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ニュース〜医療の今がわかる

桑江千鶴子先生より寄稿

下記、文章を頂戴いたしました。
謹んで掲載させていただきます。


  「医療裁判で真実が明らかになるのか」
―対立を超えて・信頼に基づいた医療を再構築するためにー
    2008.8.30   都立府中病院産婦人科部長
             桑江千鶴子

 医療事故にあった方あるいはその家族が、異口同音に言うこととして「何が起きたのか真実が知りたい」「二度とこのようなことが起きないようにしてもらいたい」ということがある。この思いに対して異論のある人は医療提供者側にも医療受給者側にもいないだろう。このことを深く考えるにあたり、今回無罪になったとはいえ、福島県立大野病院事件は実にいろいろなことを提供してくれた。私は、現在産婦人科臨床現場に身を置く医師として以下のように考えている。

 原点は、「どうしたらより良い医療を受けることができるだろうか。」「どうしたらより良い医療を提供することができるだろうか。」というのが医療受給者・提供者の共通の思いであるということだ。およそ人間が生きている社会において、病気や怪我は必ずあって、できればそれを治して寿命をまっとうしたいという人間の欲望があり、それを治してあげたいと思う人間がいる限り、医療は存在する。しかし、時代や国によってその医療内容は大きく変化している。根源的な問題から考えない限り、医療提供者側と医療受給者側が寄り添うことはできないだろう。本来ならば、共通の敵は病気であり怪我であって、協力して戦うべき同志であるのにもかかわらず、現在の日本では、医者と患者は敵対していがみ合っている。日常的にそうではなくても、少なくてもぎすぎすした関係であることは間違いない。このような状況が、双方にとって良かろうはずはない。もう一度原点に戻って、考えてみたいというのが私の提案である。

≪内容≫
(1) 現在とは―縦糸と横糸の交わるところ
(2) 医療とは何か
(3) 産科医療について
(4) 「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために
(5) 病院勤務医師の労働環境の改善が急務
(6) 最後に・・信頼に基づいた医療を再構築するために
  前提と提案
≪本文≫
(1) 現在とは―縦糸と横糸の交わるところ

 およそ物事を理解する方法はいろいろあると思うが、縦糸である歴史的視点と横糸である世界的視点は重要である。現在の日本は、その両方の糸が交わったところであると考えれば、置かれた状況が理解しやすい。

 人類の歴史上で、麻酔薬が発見されて、痛みのない状態で手術が受けられるようになったのも、気管内挿管という技術で全身麻酔がかけられるようになったのも比較的最近のことである。このあたりの歴史的事実については、「外科の夜明け」トールワルド著(現在絶版―新刊書としては「外科医の世紀 近代医学のあけぼの」)に詳しい。日本人として誇るべきだと思うのは、華岡青洲は、当時日本は鎖国していたので世界的には知られていないが、アメリカのロング医師が1842年にエーテルを用いて手術をしたその38年も前に、麻酔薬を自ら作成し、全身麻酔をかけて乳がんの手術を行っていた天才であったということだ。1804年のことである。麻酔薬が使用できるようになっても、副作用も大きかった。華岡青洲の母親と妻が人体実験として自らの体を提供して、妻が盲目になってしまったのはその一例である。(「華岡青洲の妻」有吉佐和子著に詳しい。)麻酔薬もさりながら、気管内挿管という技術を確立するまでは、大変に苦労している。開胸すると肺がしぼみ手術できなかったので、肺がんの手術はできなかった。手術する部屋を陰圧にしてみたが、開胸すると肺がプシューといってしぼんでしまい、患者が死んでしまうというような試行錯誤を繰り返していた。気管内挿管という技術を確立して、安全に全身麻酔をかけられるようになったのは、比較的最近のことである。1869年(明治2年)Trendelenburgが始めた時は、気管切開をして管を気管に挿入して行った。その後1880年(明治13年)Macewenが経口的挿管をはじめておこなった。日本で林周一らがはじめて気管内挿管を行ったのは、1949年(昭和24年)つい60年前のことである。外科医が手術を比較的安全にできるようになっても、たとえば腸を縫合するという一例をとっても、いくら縫い方を工夫して縫っても、縫合不全で腹膜炎となって死亡するという試行錯誤を繰り返し、やっと「アルベルトーレンベルト縫合」を発見して腸の縫合が比較的安全にできるようになった。このような例は枚挙にいとまがない。医療は試行錯誤の歴史でもある。どんな治療も試行錯誤なくしては発達してくることはできなかった。どんな標準的治療法であっても、その治療法が確立するまでには、大変な数の施行錯誤があったであろう。ただ理解してほしいのは、ほっておけば確実に死んでしまったり、苦痛からまぬがれ得ない患者を治そうとしての試行錯誤であったのであり、治療法ができればたくさんの人の命が救われるということである。そして、現在行われている医療も、その歴史の流れのなかのひとコマに過ぎないし、これからも医療は進歩し続けるということである。医療内容は変化し続けるし、新しい病気は常に発見される。それに対して新しい治療法を施行錯誤して確立してゆくことは変わりない。すでに確立して今後も変化しないであろう治療法も多くあるだろうが、しかし、私が大学医学部で勉強した当時の治療法は、現在行われていないものも多い。治療法は変化してゆくので、常に最新の治療を提供するということは理論上の考えであって、それが最善であるかどうかは時がたって評価が定まらないとわからない。出ては消えてゆく治療法もまた綺羅星のごとくある。歴史的にあとから振り返って評価しなければ、わからないことがたくさんある。人間のやることは不完全であり、現在目の前にいる医師もまた歴史に流されている一人に過ぎない。医療の歴史への理解と、人間の不完全性への理解を共通認識としなければ、医療提供者と受給者とは話し合いのテーブルにつくこともできない。

