寄稿文1
医療現場で、尺度や整合性を共有できない理由はいくつかある。まず、医師が「病だけを診て、人を見ない」場合。尺度を伝えても尊重してもらえないなら、即刻医療機関を換えるべきだ。その権利もある。また、患者が病状を正しく知らされていない場合もあるだろう。だがそんな例より遥かに多いのが、患者に尺度がないか、あっても実現不可能な要求をすることらしい。
尺度を持たない人間なんているはずがない、と思うかもしれない。しかし「お任せします」で、一切を委ねている人に思い当たらないだろうか。かくいう私の亡父(元高校教師)が、そうだった。もし病状を正しく知らされ、自分なりの尺度も持っているのに「お任せ」するとしたら、その態度は矛盾している。
『ロハス・メディカル』誌上で、養老孟司氏は、「日本中に不死幻想が蔓延している」と分析した。
つまり、自分が死に向かっていると認識し受容していれば、医療は最期の時をより良く過ごすための手段であって、目的ではないと思い至るはず。自分なりの人生の締めくくり方を主張するはずである。死を受容せず、元の生活へ戻れると思い込んでいるから「お任せ」になる、というのだ。不死は、明らかに自然原理に反している。
死があるからこそ「生きる」がある
生死にかかわる病を得た人は、あることに気づいた瞬間から人生が輝いて見えるようになるという。何に気づくのか。それは、死を受容することと近いのかもしれないが、こういうことらしい。自分が何をしようが、やがて自分の命が尽きることは変えられない。そして命が尽きるのは、遅いか早いかの違いはあれ、万人に等しく与えられた運命である。一方、自分の努力次第で変えられるものも世の中には山ほどある。
このことに気づけば、「良く生きる」尺度も定まってくる。その意味で、病を得ることは決してマイナスだけではない。また、この気づきには、病を得ることが絶対条件というものでもない。
自らの命に限りがあること、人間に変えられるものと変えられないものがあることを直視し、自分の人生を自分で引き受けると覚悟が決まれば、必然的に自律が生まれ、また同じように自律して生きている他者への敬意も生まれる。
恐らく、これは人に教えられて学ぶのでなく、実体験を通して自ら体得する必要があると思う。その素地を総合的学習で作れるなら、素晴らしいことではないだろうか。
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