今、あえて問う 医療は危険か安全か。
医療界では、医療行為で健康が損なわれることを、その原因が妥当なものかそうでないかによって区別します。そして、それぞれを「治療による合併症」と「医療過誤」という二つの異なる現象であると考えます。
前項でしつこいくらい述べたように、病気をした段階で既に体は弱っていますし、たとえ病気がなかったとしても加齢と共に体は衰えます。医療行為は、そこへさらに負担をかけることになります。常に治療のリスクと治るという期待とを天秤にかけて行われるものなのです。危険も効果も確率論的な予測はできても、実際に何が起きるかは神のみぞ知るところがあります。
運の悪い方に転がって、避けようと策は講じたけれど起きてしまった「仕方ない」ものが「治療による合併症」。この中には、薬の副作用も含まれます。対して、予想しないことや通常は起きないことが起きたら「医療事故」です。事故の中には、特に誰の過失でもない不可抗力のものと、医療者のミスが原因になった「医療過誤」とがあります。
このように区別して考えるのを不思議に思うかもしれませんね。患者の健康が損なわれるという結果は同じでないか、と。
しかし医療側からすると大違いなのです。俗な事柄で説明すると、「合併症」の場合、追加の治療費も含めた損害は患者負担になります。「過誤」ならば、医療機関に負担責任があります。訴えられることも覚悟しなければなりません。事実、訴訟が医療機関の存立基盤を大きく揺るがすようなことが度々起きています。
合併症と過誤とで、ここまで取り扱いが違うのは、なぜでしょうか。
医療の主人公を医療機関側だと考えると腑に落ちないかもしれません。しかし、患者自身が主人公だと考えれば、当然のことになります。リスクを承知で治療法を選択し身を委ねたのは患者自身であり、医療機関がやってほしいと頼んだわけではないからです。
もちろん医療機関が何から何まで他人事で済ませてよいものではありません。医療機関は専門家として適正な医療を提供する義務があり、それを怠って事故が起きた場合には過誤と見なされ責めを負う、こういうことです。 そして、医療機関が提供するべき医療の範囲は一義的に決まるわけではなく、その時代時代の知見や医療技術から判断して、当然達成すべき水準ということになります。この基準をどの辺に置くかは、医療訴訟で必ずといっていいほど争点となります。 言葉を換えると、合併症なのか過誤なのかの判断は、その時々で変わりうるということです。
基準が低すぎれば患者は納得できませんし、逆にあまりにも高く設定すると、医療行為そのものを医療側が忌避する現象が起きてきます。基準を誰が設定するのかが、重大な意味を持つわけです。
ただし、どんな基準であろうとも、医療機関の義務の中に、患者や家族への十分な説明だけは間違いなく含まれています。なぜなら、患者自己責任論が成り立つには、患者自身が医療行為の危険と、それによって期待される効果とについて、正しく理解している必要があるからです。
だから、治療の危険と効果の関係について、どこの医療機関でも、必ず文書を使ったインフォームド・コンセントが行われるのです。