あらためて産科医療補償制度から思うこと。

投稿者: | 投稿日時: 2009年05月14日 13:17

3月中のエントリー「産科医療保障制度」に対して、先日コメントをいただきました。お2人の方に意見をいただくなかで、この制度やその向こう側にあるものについて、自分の中で眼をつぶっていた(つぶろうとしてしまっていた)懸念に改めて目を向けることとなり、いろいろ考えさせていただきました。

徒然なるままに書いてみたいと思います。

まず、この制度の補償対象者の範囲が狭きに過ぎる、という問題点は、上記エントリーの中でも書かせていただいたとおりです。しかし、もっと根本的な問題もあるように感じています。


最初に気になったのは、この制度における補償金の出資者です。この制度では、財団法人日本医療機能評価機構が加入分娩機関から徴収した掛金の中から、保険料を保険機関に支払います。もちろん、掛金は分娩費に上乗せされ、また出産一時金の引き上げでこれは補填されていますので、結局は健康保険料でこれを賄っていることにはなります。ということで国民が負担してはいるのですが、しかし、ほとんどの国民にその実感はないだろうと思っています。知らない人のほうが多いのではないでしょうか。


こうして国民の主体性なく作られ、運営されている制度の目的は何か。それはきちんと産科医療制度のホームページに書かれています。

目的1
分娩に関連して発症した脳性麻痺児およびその家族の経済的負担を速やかに補償します。

目的2
脳性麻痺発症の原因分析を行い、将来の脳性麻痺の予防に資する情報を提供します。

目的3
これらにより、紛争の防止・早期解決および産科医療の質の向上を図ります。


こうしてみると、目的1~3、どれも問題ないように見えます。ただ、出資構造とあわせて考えてみた場合、「結局やりたかったのは目的3なんだ」と思われても仕方ないようなしくみです(それは上記の書き方を見ても現れていますよね。目的1と2は、まるで目的3のための手段のようです)。


制度を作った人、実質負担なく加入できる分娩機関、そしていわゆる“健常な”国民の感覚からすれば、これら目的が全て果たせるなら、「一石二鳥」ともいえる、優れた制度なのかもしれません。

たしかに、訴訟件数の増加が産科医を疲弊させ、分娩取り扱い機関減少へと追いこんできました。その阻止は喫緊の課題です。ですからもしこの制度により目的どおり「紛争の防止・早期解決」が図れるなら、医療機関、医療従事者、被害者側、そして多くの国民にとって、その成果は大変大きなものとなるはずです。しかも、目的1・2は被害者側にとってもメリットとなるはずです。

・・・と、思ってきました。が、先日いただいたコメントを読むうちに、以前、ぼんやりと気になっていたことに改めて向き合うこととなりました。


まず、国民の意識の問題。上記のような出資構造では、出資しているはずの国民に自分たちがみんなで“負担”しているという意識はありません。“負担”を感じさせないで済むということは、ある意味出資させるのには都合のいいことかもしれません。しかし、なぜ自分たちが負担するのか、するべきなのか、理解しないまま、お金だけ出し続けていることが、どういう結果をもたらすのか。負担に気づかないまま、理解もないまま、となるか、あるいはお金で解決できるならそれでいい、といった安易な解釈に至るかもしれません。

それは制度そのものについてだけではありません。対象となっている脳性麻痺とその家族の方、そして本来なら対象範囲に入るべき分娩において障害・死亡という被害を受けた全ての方・家族の方々のことについても、気づかないまま、あるいはきちんと向き合わず、正しい理解に至らないまま、ということになってしまわないでしょうか。


そもそもこの制度がなくても、いわゆる“健常な”国民の意識の中に、障害を抱える多くの方々に対する差別的な意識がみられることは、残念ながら、障害を抱える方たちご自身が一番感じておられることです。差別している側には差別しているという意識もないことが多いのでしょう。こうした両者の意識のギャップはたいてい、接する機会(きちんと向き合うこと)がないことが最も大きな原因ではないかと想像します。ただ実際のところ、“健常な”人にとっては自分が積極的に関わっていかない限り、そうした障害のある方と接する機会は普段の生活の中では非常に限られているのが現状です。←その時点でかなり問題なのかもしれない、実は諸悪の根源だったりするかな、という気もしますが・・・。それでも少なくとも、気づかないこと(=実は頭の中で無意識のうちに視線をずらしている?)、相手を正しく理解しようとする気もないままに誤解すること、どちらもとても失礼なことです。それが制度や態度に表れているという気がします。


