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患者自ら立つ15

tatu15osita.JPG線維筋痛症、胎児性水俣病疑い 尾下葉子さん(35歳)

*このコーナーでは、日本慢性疾患セルフマネジメント協会が行っているワークショップ(WS)を受講した患者さんたちの体験談をご紹介しています。同協会の連絡先は、03-5449-2317

 元小学校教諭の尾下さんは、セルフマネジメントプログラムの「やりたいこと」をするアクションプログラムが作れず、それまで自分を追い詰めすぎていたことに気づきました。

 尾下さんは、兵庫県で公務員の家庭に3人姉妹の長女として育ちました。両親そろって熊本県・不知火海沿岸の村の出身でした。
 正義感の強い、何にでも一生懸命で、そこそこ要領のいい子供だったと振り返ります。物事を途中で終えるのが大嫌いで、小学生の時に始めた習字を大学生になっても続けていたほどでした。
 思春期に人間関係でつまづいたことから学校は好きになれませんでしたが、その学校教育を外から見てみようと、大学では人権教育を研究しました。
 教員免許を取らない過程でしたが、フィールドワークをしているうちに、やはり学校は子供たちにとって大事な場所なんだと思い直し、卒業後に通信課程で小学校教諭の免許を取得。介護や医療事務、雑誌の編集・校正など「社会勉強」のアルバイトを2年ほど経験した後、00年春から公立小学校の教諭となりました。
 最初は2年生の担任からスタート。子供の自主性を重んじようとするあまり、親御さんたちから「もっと宿題を出して。もっと勉強させて」と苦情を受けることもありましたが、話をよく聴いて直すべきところは直していたこともあって、何とか理解を得ることができていました。子供たちの成長を見るのは楽しく、毎日がとにかく充実していたと言います。
 ところが5年経ち、6年生の担任として卒業式を目前に控えた05年の冬から翌春にかけ異変が起きます。微熱が出て、常に頭がボーっとして子供たちと意思疎通がうまくできなくなったのです。「危うく学級崩壊になるところでしたけど、本人は病気と思ってないんですよ。職員室でも、最初は『若いのに更年期か』と笑われて。でも、あまりにヒドイ状態が続くので、しまいに誰も笑わなくなりました」

「最近、学会でよく発表がある」

 年度が替わり、3年生の担任になりました。微熱はひかず、夏休み明け、子供のケンカを止めようとして転び、これはやはりおかしい、と受診することにしました。
 初めて受診した医師が問診後に言いました。「最近、学会でこういう病気の発表が話題になっている。ひょっとするとそれかもしれない」。見よう見真似で診断の基準となる圧痛点を押し、「あ、やっぱり痛みがあるね」。その時に線維筋痛症という病名を初めて聞いたのでした。最終的に「ただ、もっと痛い病気のはずだし、診断がハッキリするまで半年ぐらいかかる。様子を見ようか」、ということになりました。
 尾下さんは、学校へ戻って黒板に漢字で病名を書き「こんな難しい病気になってしまったから協力してね」、と頼みました。子供たちは、それまでのヤンチャぶりがウソのように協力してくれました。しかし、病名をつけてもらってホッとしたのか、背中を斧で割られるような痛みが出るようになりました。
 子供たちが帰った後、這うように階段を上り下りし、そのうち学校に行くことすらままならなくなりました。校長、教頭、夫に3人がかりで説得され、10月半ばに休職することになりました。病気になったこと以上に、途中で仕事を投げ出す形になったことが、根性が足りなかったようでイヤでした。半年ほど寝たり起きたりして過ごし、翌06年4月から正式に休職に入りました。
 線維筋痛症は原因不明です。だったら、原因が分かれば治るんじゃないか、と正式休職を機に、改めて病気について調べてみました。すると、胎児性の水俣病で大人になってから症状の出てくる場合もあること、その症状が尾下さんとほぼ一致することが分かりました。両親の出身地とも整合し、医師から「ほぼ間違いない」と言われました。
 これで治る、と非常に喜んだのですが、医師からは「脳神経に生まれつき障害があることになるので、基本的に治らないと思ってください、老化が人より早い、傷が治りにくい、そういう状態。無理してバランスを崩さないように」と告げられてしまいました。
 体調が元に戻らないのだとしたら、教職復帰は難しいと考えざるを得ません。大変なショックでした。
 それでも、教室に戻ることをあきらめていなかった尾下さんは、社会と関わりを持つ目的もあって「線維筋痛症友の会」の活動を手伝うようになりました。地域の子育てボランティアも、やらせてもらっていました。