 医療が発達してきた歴史を無視することはできないし、これからも試行錯誤を繰り返して医療は発達してゆくものである。それを理解しないでは医療の恩恵そのものが受けられない。現在でも手術は絶対安全というわけではまったくないし、結果はやってみなければわからない。およそ外科系医師であれば、誰でもが思っていると思うが、手術はやってみなければわからないものであり、絶対に治る「神の手」は現実にはありえない。誠実で良心的な医師であればあるほど、謙虚にならざるを得ないのは、相手は人間で自然そのものなので、我々人間の英知の及ぶものではないからだ。現代でも「神がこれを治し、医者は包帯を巻く」ことには変わりない。人間の体は複雑で、わかっていないことばかりである。例えば私の専門の婦人科手術に関しても、骨盤内の解剖でも十分わかっていないのである。それでも手術をしなければならない状況であり、実際に婦人科癌の患者さんがいたとして、解剖が完全にわかっていないからといって手術しないということはできない。わかっているところまでで治療せざるを得ないし、それでも手術をして癌が治ることも多い。医療はかくのごとく不完全なものであることを、医療受給者側は理解してほしいと思う。

 また世界に目を転じてみれば、医療体制は「sicko」(2007年マイケル・ムーア監督アメリカ映画)を見てもわかるが、国によって全く違う体制をとっている。アメリカは完全に資本の論理、保険会社の論理で医療提供を行っており、一度重大な病気になったら破産することも多い。重大な病気でなくても、中産階級で保険料を支払っていても、虫垂炎の手術や出産費用で破産して、路頭に迷うことは多々あるということだ。「ある愛の詩」というアメリカ映画でも、白血病になった妻の治療費を工面するのに、夫は仲違いしていた金持ちの父親にお金を借りに行っていたが、夫は成功している弁護士であった。それでも白血病の治療費は出せなかったのであろう。お金があれば、確かに最高水準の病院で医療を受けることができるので、お金持ちには良い制度と内容の医療であろう。反対に、医療は国が提供していて医療費の自己負担は無いかほとんど無いという国も多い。先進諸国と言われる北欧の諸国、英国、フランス、先進国ではないがキューバなど。質に関しては、その国で医療を受けた人の書いた本などを読むと、医療費の自己負担があるかどうかという問題は別として、日本と比較して羨ましいということはないし、平均的な治療という意味では、日本の医療はそのアクセスの良さもさりながら量・質ともに世界でもトップクラスである。日本は世界の中でも、「国民皆保険制度」のおかげで、比較的安価で質の高い医療を受けられる良い国である。近年WHO(世界保健機構)の健康指標で日本が第一位になったのは記憶に新しい。女性の平均寿命が世界一で、男性は下がったとはいえ第3位であることは、医療の水準や医療体制と無関係ではない。外来患者さんの中には、普段は外国に住んでいるが、医療特に手術だけは日本で受けたいと言って、日本に帰国して受診してくる人が結構いる。

 私の専門である産婦人科に目を転じてみれば、分娩で命を落とす母親は、ユニセフの統計によれば、世界の平均では250人に1人である。言い換えれば10万分娩につき400人の母体死亡が世界の平均である。アフガニスタンでは10万分娩につき1900人、52人に1人であり、これは医療介入がなければこうなるという数字である(最新の数字は8人に1人であり悪化している)。新生児死亡や死産はもっと多い。母子ともに、いわばお産で死ぬのは自然現象であり、現地では誰も文句は言わない。10万の分娩につき命を落とす母親は、アフリカ全体では830人、アジアでは330人、オセアニアでは240人、ヨーロッパでは24人という数字であるが、日本では5~6人である。日本は、スウェーデンと並び世界で最も安全に分娩ができる国の1つであるのだ。しかし0人の国はない。母子ともに分娩で命を落とすのは、いわば自然現象の一つであり、それを救えない医師のせいではない。日本ではこの数字を実現するために、多くの人が長い間努力をしてきた。母体死亡の世界の平均的数字は、日本では昭和の初期頃に相当する。歴史的にも、世界的にも、日本の産科医療は進歩し続けて実力をつけ、世界のトップクラスの成績を実現してきたと言える。産科医が減っている現在でも、臨床医は母体死亡を0にするべく努力をしているし、新生児死亡や障害を無くしたいという思いで働いていることは、現場にいる私は良く分かっている。しかし現実的には、今後これ以上の成果を出すのはかなり困難であろう。産科医が減っていて産科医療崩壊が現実のものとなった今では、歴史が逆戻りすることも予想されていて、医療立て直しは待ったなしの状況にある。