だからこそもう一つ、気になるのが、脳性麻痺の方々の心境です。

先日のコメントでも、「なぜ脳性マヒだけが対象なのか?厚生省は産科の医者が足りないからこんな制度を作ったと言った。本当の問題解決にはならないと思う。」「脳性マヒが産まれてはいけないのか?だったら私達は医療ミスで産まれた存在してはいけない命なのか?」「まだ優性思想があるからそう言う見え透いたことしか出っていない。」というご批判をいただきました。脳性麻痺の方々にも、政府の意図や意識は見透かされているということでしょうか。

こういう意見が当事者側から出てくると、しばしば「過剰反応だ」「被害妄想だ」などという反論が出されることがあります。大変失礼かつ尊大な話です。たしかに多少、過敏に思える場合があったとしても、それは当事者ですから当然のことです。それを「過敏だ」と言って突っぱねるとしたら、そのような態度こそ、そもそもの制度創設の意図を疑わせるものです。この制度で挙げている目的1・2が、それこそ「見え透いたこと」と自ら示すようなものです。本当に、心底、目的3のみならず目的1・2を達成したいとこの制度を作ったのであれば、当事者の声に真摯に耳を傾け、どうしてそのような批判が出るのか、どこに問題があったのか、自省することが先なはずです(←それは私のブログの内容にも言えることと自戒)。


先のエントリーのコメント欄にも書かせていただいたので繰り返しになりますが、個人的にな理想としては、例えば障害者手帳を持っていようといまいと、要は、困っている人がいたら手を差し伸べるのが当然の社会であってほしいし、さらに、その救いの手を「お互い様」の意識で、当然の権利として受け取れる社会であってほしい、という思いがあります。そういう意味で障害者の方々は、「特別待遇」(もちろん全人格としてではなく、本人が困っている範囲において、制度や設備の面で、また人々のサポートを当然受けることができる存在として)を受けてしかるべきなのだと、私は思っています。


そういう体制や人々の意識が整っていないとしたら(おそらく現状では整っていません)、そこは変えていくべきだと思うし、変えていくべきと考える社会に、その一員として生きたいと思うのです。そのために国レベル、地域行政レベルで取り組むべきこともあるでしょうが、一方、ご近所レベルあるいは個人レベルでできることもあると思います。行動が意識を変えることは多いのですから、頭で考えるより手足を動かすこと、できることを実践することが先と考えます。


ただ、それには、いわゆる障害者の方々の協力も必要なのです。何が必要で、何が不要か、何が助かって、何がありがた迷惑・おせっかいか、そうしたことは本人以外、なかなか判断できません。事実上も、また意識の上でも、個人差が大きい部分に違いありません。だからこそ、できれば、どんどん声を上げたり、声をかけたりしていただきたいと思うのです。例えばできないことを人に頼んだとして、正当な理由なく無碍に断られたとしても、それはその相手がたまたま悪かったと思ってもらって、ぜひあきらめないでいただきたいのです。「あきらめないで」というのは、社会や人々について、です。例えば、街中で手助けが必要な時に、「声をかけられれば気軽に応じる」という人は、意外と少なくないと思っています(私は妊婦だった頃に、いろいろな方に親切にしていただいてそう思いました)。


もちろんすでにそうされている方の中には、「それは既に実行しているが、たいていのことは自分でできるから人に頼まなくて済んでいるだけ」「ちょっと手助けするからといって、差別の意識がないこととは違う」という指摘をされる方もあるでしょう。それでも、多くの国民にとって障害のある方と接することが日常的でない結果として差別意識(悪意がなくても、「どう接していいかわからない」といったカベのようなものも含めて)が生まれているとしたら、その状況から変えていくことが必要だと思います。そのために声を出していただきたいのです。自分でできることが多いとしても、自分でできることだけをやろうとはせず、ぜひ協力を得ようとしていただきたいのです。