新しい生き方 WS経て納得

 その冬、東京で開かれた厚生労働省研究班による公開シンポジウムで、セルフマネジメントプログラムのWSを受講した経験者(09年8月号参照)から「このプログラムは、治療に大変役に立つ」と紹介がありました。それを聴いた友の会の役員やボランティアがどんどん受けるようになりました。
 でも尾下さんは6週間連続で通うことに自信がなかったのと、自分は教育の専門家だという自負があって、受ける必要性を感じませんでした。ただ家の近くでWSの開かれる機会があり、他の患者さんに勧めるなら経験しておいたほうがいいかなと思い直して、08年5月から6月にかけて受講しました。
 WSで何より驚いたのは、自分がアクションプランを立てられないことでした。やりたいことって何だっけと自問しても、思いつかないのです。仕方ないので、痛みが出てから触っていなかったマンドロンチェロの弦を半分だけ替えることにしましたが、それを本当にやりたかったのかと問われると困ってしまいます。
 思い返せば、子供の時から妹たちのよきお姉さんでいること、すべきことをきちんとこなすのが最優先で、自分は何がやりたいのかなど考えたこともありませんでした。
 他の病気の患者たちと出会い、その人たちを見て大変だな、頑張っているなと思うのと同時に、自分の状態も客観的に見れば大変なんじゃないかと気づきました。
 こうした経験を通して、少し肩の力が抜けたようでした。もう少し気楽に考えてもいいのかな、教職に復帰すべし、そのためにはこうすべしとばかり考えてきて、今の自分を大事にしてなかったなと思うようになりました。
 以来、あんたこれやりたいの?、痛いの? と、ちゃんと自分に尋ねるようになったと言います。数カ月後のこれに向けてこうしようということばかり考えてきたのが、今日の体調だとこれができる、と、今できること、したいことを考えるようになったのです。
 そして、休職開始から3年経った09年3月ついに退職を決意しました。こうと決めたら何が何でもやり通す性格を知っていたエンジニアの夫は、「よく決心したね」と拍手してくれたそうです。
 教師という仕事が本当に好きだったので最後まで悩みましたが、いつしか教師でなくとも人の役に立っていくことはできるかな、と思うようになっていました。
 09年8月には、それまで誘われても、復職するんだから忙しくて無理と断っていたリーダーの研修を熊本市で受けました。以前なら義務感だけで参加していたところでしたが、今回は、体調を悪くしてから疎遠になっていた両親の故郷を久しぶりに訪れるという一大イベントもセットにして、それに向けてのアクションプランまで作りました。やはりいい所だな、行って良かったなと、しみじみ思いました。
 今は、体調の良い時を見計らって、妹さんたちの子供と遊んだり、大好きな車でドライブしたりというのを自分へのご褒美にしつつ、友の会のボランティアに勤しんでいます。
 「今のところ子供もいないので、幸い経済的には何とかなります。これからは、自分も含めて線維筋痛症患者の就業支援に力を入れたいなと思っているんです」

ワンポイントアドバイス(近藤房恵・米サミュエルメリット大学准教授) 慢性の病気をもっていると、気づかないうちにストレスが多い生活を送っていることが多々あります。WSではストレスに対処していく方法として、深呼吸のしかた、筋肉のリラクゼーション、イメージ法を学びます。  深呼吸は、呼吸の改善のみならず心を落ち着けるためにも活用できます。筋肉のリラクゼーションは、頭から足先までの大きな筋肉の緊張と弛緩を繰り返すことにより、深いリラクゼーションに入っていくという方法です。イメージ法は、心身をゆったりした状態にして、心が休まるイメージのシナリオを聞いて想像の中にひたっていくという方法です。参加者は自分の気に入った方法を生活に取り入れているようです。
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