『経済学は誰のためにあるのか』

投稿者: | 投稿日時: 2009年03月13日 07:45

昨日、医療崩壊を阻止しようと精力的に活動されている舛添厚労大臣の“孤軍奮闘”ぶりを書かせていただきました。そこで、厚労官僚が自らの利権のために医師教育への「規制」にまで手を伸ばしている、という話に触れました。

それを書きながら思い出していたのは、私が大学2年生の頃(もう10年以上も前なんですね!)に読んだ、内橋克人氏の『経済学は誰のためにあるのか』という本です。今も昔も、政治経済にはめっぽう弱い私。それが、たまたま人に薦められて読んだのでした。

当時、目から鱗が落ちたのを覚えています。よくよく考えると、いろいろな点で、私のその後のものの見方にも大きな影響を与えた一冊でした。そして今、私は愕然としているのです・・・。


振り返れば、私が生まれ育った時代というのは新自由主義(?)旋風の真っ只中。記憶の最初に出てくる総理大臣は中曽根康弘氏、アメリカ大統領は「小さな政府」のロナルド・レーガン、そしてイギリス首相はもちろん鉄の女“サッチャーさん”です。あれよあれよという間に、国鉄がJRになったり、消費税が導入されたり・・・そういうのが当たり前だと思って大きくなりました。

大学に入った頃もその流れは変わっていませんでした。むしろ、バブル崩壊の痛手からの脱出策を、「グローバル化」の合言葉のもと、金融ビッグバンをはじめとする“規制緩和”に求めていたようなイメージがあります(当時はそんなふうに考えたこともありませんでしたが)。「とにもかくにも規制緩和」「民営化すれば経済が良くなる!」・・・そんな印象を、経済に疎い私でさえ植えつけられていたのです。


そんな”常識”をひっくり返されてしまったのが、この『経済学は誰のためにあるのか―市場原理至上主義批判』でした。内容に関してはいろいろ批判もあるようですが、素人の私にショックを与えるには十分でした。「とにかく正しいことだ」「経済を立て直す道だ」と大人たちに聞かされ続け、疑ってみることもなかった「規制緩和」のホントのところ、行き着くところを、初めて知ったのでした。

規制緩和の根拠は、「官」が握っている産業・利権を「民」に移すことで、経済を活性化させよう、というものだったはずです(今でも私はそれくらいの大まかな理解)。でも、規制緩和で実際に起きていることは、「官から民へ」ではなく「官から“財”(内橋氏に言わせれば“業”)へ」です。しかも内橋氏は、「あまりにも過剰に行政官僚の手に集中した権限、すなわち規制というものを取り払って、権限を市民の手に移」す「真の意味での規制緩和」は必要とした上で、しかし規制緩和の名の下で実際に起きているのは、「政、官、業の内輪の、権力の仲間回し」でしかないとしています。それが、10年以上前、誰もが規制緩和を当然のことと信じていた頃に出された本で指摘されていることです。


そして昨今、世の中には経済格差が広がり、数億円のマンションが即日完売する一方で、街には日雇い派遣のネットカフェ難民が溢れています。この10年以上、規制緩和は「例外なき規制緩和」のキャッチフレーズを経て「構造改革」と呼び名を変えて、しぶとく進められてきました。しかしその傍ら、各所で“揺り戻し”も始まっているようです。それに乗じているのが、昨日書かせていただいた、例えば厚生官僚の権限強化、ということになるのでしょうか。

(と、ようやく話が回りまわって戻ってきました。)


だから、私は愕然としたのです。この10年以上、そしておそらくそれよりずっと前から、全然変わっていないんだと。今も昔も、そしてこれからも、例えば官僚の権限がいっとき弱まろうが強まろうが、「政、官、業の内輪の、権力の仲間回し」をしているだけのこと。私たち市民あるいは庶民はずっと蚊帳の外なのか、と、ちょっと唖然としたのです。


以上、昨日文章を書いていて一瞬気になったことを活字にしてみたのですが、たいしたことでないわりに疲れました。やっぱり政治や経済の話は体に毒みたいです・・・。

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