そうした声は、集団で上げるほうがインパクトがあっていいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは“瞬発力”にすぎず、本質的な理解といった長期的視点では、個人から個人への声のほうが大切だと私は思っています。理解や認識の共有がない人たちに向けて集団で動くと、インパクトだけが大きくて、結局は邪推されたり、誤解されたり、何かが変わっても形式的・表面的なことで終わってしまうように感じるからです。しかも効率ばかり重視され、経済の話ばかりが取り沙汰される今日、集団をもってしても、大きな枠組みの中ではこうした議論は後回しになってしまうかもしれません。


そしてこれもコメント欄に書かせていただいたことですが、現時点では「やらない偽善よりやる偽善」にも、ある程度眼をつぶっていただければと思います。もちろん、それが人々の理解を後退させかねない制度であったりしたら問題ですが(←コメント時より、考えにちょっと修正を加えました)。個人の意識や考えを変えていくには、行動と慣れが必要で、それには繰り返すことと、時間を要するからです。まして集団となれば・・・。いずれにしても、おそらく日本人の意識を全て変えることは無理としても、そんな人たちは放っておけばよいし、ほうっておいても差し支えないくらいの世の中となったらいいんですけどね。


・・・と、そんなことを、以前に見たアメリカの子供向け番組を思い出しながら考えました。(そこでは数々の人種のみならず、車椅子の子どもたちや、ダウン症、聴覚障害といったさまざまな障害を持つ子どもたちが一緒に歌ったり踊ったりしていました。こうした番組、それを作る側の意識、見る側の意識、いずれも、もともとは、そして今も半分は「やる偽善」なのかもしれません。それでも残りの半分は社会に根付いているように思います。人々の差別の意識がなくせたわけではないでしょうが、少なくとも、制度の中で、そして共に生きる存在として、一人ひとりが尊重されている感じがしました。そしてその印象は、アメリカを訪れた時も大きく変わりませんでした。問題も多い国ですし、日本に彼らのやり方をそのまま輸入してうまくいくわけではないと思いますが、学ぶべき点もあるように思うのです・・・。)

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コメント

堀米様

>掛金は分娩費に上乗せされ、
>また出産一時金の引き上げでこれは補填されていますので、
>結局は税金でこれを賄っていることにはなります。

本論にも入らない冒頭から恐縮ですが、ここで堀米様が「税金」と表現されておられる部分を「健康保険料」と訂正して頂きたい。出産育児一時金は健康保険(健保・国保・共済等)での制度であって、原則は税金ではなく保険料で賄われております。広い意味でも国民負担ではありますが、堀米様が一般会計などからの税金で賄っているというご認識であるならば、それは租税制度と社会保険制度との違いを理解されない、ご自身の思い込みで筆を進められている危うさを感じます。

さて本論ですが、そもそも脳性マヒは出生1000例あたり3~4の発生率と言われます。ですが分娩での措置に起因する脳性マヒは、全脳性マヒの15%~20%とする医学的データもあります。すなわちこの産科医療補償制度の給付対象となる新生児は、医学的な研究資料などからすると、千分の0.5~0.8の該当数になるはずです。しかしながら、生まれながらに身体障害や知的障害を持つ割合は、千分の8~10前後(障害の定義区分などの理由でデータごとに違いがある)と言われております。つまり生まれながらの障害を持つ子供のうち、10数人に一人「だけ」が障害者福祉諸法令に基づく福祉加えて、この3千万円の補償金を受け取れる勘定になります。残りの障害児は既存の障害者福祉給付を頼るだけであり、経済支援の福祉面で大きな格差を生じます。

こうした補償給付金が貰えない「分娩に起因しない」脳性マヒ児(全脳性マヒ児の約8割と言われます)との線引きを簡単にするために、分娩起因による脳性マヒ児への損害補償義務の判定は非常に大雑把な下記の外形基準に委ねられてしまいました。
 1、出生体重が2,000g以上かつ在胎週数33週以上であること
 2、身体障害者1・2級相当の重症児であること
 3、脳奇形や染色体異常などの除外規定に当たらないこと

分娩に起因する障害児の線引き基準としては余りに大雑把なこの基準と、この補償金の対象となった分娩を取り扱った医師や医療機関には、補償給付の申請に伴って不利益な扱い(例えば次年度の保険料が跳ね上がるとか)が無い制度設計から、この賠償保険制度は大きなモラルハザードを惹起する懸念があります。それは本来は分娩起因ではない脳性マヒでの出生児であっても、分娩起因であるとして補償給付を申請する事例が多発する可能性です。

