寄稿文1
「総合的学習を創る」06年11月号
「生きる力」の育成をめざす、それが総合的学習だという。言葉としては明瞭だが、説明しろと言われると困ってしまう。
今回ご縁があって原稿を書かせていただくにあたり、自分の現在取り組んでいることと、総合的学習とに一体どういう関係があるのか考えてみた。
最初は、混沌として像を結ばなかった。しかし、頭の霧が晴れるにつれ、大きな共通点があると思うようになった。
「生きる」とは何か
私は、患者さん向け月刊無料情報誌の『ロハス・メディカル』というものを発行し、首都圏の基幹病院に置いている。昨年9月に創刊し1年を経過したところだ。
昨今、医療不信が高まり、患者さんと医療従事者との間がとてもギスギスしているという。そして、本来は両者の間を仲介すべきマスメディアが、偏った情報を流すことによって、むしろ軋轢を増幅している(教育に関しても、まったく同じ構図があるように見受けられるが、今回は本題からそれるので触れない)。危機感を募らせた医師たちから、架け橋としての役割を託されたのが『ロハス・メディカル』だ。
疾病や医療に関する基礎的な事柄を、毎月お知らせしている。一般の健康雑誌と大きく違うのは、「患者が自ら治るのであって、医師や薬が治すのではない」ということと、「世の中には、人間の力ではどうにもならないことがある」ということを、一貫して述べ続けていることだ。
さて、話を戻そう。「生きる力」とは何だろうか。定義するには、「生きる」とは何かをまず定義する必要があると思うのだが、それは可能なことなのだろうか。
生物学的に「生存している」だけならば話は簡単だ。しかし、「生きる」といった場合、言外に「より良く」という能動的な意味を包含しているはずだ。そして「良い」とか「悪い」という価値観を持ち出した瞬間に、その定義は各個人の問題になって、普遍性を持ちえなくなる。
「生きる力の育成」はナンセンスだと言っているわけではない。何を「良く生きる」の尺度にするか個人によって異なる以上、生きる力の育成をめざして他人が教えられるのは、「自分なりの尺度を持ちなさい。その尺度が社会や自然原理と整合性のあるものか、不断に問い直しなさい」という事までではないか。踏み込んだとしても、整合性の判定の仕方を教えられれば御の字でないかと思うのである。
この「自分なりの尺度」と「社会や自然原理との整合性」が、我々の取り組みでもキーワードになっている。現在の医療不信を招いた原因は、患者と医師とで「尺度」「整合性」を共有できていないことに尽きると感じており、そのギャップを埋めることこそが『ロハス・メディカル』の使命と考えているのだ。
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