機器も身の内⑥
北海道旭川市の高橋智恵美さんは、難病を抱え、常に命の危険にさらされています。そんな身でも、准看護師として、市内の診療所で笑顔を絶やさずに働いています。
高橋さんは、今どき非常に珍しい10人兄弟の、下から2番目、六女です。でも現在残っているのは、お兄さん1人、お姉さん3人しかいません。家族性の特発性心筋症による心不全で、お兄さん2人お姉さん2人、弟さんを次々に亡くしたからです。
お母さんも同じ病気で高橋さんが10歳の時に亡くなり、その時から高校卒業まで、お姉さん弟さんと高橋さんの3人は、児童養護施設から学校に通いました。
特発性心筋症とは、心筋が分厚くなってしまうか、あるいは逆に薄く延びてしまい、いずれにしても心臓が十分に収縮できず血液を送り出せなくなって、心不全や不整脈を引き起こす原因不明の難病です。ひとたび発症すると、根治には心臓移植しかなく、現実問題としては、薬を飲んだり無理を避けたりで、致命的な発作が起きないよう心臓をかばいながららすことになります。
残っている兄弟5人の中では、高橋さんだけが既に発症しています。発症したのは、富良野市の病院で救急看護師としてバリバリ働いていた24歳の冬でした。たまたま念のための検査として心電図の24時間計測をしていたところ、雪かきの最中に言いようのない苦しさを感じ、後から見た心電図に重篤な不整脈が出ていたのでした。
高橋さんは、目の前でお母さんが倒れ、「その時に何もできなかったのが悔しくて、人を助ける看護師になりたい」と、思ったのだそうです。しかし保護者がいませんから、高校卒業時点では看護学校の学費を払うアテもありません。そこで、まず看護助手として1年働き、自分が本当に看護師になりたいのか確かめるとともに、学費をためて看護学校を受験しました。
それだけの思いでなった職業だけに、発症した後も、救急や手術室の看護師として働きながら経過観察を続けていました。しかし、5年後にまた不整脈の発作が出て、旭川医大病院の主治医から「そろそろ限界だからICD(植え込み型除細動器)を入れたらどうか」と勧められたのです。
高橋さんのストレス解消法は、車を運転してあちこち出掛けることと、甥姪と一緒に遊園地で絶叫マシーンに乗ることでした。しかし、ICDを入れると、車の運転は半年間禁止され、絶叫マシーンはずっと乗れなくなります。また、電磁波によってICDが誤作動する恐れがあるため、MRIやCTなどの医療機器に近づけなくなります。リードが断線する恐れがあるので重いものも持てなくなります。つまり救急看護師は、もうできないということです。
もうちょっと生きたいな
兄弟の相次ぐ死で医療に対して不信感を抱いていたお姉さんはICD植え込みに猛反対しました。高橋さん自身も、生活に加わる制限のことを考えると、すぐには決心がつきません。でも、医師や植え込み経験者たちと話をしているうちに「できなくなることばかりではないから、入れて、もうちょっと生きたいな」と思うようになったそうです。
手術は05年2月に行いました。しかし手術時間が予想以上に長引いて、しばらく肩が上がらなくなりました。そのことが、生活制限の不安や、ICDが作動したらどうなるのだろうかという不安に重なって、どんどん気持ちが落ち込んでいきます。普段の性格からは考えられないほど、引きこもり気味になってしまいました。
これではいけない、と1カ月後に外来看護師として仕事に復帰しました。しかし急な復帰がやはり体に重荷だったのか、半年たって仕事後に友人たちと会食していたところ、不整脈発作が起きてICDが作動してしまいます。友人たちも看護師だったため、テキバキと旭川医大まで運んでくれて事なきを得ました。しかし、富良野市にはICD作動時に対応できる医療機関がないので、お姉さんの勧めもあって自宅のある旭川市へ戻ってきて、個人病院や診療所で働くようになりました。
見た目は元気そうに見えるので、医療者にすら深刻さを理解してもらえないこともあります。でも実は、ことし3月にもICDが作動して入院しています。調べてみると、病状がさらに進行していて、薬を増やさなければなりませんでした。6月には入院して外科治療することにもなっています。
そんな状態でも高橋さんは、透明感のある笑顔を絶やしません。「発症するまでは、仕事が楽しいだけでやっていました。でも自分が患者になって、痛みや苦しみが分かるようになりました。自分の体験を患者さんに伝えることで、まだまだ人の役に立つことができると思います。それから、あれもできない、これもできないじゃなくて、何でもやってみて、それで発作が出たら、その時はその時と思うようになりました」