(2) 医療とは何か

 仰々しくこのような命題を持ちだしたのは、本来の医療という仕事を考えた時に、その本質を理解しないと、やはり深い溝が埋まらないと思ってのことである。

 例えば、癌を治すために使う抗がん剤は、本来は人間の体にとっては毒である。癌を治すために使うものといっても癌を発生させる発がん物質ですらある。放射線治療も同じことで、癌も治すが、二次的に癌を発生させることもある。薬というのは、主作用と副作用という人間の体にとっては相反するような作用を持つものであるが、副作用のない薬はない。また他の病気では重大な副作用であっても、他の病気ではその副作用が主作用であることもある。例えば、サリドマイドという有名な薬は、本来は睡眠薬であるが、この薬を服用した妊婦さんから生まれた赤ちゃんに四肢の奇形が発生することがわかって、今は妊婦さんへの使用は禁忌である。しかし、その薬の副作用と考えてもいいであろうが、多発性骨髄腫という血液癌の一種への有効性が1990年ごろに確認されて以来、患者さんを救っている。そういうこともある。サリドマイドが発売されてから、服用している妊婦に四肢の奇形の赤ちゃんが多く生まれるということに気がついた医師がいたが、まさにそのサリドマイドが胎児に奇形を起こすことを証明することが難しく、当時大論争になった。学者の中には、サリドマイドが原因ではないという自分の学説を証明するために、妊娠している自分の娘か妻に服用させて、大丈夫であると証明したという話もある。かくの如く、サリドマイドですら妊娠中に服用しても生まれた赤ちゃんが必ず奇形になるとは限らないので、予見性が困難であるのが医療である。医療は、人間を器械を修理するように治療するわけにはいかない。理屈通りにはいかないし、良く分からないことはたくさんある。   

 手術にいたっては、刃物を持って人を傷つけたらだれでも障害罪を適応されてしまうが、医師が手術でメスを用いることは許されている。医学生ですら死体を解剖するすなわち傷つけることが許可されている。医師免許を持っているあるいは医師になる者だけに許されている特権である。しかし、このような仕事のための特権を許可されているばかりに、権力を持っていると勘違いしたり、患者側も医師を生殺与奪権を持つ権力者と思う人もいる。しかし、薬という毒を使えたり、人の体を刃物で傷つけたりできることはすなわち医療という仕事の内容であり、それ以上でも以下でもない。しかもそれを行うのは不完全な人間であり、受ける側はこれも予見が不可能な自然性を持った人間であることが、困ったことに医療の本質であるといえる。

 薬の使い方や量について不適切であったり間違えれば、人間の体に悪影響を及ぼし、障害を与えたり死亡させたりすることもあるが、適切に用いていても予測できないアレルギー反応や副作用がおこり障害を与えたり死亡することもある。しかしうまく用いれば病気を治したり、苦痛を緩和することができる。手術にしても、病気を治すために行うものであるが、治すことばかりではなく、目的とする治療効果が必ずしもあがらなかったり、合併症で予期せぬ結果が起こり悪くなることも死亡することもある。検査でも同様のことは起こりうる。こういうことは医療という仕事の性質上あり得ることである。人間は不完全であり、間違えることもあるが、仕事が医療であるということと、不完全な人間が医療を行うという現実は変えることができない。医療提供者は、医療を仕事とすることで、間違いをしなくなったり、神と同じような完全な人間になれるわけではない。そもそも人間が人間を治そうとして、薬にしても手術にしても、そういう害を及ぼす可能性がある手段を用いて生業(なりわい)をするということに、医療の根源的な問題がある。

 我々医療提供側の人間は、現在の日本では、完全に病気や怪我を治すことを求められるが、そのようなことは神でもない人間にできるわけはないので、「どんな状況でも絶対に間違えずに病気を治せ、怪我を治せ」「手術・検査・投薬で思わぬ悪い結果が出たら罰を与えるし、責任を取って罪として償うべきだ」ということを個人として要求されていて、苦しくなっていたたまれず、医療現場から兆散してゆく。これが医療裁判の形をとっている医療崩壊の実態である。医療提供者は、医療受給者と同じ人間である。まったく変わるところはない。しかるに、医療を仕事とした途端に、神として振る舞うことを要求されるのである。こんな人間性を無視した仕事の仕方や体制が、今後継続してゆけるわけはない。その結果が医療崩壊である。こういった根源的な問題が理解され、共通認識とされてはじめて、国から免許を与えられた普通の人間が、少なくてもその時の医療レベルで実力を発揮して全力を尽くせば結果に関しては問われない、という対策や体制を構築する、という話し合いのテーブルに着くことができる。人間なので間違うこともありうるが、それを最大限に防ぐにはどうしたらいいのか、という体制の構築についても話し合うことができる。

 特に産科医療は、分娩あるいは妊娠中でも患者は急変する。予見できないのに重篤な状態になり、母子ともに死亡することがある。これをすべて救うことはできないのに、専門家でもない裁判官に医師の過失と判断されるのである。これでは、誰も産科医になろうとはせず、せっかく産科医としての技術を習得しても辞めてしまう医師が後を絶たない。

 現在のこの状態は、本当に国民が望んでいる状況なのだろうか。

 ごく当たり前の人間が行っている医療という仕事を、なるべく良い状態で受けられるようにする、あるいは提供できるようにすることは、どちらにとっても望ましいことである。医療提供側は忙しくて過労死する状態で休みもなく、しかも完全な医療を要求されているのが現状である。少し冷静に考えれば、そのようなことが普通の人間に可能であるわけがない。医療の本質を理解して、より良い体制を構築し、ごく普通の人間が行っても間違いが起こりにくいような条件のもとにできるような医療体制にしなければ、誰でもどこでも、良好な質と量の医療を受けられるようにはならない。このことを真剣に議論すべき時だと考える。

