高齢になると、虫歯治療や入れ歯の調整だけでなく、麻痺や認知症で歯を磨けなくなったり、糖尿病で歯周病が悪化したりして、口腔ケアの重要性が増してきます。口腔内環境が悪化すると、食べにくくなって活力が落ちるだけにとどまらず、食べ物などが間違って肺に入って誤嚥性肺炎を起こしたりします。生死や生活の質に直結しているのです。
　ご存じない方も多いかもしれませんが、診療所に通院できない場合、歯科医が自宅や施設に出向いて治療を行うことがあります。自宅への訪問の場合、医療保険と介護保険の併用されることがほとんどで、月２回までの訪問にかかる基本料金は医療保険から8300円（施設の場合は3800円、介護保険から5000円で、75歳以上で１割負担の高齢者なら自己負担は１回1330円（施設では880円）になります。他に診療内容に応じて通院した場合と同じ医療費がかかります。

お盆も休みなし

　猛暑となった８月11日の木曜日、兵庫県尼崎市の阿部歯科・矯正歯科にお邪魔しました。開業して33年の阿部勝也医師に同行させてもらいます。医院はお盆休みですが、「在宅患者のケアはその方の生活そのものです。休日は関係ありません」とのこと。
　「患者さんを息子さんがおぶって通院して来られたのを見て、訪問の必要性を感じました」と、介護保険が始まる前から要望に応じ在宅診療を行ってきたそうです。毎月10人程度の在宅患者を診ています。
　阿部医師は、患者ごとに診療用の道具が詰められたプラスチックケースを車の後部座席に詰め込みます。マスクや手袋などの衛生用具の他、紙コップ、うがい薬、消毒薬、必要に応じて使う抗生剤などの薬剤、歯ブラシや研磨ブラシ、歯石除去用の器材、ヘッドライトやミラー、切削用の電気エンジン、削りかすが散らないようにするためのクリーンボックス、入れ歯を作成するための材料や道具......。細かく複雑な道具が数多く必要です。
　まだ炎熱の残る午後３時半に訪問スタートです。５分ほどして一軒家に着きました。器材２箱とカルテを持ってチャイムを押します。中に入ると、細谷幸子さん（仮名、73歳）が奥の部屋でベッドに座って待っていました。

阿部　こんにちは。歯医者です。暑いねえ～。
細谷　いや～、ほんま先生、暑いわ。

　独居の細谷さんは、脳梗塞の後遺症で歩行が難しく、認知症もあって要介護３です。阿部医師が訪問するようなって５年になります。阿部医師はベッドサイドの椅子に座り、口の中を見ます。

阿部　どうかな、まだ痛いかな。歯を抜いた所。
細谷　大丈夫ですよ、ちょっと痛いけど。

　今月はじめ、ほとんど根元しか残っていなかった下の前歯を４本抜きました。抜歯後に縫合した部分を清潔に保つため、頻繁に通って口腔ケアと抗生剤の塗布をしています。

細谷　いつも忙しくて荷物いっぱいあって大変やな（笑）。
阿部　そうやね。１個でも忘れたら、また取りに行かなあかんから大変やね。
細谷　お盆やのにな、先生な。
阿部　４本も歯を抜いたから治り具合が気になるからね。でも綺麗に治ってきてるから、良かったわ。

　阿部医師は、細谷さんに紙エプロンを付け、口腔ケアに使う器材をベッドサイドにあるテーブルに並べます。自分も手袋、マスク、ヘッドライトを付け、消毒に使う薬を紙コップに入れた水で薄めます。別にうがい液も用意します。
　電動歯ブラシを消毒液に浸してから、口の中を念入りに清掃し始めました。
　骨粗しょう症もある細谷さんは、治療にビスフォスフォネート製剤を服用しています。ただ、この薬は服用中に抜糸などを行うと顎の骨に炎症が起き壊死する可能性があるため、厚生労働省から注意を促す文書が出されていました。阿部医師は、担当の整形外科医に連絡し、８月中は休薬してもらうようにしています。

細谷　今「ベネット」（処方されていたビスフォスフォネート製剤）休んでるんよな。
阿部　うん、歯を抜く３カ月前からお休みしてもらうように、先生に伝えてるよ。
細谷　あれ骨強くするんやで。
阿部　そうやね。でも今は顎の骨がボロボロになってしまったら困るから、休んどこうね。だいぶよくなってるから、今日は糸を１本抜こうか。腫れがだいぶ引いてるわ。

　阿部医師が縫合している糸をはさみで切りました。細谷さんは手鏡で跡を見ます。

阿部　ちょっと痛かったよね、ごめんね。
細谷　さっきは痛かったけど、今は痛くないよ。
阿部　薬塗っておくからね。
細谷　はいはい。
阿部　それからお薬、持ってきたよ。これ飲んでね。ここ置いておいたらいいんかな？
細谷　うん、ヘルパーさんが見てくれるかな。
阿部　連絡帳にも書いておくからね。うん、今までの薬も飲んでもらってるし、ここに置いておきます。
細谷　はいはい。
阿部　じゃあまたね。お大事にね。