一病~リウマチ~息災徒然ノート 1

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年08月01日 23:08

発病1

暫くの間、私自身のリウマチ体験談をブログに綴ってみようと思います。

いくつかの場所で、同病患者さんやそのご家族、医療関係者の方にお話をさせていただいた内容と重なる部分もありますが、
今さらながら良いとこ取り、カッコつけて喋った反省もあり、
治療法や服用してきた薬剤についてだけではなく、
闘病と仕事や日常生活、家族との関わりなど、
できるだけありのまま正直に述べたいと思い立ちました。

発症したのは今から12年前の1995年。

それ以前から前兆はありました。

もう少し遡って1988年5月、
結婚した私は新卒で入社した京都の生命保険会社で仕事を続け、
夫は勤務地であるつくばで別居生活をしていました。
半年後の年末、諸々の問題に対峙しきれなくなり、私は仕事を辞めて夫の住むつくばに転居しました。

初めての土地で、夫と官舎で暮らし(夫は当時国立の研究機関に勤務する公務員)、
私は間髪入れず、つくばの財団法人自動車研究所に所長秘書として転職しました。

何もかも京都の暮らしとは違い、私にとっては大きな環境変化でした。
でも新しい仕事は新鮮で、休日には地域のサークルに所属してコントラクトブリッジや、つくばの恵まれた環境を利用してテニスを楽しむ余裕もでき、長閑な時が過ぎました。
 
二年後、自動車研究所の所長が心筋梗塞の発作で急逝し、
私はつくば万博跡に最後に建設されたテキサス・インスツルメンツ(TI)の研究所に立ち上げスタッフの一員として採用されました。

一年後、夫がアレキサンダー・フンボルト財団の奨学金を受けて渡独することが決まりました。
迷うことなく私はつくばの官舎に一人残り、夫は単身、ベルリンで在外研究生活を開始しました。

1993年の夏のことです。
 
最初の夏と年末から新年、GW、そして次の夏と計4回、
使える限りの有休消化し、私はベルリンに飛びました。
 
たいてい、前日夜中まで仕事をし、その後パッキングして翌朝発ち、ドイツで一週間から10日を過ごして帰国、そのまま仕事。
英語もパソコンもできない私が、
英語しか通じない社内(上司は日本語ができないアメリカ人、当時のパソコンはアルファベット表示のみ、パソコンソフトのマニュアルも全部英語)で、悲壮感に苛まれながらも、頑張れば何とか足を引っ張らない程度にやってゆける、認めてもらえる、新しいことを学んだり覚えたり、できないと思っていたことが僅かずつでも努力で叶うことが何より嬉しく刺激的な毎日でした。

病気など考えも及ばず、無縁だと思い込んでいました。

生まれて初めての一人暮らしで、仕事にかまかけ、
食生活はコンビニで買ってきたものばかり、
メゾネット式官舎の二階は和室でしたが、眠りに帰るだけ、万年床という有様でした。
それでも早朝やナイターテニスを仕事の合間にやりながら汗を流していました。

4回目に渡独した1994年夏、
あいにくスクリーン前の座席で、トレーを乗せるテーブルが、座席の肘に畳む形式のもので、これを仕舞うときに右手の人差し指を挟んで、飛び上がり、疼痛と腫れに悩み続けました。
その上、膝が痛くてフランクフルトに着陸しても飛行機の座席から立ち上がれない、
曲がった足が伸ばせない、スーツケースが引けない状態でした。

長時間のフライトで運動不足になったから、いわゆるエコノミー症候群かと高をくくっていましたが、
レンタカーを借りてベルリンからフランクフルトの空港まで出迎えに来ていた夫に背負われてゲートを出た記憶があります。
人目を気にする余裕すらなく、全く歩けませんでした。

ドイツ中を駈け足で回った、このときの写真が今も沢山残っていますが、どれも笑いながら、私の両膝と右手の人差し指の関節に白いシップが一際目立っています。

それでもまだ何かの病気だとは思いもよりませんでした。

でも明らかにリウマチの前兆でした。

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