このように、出来るなら均しく福祉の恩恵が行き渡るべき障害児に、分娩に起因する損害補償(福祉での社会保障とは字も意味も違います)だけを抜き出して、特別に3千万円を給付することの不公平感や、感情的に割り切れない思いがこの制度により惹起されたのは事実のようです。また、本来は福祉保障(損害の補償とは字も意味も違います)としての意味合いがある給付を、何故に健康保険制度から支出しなければなないのかという疑問もあります。そもそも健康保険では分娩や出産は保険給付の対象では無いので、分娩に起因する損害補償の費用を、健康保険の制度(出産育児一時金)で賄うことがオカシイという意見も多いのです。

とにかく産科医不足を食い止めることや、出産分娩を扱う医療機関の負担を減らすことだけに目が向き、制度設計が杜撰であり、広く均しく公平公正に行うべき社会福祉保障政策を歪めてしまう懸念があります。この産科医療補償制度は、社会保障制度や社会保険制度から見た場合に、余りに問題が多い制度であり、産科医不足への拙速政策との誹りは免れ得ない側面があると思います。

制度が出来ただけ従来より一歩前進と評価する向きもありますが、私はそのような評価は出来ません。この制度での社会保障制度や社会保険制度を歪めるマイナス効果を懸念しており、出来れば早々に廃止して分娩起因に限定しない新生児障害者の福祉保障での別の新制度や、産科医への報酬や公的助成の面で抜本的優遇する政策と置き換えるべきと思っています。そして何故に分娩出産が健康保険の医療給付の対象から外されているのか、その歴史的経緯を関係者(※)が反省して見直しを行うところから、産科医療の問題点の洗い出しと制度改革を実施すべきと思います。

(※注:この歴史的経緯とは健康保険適用に限らず、医師と助産師との棲み分け問題に係る戦前からの確執を指します。また関係者とは厚生官僚だけを指すのではなく、現行の健康保険給付や制度的棲み分けの固定化に関わった、医師界や助産師界での指導的立場に就かれていた方々を指しているつもりです。いずれにせよ社会保険の立場の者が深く踏み込むことを躊躇させる歴史的な経緯と確執が、関係業界の間にあるやに感じています)

以前にも書き込みさせていただきましたが、私の息子は障害者です。
幼児期には、自治体で行っていた療育施設に母子通園しておりました。
そこはできたばかりで、方針も固まっていなかったようで、肢体不自由の子も、知的障害の子も同じグループでやっておりました。
さて、ここに3000万ですか?受け取った人とそうでない人が混ざって一緒にやっていけるのか?
知的障害だけの子でも、施設では出産の時になにか問題はなかったか?未熟児ではなかったかと繰り返し聞き取りが行われます。出産のトラブルがあって、知的障害があった場合、特に割り切れない思いをする親は少なくないような気がします。
話は変わりますが、脳性麻痺の子の親同士でも、けっこう内部はドロドロしておりまして、「あそこは裁判に時間かまけて、子どもの訓練をおろそかにしたから○○できない・・」等の陰口はよくあること。こういう一面も知っている身としては、なんだかなあ・・というところなんですが。

法務業の末席さま

ご指摘いただきありがとうございました。反省しつつ、修正させていただきました。また、この制度が社会保障制度や社会保険制度といった視点からも非常に問題が多い制度であることが、大変よくわかりました。やはり「産科医不足解消のため」という目的の元に、きちんと議論が詰められないうちに、創設を急ぎすぎたのでしょうね。


ともハハさま

非常に貴重なコメントをありがとうございます。やはりこの制度は問題が大きすぎますね。「脳性麻痺の子の親同士でも、けっこう内部はドロドロ」という状況に拍車がかかってしまったりしたら、残念すぎます。さらにこの制度が作られたことで、かえって「この件はもうOK」といった雰囲気が“関係者”の間に生まれてしまったら困りますね。今、まだ医療問題にはあるいみ追い風が吹いていますから、本来なら今のうちに何とかすべきなのでしょうが、いったん大掛かりにこういうモノができてしまうと、次のステップにはまた別にきっかけが必要だったりするのが厳しいところです・・・。

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