(3) 産科医療について

 今回の福島県立大野病院事件について、結果無罪が確定したとはいえ、我々産科医としてはこれで問題が解決したわけではない。もし有罪であったら産科医療崩壊は加速度がついた状態で手の打ちようがなくなったと思うが、今しばし時間の猶予があるかもしれない、という状態になっただけで本質は何も変わっていない、と現場の産婦人科医は考えている。なぜ産科医療が特に医療崩壊の先頭をきっているかといえば、分娩は急変するし予見が難しいからである。しかも、新しい命を生み出すという、人間にとってあるいは人生でも最も喜びに満ちた瞬間が得られるという期待があり、その期待が一瞬にして打ち砕かれるという残酷な結果があり、しかも妊娠が許可されているような若く健康である妊婦さんに起こる悲劇であるので、遺族の方にとっては容認できるような状態ではないからである。病気という認識がないし、分娩が危険であるという認識も昨今では失われているからである。これは近代産科学が血のにじむような思いをして作り上げた結果であるが、「分娩の安全神話」がまかり通ってしまったためでもある。本来の分娩は冒頭に述べたように、実に危険を伴うものであるが、日本では10万人に5~6人位しか命を落とさず、身近に感じるような危険ではなくなってしまったからでもある。そうは言っても日本ですら交通事故で死亡する確率と同じくらいであるので、それほど少ないわけでもない。

 いくら説明を尽くしても、家族が当初から分娩が安全であると思っていれば、結果が母体死亡である場合には、医療ミスではなくても、遺族に理解してもらうことは不可能に近い。誰かの責任にしなければやりきれない、娘や妻を失った無念の思いは晴れないのであろう。現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、面倒なことにはかかわりたくないとして、産科医を志望する医学生は減り続け、また基幹病院特に公的病院からのベテラン医師、中堅医師の現場からの兆散が止まらない。今回の無罪確定をうけても現実の産科医療崩壊は止まらないと思う。
 
 私が現場にとどまっている理由は、自分では先輩達が血のにじむ思いをして取得してきた産婦人科医療技術を次の世代に渡したいからである。医療技術は失うのは簡単だが、今後取得することはもうできないと思う。日本の産婦人科は、外科もそうだと思うが、技術的には世界的に見ても優れたものを持っていて、私たちは先輩から誇りを持って教わってきた。子宮癌における岡林術式―広汎子宮全摘術、日本で完成された骨盤位分娩を安全に経膣的に行う方法、やはり日本の辻先生が完成された様々な経膣的手術、その他多くの医療技術は、長い年月をかけて訓練され、自分でも努力して習得してきた。多くの産婦人科医が臨床を離れていく現場で、このような技術は急速に失われていくと思われる。もし将来的によい時代が来るとして、細々とでも炎が残っていれば、オリンピックの聖火のようにまた燃え上がる炎にすることができるかもしれないが、一度消えてしまえば二度と火をおこすことはできないだろう、という思いが私を現場に留まらせている。多くの外科系医師が私と同じ思いであろうと想像する。
 
 産科医療は、短時間に急変して母子ともに危険な状態になることを他科の医師にすら理解してもらうことが困難であるので、医療事故になる割合が高く裁判になることが多くても孤立しがちであったが、大野病院の事故については多くの医師の同情と共感と危機意識の共有ができた貴重な経験であったと思う。今後も、踏みとどまっている現場の医師は、より良い医療を提供するために積極的に議論し、新しい医療体制を構築してゆきたいと考えているし、このような医師がいる間に議論が煮詰まってくれることを念じている。しかし、それほど時間が残されているとは思えない。

(4)「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために

 医療事故が起きたと仮定すると、家族がその場に居合わせるということが日常的には行われておらず、特に手術室の中であったりした場合には、その状況を正確に家族に伝えることが現実にはできていない、という問題がある。医療裁判を起こす理由として、「何が起きたのか真実を知りたい」という家族の願いがある。裁判所は真実を裁判で明らかにしてくれるだろう、あるいは明らかにしてくれるに違いない、という家族の期待がある。そして、家族の医療側への不信感として、医師は嘘をついている、カルテの改ざんが行われている、医療者は口裏を合わせてかばい合っているに違いない、といった感情があるし、現在は、残念ながらそういった事実もあるであろう。

 しかし、ここで冷静になって考えて欲しいのは、「正直に何があったのか事実を話してほしい。でも正直に話せば、罰を受けますよ。」という状況で事実を話すということが、人間の性(さが)として有り得るのか、ということだ。有名なワシントンの桜の木の話は、お父さんの大事にしていた桜の木を誤って切ってしまった、という事実があって、正直に話したら怒られるだろうから話したくなかったが、正直に話したら、意外なことに褒められた、だから勇気を出して本当のことを話せばいいことがありますよ、ということだ。後にアメリカの初代大統領になるくらいの人物であるから、普通の子供ではなかったであろうが、それでも結果がまずくいっているときに正直に話すということはすごく勇気がいることだという逸話があるくらい、何か結果が悪く出たのを自分で知っていて、正直に話すということは大変苦痛を伴うことである。「褒められる」というご褒美があるかもしれないから、正直に話しなさい、と逸話はいっているのである。これがご褒美どころか、正直に話せば話すほど自分が罰せられるという状況で、医療という仕事をしているの(はあなたが悪いの)であるから、そのような罰則付きであろうが、逮捕され勾留されるかもしれないが、正直に事実を話さなければならない、と言っているのが、現在の医療裁判の論理である。これでは、我々医療者は苦しくて仕方がない。こんなつらい仕事はやめてしまおう、と言って現場を離れているのである。人間の性(さが)を理解しないで制度を作れば、破たんするあるいはうまく機能しないことは目に見えている。

