドに座り直して阿部医師を待ちます。

阿部 はい、お待たせ~。ちょっと口の中見せてな。
細谷 はい。
阿部 よかった。抜いた後の歯ぐき、よくなってるよ。

 消毒薬を含ませた布を抜歯した跡に当てていきます。

阿部 はい、じゃあ糸取れるところを取っていきますよ。口開けて、上向いてね。
細谷 はい。

 阿部医師は慎重に、糸にはさみを入れていきます。

細谷 ちょっと痛い。
阿部 ごめんね。ちょっとだけ我慢してね。上、向いてね。

 縫合していた2本の糸を切りました。消毒薬を上から塗ります。

阿部 はい、2本取れたよ。ここね。
細谷 ああ、ここやね。

 細谷さんは手鏡を覗きます。

阿部 うん、きれいになったね。まだ残ってるのは今度にしよう。
細谷 はい。
阿部 じゃあ、お薬塗っていくね。これから何か食べるんかな?
細谷 エンシュア飲むよ。

 ベッドサイドのテーブルの上には缶に入った液状の栄養剤「エンシュアリキッド」が置いてあります。

阿部 そうか、じゃあこれ塗ってから30分ぐらいしてから飲んでな。塗ってすぐは飲まんとってな。
細谷 30分ね、はいはい。
阿部 じゃあお薬塗るよ。
細谷 先生、ベネット休んでるんやな。
阿部 うん、今月いっぱいはね。お休みするよう先生にお願いしてるよ。
細谷 うん、分かった。
阿部 じゃあ、また次いつにしようかな。

 次回の訪問日を細谷さんのカレンダーに書き、挨拶をして部屋を出ました。
 阿部医師はクリニックに戻る車中で、こう言いました。
「在宅の患者さんは、待ってるんですよ。彼らには通院する自由がないので、私たちが『行かない』ということは、ありえないんです。患者さんはそういう立場にいるということを汲み取って在宅介護を支えていかないといけないと思うんですよね。訪問診療は手間もかかりますし、難しいケースについてはリスクを考えて診たくないという医療者もいると思います。例えば橋本さんのような方の場合、ケアをする際に誤嚥や窒息のリスクが高まるので、中には受け持つことを敬遠する医療者もいると思います。診療を始めると途中でやめるということはできません。でも、ご本人も家族も待っておられる。原点に戻ったら、医療は患者さんのためにあるものです」

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