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瘍が一定の位置にある可能性が高いため、狭い範囲だけにビームを当てても腫瘍を逃がしません。 患者さんの胸に目印を貼っておき、その目印が決まった位置に来た時だけビームが発射されるような仕組みを作れば可能です。その時点で既に陽子線では筑波大が実現していました。仕組みがHIMACに実装されるまで、胴体にある臓器の治療はストップされることになりました。 「必要に決まっているんだから、なんで最初から入れておかなかったのかと思いましたよね。平尾先生(泰男氏、HIMACの設計者で後の放医研所長)に尋ねたら、すぐにでもできるということだったのに」と重粒子線治療ネットワーク会議に参加していた海老原敏・現同委員長(当時は国立がんセンター東病院副院長)は言います。 ただし関係者全員が、すぐ実現できると思っていたわけではありません。医用重粒子線研究部第2研究室長としてシンクロトロン(円形加速器)建設の指揮を執っていた佐藤健次・現大阪大学名誉教授は、「お医者さんたちから、やいのやいの言われてシンドかったですわ」と振り返ります。 前回の当連載で、世界最大の重イオン加速器「ニューマトロン」の建設計画が東大原子核研究所(核研)で進んでいたけれども実現しなかったことを説明しました。HIMACの設計をした平尾氏がニューマトロン計画の提唱者で、夢破れてから放医研へ移籍したことも述べました。佐藤氏は平尾氏の門下生で、核研の助教授をしていました。前回ご紹介した山田聰氏に誘われ、88年に放医研へ移籍、シンクロトロン建設に携わっていました。 呼吸に同期させるには、素人だと照射ポートの改造だけで済むだろうと勘違いしがちですが、実際にはシンクロトロンの改造が必要でした。0・1秒より早くビームをオンオフできないと、呼吸には合わせられません。HIMACシンクロトロンの当初の仕様では、理論上、1秒単位でオンオフするのがやっとでした。筑波と加速器の原理が異なるため、その方法を転用することができませんでした。 全く新しいビーム制御技術が必要で、その実現は簡単ではない、と佐藤氏は考えながら、後輩たちに後を託し、その年に大阪大学核物理研究センターへ教授として移籍しました。 ところが佐藤氏の予測を裏切って、呼吸同期照射が早くも翌年度の96年2月には、できるようになります。これだけ書くと、佐藤氏が無能で無責任のようですが、HIMACの優秀さに決定的な影響を与えたと考えられる機構をいくつも残しているので、次回以降に説明します。 当時同部第3研究室にいて現在は九州国際重粒子線がん治療センターの副センター長を務める遠藤真広氏が「呼吸同期照射をあんなに早く入れられたのには驚きました。誇るべき成果ですよね」と言うように、物理工学家から簡単なことと思われていなかったのは事実です。 なぜそんなに早く技術開発に成功したのでしょうか。平尾氏は、後にこんな文章を残しています。︱︱日本のオリジナル治療技術であLOHASMEDICALVIEW筑波方式は使えず核研で続いていた研究7LOHASMEDICAL