 いざ裁判になれば、自分に不利になる事実は話さなくても良い、ということで人権が守られているので「黙秘権」が適応されるし、行使することも当たり前にできる。医療者といえども日本国民であること、人権が守られている存在であることは何人も否定しようのない事実であろうから、医療裁判でも黙秘権は行使できる。しかしそうした場合には、「何が起こったのか真実を知りたい」という願いは永遠にかなわないことになる。

 人間性についての理解が共通認識でなければ、深い溝はいつまでも埋まらない。

 まず何よりも、そこで働いている人・かかわったすべての人に事実をありのままに話してもらうことが絶対に必要だというのであれば、「事実を正直に話してもらう」ためには、そうしたところで個人は不利な扱いを受けない、ということを共通理解としなければ無理だと思う。目の前に鞭を持っていて「正直に話せば鞭で打ちますよ。」と言っていたら、人間は弱い存在であるので、誰も話しはしないだろう、という想像力を持ってほしいと思う。おおむね日本以外の国ではそうした制度になっていることは、理由があると考えて欲しい。ここで問題にしなくてはならないのは、「医療事故」は本当にその個人だけの責任なのか、ということである。個人を罰すれば解決するのか、それが最終目的なのか、それが再発防止になるのか、という点についても考える必要がある。裁判という手段は個人を対象にするのであるから、どうしても個人を裁かざるを得ないが、それが最良の手段であるのか、ということだ。

 事実を知ることは基本である。その上で、なぜ起こったのかを皆で考えて、再発防止をするためにはどうしたらいいかを考える、という道筋において、まず事実を知るためには、そうすることで個人は不利な扱いを受けない、という大原則を打ち立てて守らなければならない。もし、そういうことが共通理解になったら、誰もカルテを改ざんしたりはしないだろう。嘘をつく必要も、お互いをかばいあう必要もなくなる。客観的に事実を知ることだけが真に必要であれば、事実を話さないということに対して罰則を設ければよくなる。事実を話さないほうが不利な扱いを受けるのであれば、事実を話さざるをえなくなるだろう。人間性としては、その方がはるかに自然だ。

 医療者への不信感が払拭されれば、もっとずっと医療事故についても受け止めやすくなるし、その結果として事実確認も容易になり、補償についてあるいは再発防止の話し合いにすぐ移れると思う。患者家族の悲嘆や悲しみを受け止める機関は必要だと思うが、そこには失われたものへの悲しみはあっても、医療者への不信感が生じなくなるだけ、まだ前向きな気持ちになりやすいのではないだろうか。かかわった医療者も結果が悪くでれば平静ではいられない。人間であるし、もともとそういう病気と向き合おうとして医療従事者になっているのである。動揺し、悲嘆にくれているのは家族ばかりではなく、医療者もまた動揺し悲しみにくれているのである。そういった経験がその後の仕事や人生に及ぼす影響も無視できない。医療者もまた深く傷ついているのだ。医療事故や裁判をきっかけに、それが有責になっても無責であっても、臨床医を辞めてしまう医師は後をたたない。こうして貴重な人材が裁判のたびに失われていく。不利な条件でも積極的に患者の命を救おうとした医療者ほど、リスクのある治療を引き受けるので、結果として医療事故にあいやすい。したがって辞めていく医師は深く傷ついて居り、臨床現場に戻ることはない。これは大変な損失と言える。一人の熟練した医師を育てるのには、大学医学部を卒業してからも、10年以上かかる。そう簡単に補充できるような状態ではない。後に続く医師は、そうした現状を目の当たりに見るので、同じ道には進もうとしない。そうではなく、もし、共通した悲しみに向き合うことが個人攻撃なくでき、医療裁判という手段で解決するという道がなくなるのであれば、再発防止や保障の話し合いも積極的に進み、医療レベルの向上にもすぐ取りかかれると思う。貴重な人材を失うことも少なくなるだろう。それなのに双方を対立させ、感情的に憎ませ、怒りを持続させ、裁判を行っている間の長い間に繰り返し現場を再現させることで、その感情的対立は否が応でも激しくなる。医療事故が起きれば、医療側も当然反省したり後悔しているし、あの時にこうしていれば良かったかもしれない、ということも当然考えている。そうした思いから次により良い治療につなげることもできるかもしれないし、どうしたら防げただろうか、という対策につながると思うが、裁判になれば、勝つことを考えなければならず、そういう前向きな対策よりも目の前の裁判のことだけしか考えられなくなる。裁判にかかわったことがある人であれば理解してもらえると思うが、そのために費やすエネルギーは膨大でしかも負のエネルギーである。時間もかかる。できるだけ短時間で事実を明らかにして、どうしてそういう事故が起きたのかを検証できれば、次につながる状況が作れるのにと思うと、現在の状況は実に残念と言わざるをえない。医療裁判は、双方にとって良いことは何もない。
 
 被害者感情としては、「懲罰感情」「報復感情」があると思うが、医療者への憎しみや怒りを、その個人に刑罰を与えるという最終目的に置き換える、個人を罰するということが達成されるということで、家族は本当に満足するのだろうか。あるいはそれが唯一無二の慰められる方法なのだろうか。医療者への憎しみや怒り・懲罰感情・報復感情と「真実を知りたい」・「再発を防止したい」ということと、両方の願いを一度に満足させ成り立たせることはできない。前者を徹底させれば、おそらく医療現場に残る人間はだれ一人いなくなる。なぜなら人間は、完全でもなく完璧でもなく誤りを犯す存在だからである。現在でも、外科系診療科現場から医師は撤退し、残っている医師も手術を回避したり、少しでも危ない治療や検査はやりたがらない状態になっており、そういう意味では医療内容的にも医療崩壊が進んでいる。医師がいなくなるばかりではなく、その内容的にも崩壊が進行している。大局的にみてどういう方法が真に国民のためになり、できるだけ安全な医療をどうしたら再構築できるのか、感情的にならずに議論するべきと考える。

 医療の進歩について考えると、医療裁判がこれだけ増加していて委縮医療が進んでいると、あらかじめ評価の定まった治療法しか提示できなくなるし、うまくいかなかった症例を皆で共有して改善しようという動きも抑制される。そういう事例を提示すること自体が危険であるので、誰も提示しなくなる。今もそのような動きが進行している。つまり医療の進歩にも赤信号がともることになる。その影響の大きさは、しばらく時がたたないと目に見えるような形にはならないだろうが、そうなったときには立て直すにも大変な時間と労力が必要になる。

 医療事故が起きた原因が医療提供体制に問題があるのであれば、体制を改善しなければならない。その責任は、その医療施設の設置者あるいは医療制度を整えるべき立場にある国にある。改善すべきところは改善し、正さなければならないところは正さなければならない。ただ、その個人に問題があることも当然ありうるが、その時には評価して研修する制度をつくるなり、その個人がその仕事にふさわしいか、免許剥奪を最終手段として、そういうことなどを判断することが必要となる。医療に従事するにあたり必要な免許を付与しているのは国であるから、当然国が中心になってそういった体制を整えるべきだと思うが、その時に判断する中心となるのは、専門家集団がそれにあたることが必要だろう。医師であれば医師、看護師であれば看護師、薬剤師、検査技師、放射線技師、等々。どうしても専門的判断が必要になるし、専門外の人間には理解しがたい事例は必ず存在する。専門家集団が責任をもって、その人物に対しての評価や行った医療行為に対する判断をくだすにあたり、ここでまたお互いをかばいあうのではないかということが不信感を持っていれば考えられる。しかし、私は徹底的な情報の開示、透明性の確保がなされればそういうことはできないだろうと思う。専門家の中でも良心的な人達というのは必ずいるので、情報が開示されていれば、明らかにかばっていれば他から見てもおかしいので、少なくてもその時の医療レベルについて真摯な議論はできる。議論の過程が公開されていれば、透明性が確保されているので、プライバシーには配慮するとしても、議論の質は落ちないだろうと思う。

 医療界としても自浄能力が問われる事態となっており、全力を尽くして自浄能力があることを証明しなくてはならない。今後、お互いの不信感を払拭して、不必要で傷つけあい、真実を明らかにするには実に不毛な裁判を避けることができるのであれば、自浄能力をいかんなく発揮して、このような制度を構築することは、真にやりがいのある施策となるであろう。立法・行政・司法とも協力して、このような誰にとっても有益な制度を構築するために、医療界あげて英知を尽くし、新しい制度を作るべきだと思う。

 医療という自分の仕事を利用して、故意に人を傷つけたり、死に至らしめたりすることは明らかに犯罪であるので、今までの議論とは一線を画さざるを得ない。こういったことが疑われる場合には、警察の捜査が必要であろうが、警察への通報を誰が行うかという問題は残る。家族がいきなり警察に通報するというのも不自然であり、通常は医療施設に訴えて判断してもらったり、調査してもらったりするのが普通であろう。その上で「この事例は医療事故ではなく犯罪だろう」とか、故意に傷つけたり死亡させたりした疑いがあるのであれば、警察の捜査がはいることになるのが自然だろうし、その際に警察に通報するのは、医療施設が行うことになるのが、家族が納得する経過だろうと思う。ただし、この辺については、まだ議論の余地があるであろう。
  
(5)病院勤務医師の労働環境の改善が急務

 およそ医師という職業が国家資格として認められたのは日本では明治時代からであり、それほど歴史があるわけではないが、その当時は医師と言えば開業医を指していた。しかも開業医は全員産婦人科医でもあり分娩を扱っていた。例えば今年生誕100年を数えるカナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリーが書いた「赤毛のアン」には、アンの結婚相手のギルバートという医師が出てくるが、彼は日常的にお産に呼ばれていて、いつも疲れている。また「風と共に去りぬ」は南北戦争さなかで南部の敗戦が濃厚になったころのアトランタという都市が舞台であるが、主人公のスカーレットは、従妹のメラニーがお産になるといって野外で傷病兵を治療している医師を呼びに行っている。約140年前のことであるが、当時病院勤務医はいなかった。その後、医療の中身も劇的に変化して病院勤務医が出現して、その数も多くなり、開業医と病院勤務医の比率も変化した。たとえば産婦人科であれば現在は病院勤務医のほうが多い。病院で提供する医療と、開業医が提供する医療はどの科でもそれぞれ異なるが、その内容も年々変化している。このような状態であるが、病院の医師定数は旧態依然としていて少なく、実際の医療行為の量に比して不足している。医師以外の医療従事者も不足している。家庭や地域での怪我や発熱などへの初期治療対応能力の衰えや、高齢者と同居しなくなったからなのか、高齢者の知恵が活用されなくなったなどの理由があるとは思うが、「些細なことでも何でも病院へ」という流れが生じた。これほど多数の救急患者を診る状態になったのも最近のことである。であるから、医師の労働環境については、以前とは全く異なっている。しかし、勤務条件を改善する努力についてはまったく行われてこなかった。ヒポクラテスの誓いにあるように「金銭的なことは求めないという意識」、「医は仁術」「貧しい患者からは報酬は受け取らない赤ひげのような医師が理想」という意識が、医師個人の経済的なことや勤務条件について交渉したり不満の声を上げるのを禁じてきた。「白い巨塔」で描かれたような大学医局のあり方や、大学教授の絶対的権威と存在のもとで、研修中の医師は医局の駒として動かされ、教授が決定した派遣先には異議を唱えないことという暗黙の了解のもとに、勤務条件の悪い公的病院・自治体立病院にも派遣されてきた。医師が、医局の奴隷のような状態に甘んじた結果として地域の医療が維持されていたという側面はある。大学教授や病院長など医師のトップクラスが、病院勤務医や大学病院勤務医の勤務条件を改善する方向に動いてくれることもなかった。この状態が平成16年度からはじまった「新臨床研修医制度」で壊れたために、まず勤務条件の悪い病院から医師引き揚げとなり、医師不足が明らかになった。大学医局や教授の権威も落ちていたため、医師が赴任したがらない病院から医師不足が始まったということもいえる。24時間365日の勤務を余儀なくされる激務の産科・救急・麻酔・小児科などから、真っ先に医師不足が露呈した。

 医師側の事情だけではなく患者側の意識の変化もある。以前のような「パターナリズム」が支配する医療の状況では、患者の権利を主張することもできなかった。患者の権利意識の向上は、アメリカから始まった黒人や女性の解放をめざす「市民運動」の流れをうけたものと考えられるが、それ自体は大変喜ばしいことであると言える。患者の「自己決定権」や「納得と同意」にもとづく医療の提供については、医療の質の向上や均質化にも貢献し良いことだと思う。しかし、実際の臨床現場では、自己決定に慣れていない患者に対して、医学的知識も乏しいために説明にも時間がかかったり、本人の病気への理解が困難であったりして、混乱しているところもある。いろいろな意味で、現在は過渡期なのだと思う。今後、良い方向への流れとなるような努力が双方に必要だと認識している。
 
 現実の病院勤務医の生活について述べたい。ある基幹病院の産婦人科医員の時間外労働は過労死ラインと言われる月に80時間の約2倍の160時間を数える。つまり時間内労働を含めると月320時間在院していることになる。1か月24時間×30日=720時間のうちの320時間ということは、生きている時間のおよそ44%、半分近くを病院で過ごしているということになる。その中には一端帰宅しても、患者が急変したり、救急手術のために再度呼び出される時間が含まれている。が、救急手術に備えて自宅で待機する「オンコール制度」というのがあって、その時間は含まれていない。待機時間を含めて拘束時間を計算すると、人生の大部分の時間を仕事に費やしていることになる。精神的な拘束感覚は、実際の勤務時間以上だが時間数にはあらわれない。これでは正常な人間の生活や、家庭生活は営めない。特に日本では働く女性への支援が他の諸外国に比べてかなり貧弱であるので、女性医師は妊娠・出産を契機に現場にとどまることは困難だ。これは労働基準法で定められた週40時間労働の約2倍という長時間労働である。もし労働基準法を順守するのであれば、在院時間だけで計算すると医師数は少なくても2倍必要だ。しかしそのうちの半分は夜の仕事であるので、夜勤を考えて交代制にすれば、医師数は2倍以上必要となる。現在、その時間外労働のほとんどの部分は無報酬であって、「ただ働き」である。医長・部長といった管理的立場の医師も、仕事内容は管理ではなく外来・手術等実際の臨床をしているが、時間外労働への対価はなく「名ばかり管理職」でもある。現在の病院勤務医は労働時間やその仕事の質やリスクに見合わない低賃金労働者である。しかし病院経営は7割が赤字となっており、特に自治体立病院では8割が赤字経営と言われていて一般会計からの繰り入れをいれても赤字であることも珍しくないし、そのほとんどは人件費であるために、医師数の増加も賃金改善もできない。

 また逆に、労働実態に合わせて医師定数の増加を定めれば、ほとんどの病院はそれだけの医師を確保できないために廃院せざるを得ない。したがって病院勤務医は、根本的に勤務条件を改善することもできない。しかもこれほどの長時間労働を低賃金で働いていても、ひとつ医療事故があれば裁判にかけられて、民事であれば多額の賠償金を支払わされるし、刑事では逮捕・勾留される可能性がある。これほど割に合わない仕事はないとして、産科をはじめとする激務の病院勤務医が職場を放棄しはじめたのが、医療崩壊の本質である。すべてを今のままとして、医師だけに負担を強いる状態では、過労のため集中力の低下が起こり、ますます医療事故や医療過誤がおこりやすくなる。また、医療側にも、医療事故を起こすのではないかという不安やあるいは患者からのクレームの増加に対する精神的負担も大きくあり、厳しい医療現場から逃げ出してもいるし、うつ病などの病気で働き続けられなくなっている医師も多い。良質な医療を提供するためには、まず提供側の人間は心身ともに健康でなければならないか、あるいは健康を維持できるような労働条件でなければならないだろう。多くの病院勤務医が過労死をしたり、過労のために自殺を余儀なくされたり、うつ病になったりしている状態で、どうして良質な医療提供ができるだろうか。このような労働条件のもとで働いている医師に一瞬のミスも許さないというのは、あまりに過酷であるし、現実的でもない。まず、勤務条件の改善と医師不足の改善をしてからはじめて医療事故のないあるいは少ない職場が実現できる。

 そのためには病院でしかできない治療や検査に関しては、少なくても病院経営が成り立つような保険点数を付与するべきである。入院診療にも相応の対価を支払い、十分な医療スタッフを確保できるようにするべきである。医療費全体のパイを増やして、患者さんは安全で安心な医療を受けられるように、医師は現場から逃げ出さなくても済むように、そのための人員配置ができるような診療報酬を設定するべきである。これから日本は未曾有の高齢化社会に突入するが、高齢者は自分が病気になった時に、快適に過ごせるような環境を確保するためには、できる人はそれなりの経済的負担をすると思う。高齢になれば、お金儲けには関心が低くなり、健康問題には関心が高くなる。それなりの環境で安全で快適な医療を受けるためには、負担をいとわない人も多くいるだろう。医療費の高騰を防ぐというより産業として育成すると考えれば良い面もある。医療周辺で生じるサービスをビジネスチャンスと考える人も出てくるだろう。新たな雇用の創出もできるだろう。国民は医療への投資は容認すると思う。何と言っても健康が維持できなければ、働くこともできないし、人生を楽しむこともできない。病気になったらすべてを失ってしまうのではなく、また健康を取り戻して働くことができれば、税金も納めることもでき、国は潤うわけであろう。医療費は抑制するばかりでなく、サービス産業と考えて発展的ににとらえるように出来ないのか、発想の転換ができないのかと思う。

(6)最後に・・信頼に基づいた医療を再構築するために

 どのような仕事でももちろんそうだと思うが、とりわけ医療は医療提供者側と医療受給者側との信頼関係がなければ成り立たず、成果をあげることもできない。しかるに現在のようなお互いに相手に対する不信感に満ちている状態で、仕事をしてゆくことはできないし、成果を上げることはできないだろう。このような状態が続くことは、双方にとって不幸で不利益以外の何物も生み出さないことは、少し考えればわかることだ。なぜこのような状況になったのかは別として、対立を乗り越えるためには、相手を理解できなければ乗り越えることもできないだろう。医療提供者側の人間も医療受給者側になることもある。医療受給者側の人間も、医療提供者が身近にいることもあるだろう。お互いを理解しあうことは不可能なのだろうか。相手の立場に立って考えることはできないだろうか。あるいは相互理解を阻むものは何なのか。
今まで考えてきた観点からの提案をしたいと思うが、前提として以下のことが理解されなければならないと考える。

≪前提とする事項≫
「医療の歴史は試行錯誤であり、歴史的に進歩してゆくものであるが、現在もまたその途中である」
「日本の医療の世界の中での位置づけは、低医療費・医師不足にもかかわらず質量ともに世界のトップクラスの医療提供を実現している」
「低医療費の中身は、病院勤務医師や看護師などの数が少なく、総じて人件費が低額であることが大きい」
「人間は不完全な生き物であり、常に完璧を要求しても実現できない。」
「個人の問題だけではなく、体制の問題にする必要がある。」
「真実を知ること・再発を防止することと懲罰感情・報復感情とは両立しない」
「医療は本来障害的・致死的仕事であり、それを不完全な人間が行うことが医療の本質そのものである」
「医療事故は起こした側も、受けた側同様に悲嘆にくれ悲しんでおり、その後の人生や仕事も左右する。悲しみを共有し、短時間に事実を知り、対策を立てることが共通の利益である。」
「現在進行している医療崩壊を食い止めることは国民的課題であるし、お互いの利益でもある」
「信頼関係を構築しなおさなければ、満足のいく医療を受けたり提供することはできない」

≪具体的な提案について≫
「医療事故が起きたとして、事実を正直に話せるような体制の実現―話すことが個人の不利にならないようにする」
「医療事故は死亡例のみならず、すべての事例を対象とする」
「話された事実に基づいた専門家集団による調査の施行と報告」
「この段階であまりに些細な事例は排除される可能性を含む」
「医療事故を受けた側の悲しみに共感し傾聴する機関の存在」
「専門家集団による調査経過・調査結果の開示。その場合の透明性を確保する必要性」
「専門家集団の自浄能力の発揮・自律性の確保」
「再発防止策の提言と実現」
「犯罪との区別と警察の関与について」
「医療事故被害者への経済的補償」
「悪質あるいは高度過失事例を行った医療者の評価と研修、免許の取扱について」
「立法・行政・司法との対等で真摯な協議の努力」
「医療提供者の健康被害の防止と勤務環境の整備と待遇改善」
「病院経営の健全化とそれによる適正な人員配置」
「信頼関係の構築に向けての相互の努力」等
   
 医療は提供者側と受給者側相互の信頼関係に基づいた契約関係であるので、現在のような不信感に満ちた関係では、実際の行為の医療崩壊だけではなく、信頼関係の崩壊がその本質になってしまうだろう。何とかこれを払拭して、新しく愛情と英知に満ちた医療制度を作り、後世に残さなければならない。  
 これから生まれてくる子供たちや、育ってくる若い世代に向けて、医療提供者側と医療受給者側、双方が100点満点ではなくても、それなりに満足できる体制を再構築するために、今後より一層努力してゆかなければならないと考える。           
以上

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