命を生きることの喜びを、伝えたい

投稿者: 熊田梨恵 | 投稿日時: 2013年02月17日 07:20

ここ数日、インフルエンザで寝たきり生活でした。

凄まじい頭痛と関節・筋肉の痛み、高熱、咳、悪寒などのフルコースに襲われながら、寝るしかないのに、寝ようとしても痛みと咳に邪魔をされて睡眠不足になるという、「神様、これは拷問ですか」と問いかけたくなるような2日間でした。

3日目になって、ようやく起き上がって何かしようというところまで回復。

寝たくても寝られない、夢うつつの頭で私がぼんやり考えていたのは、今から15年ぐらい前に、同じようにこうしてぼーっと突っ伏していた私。

でもあの時は、ベッドではなくて、部屋の床でした。

もう受験なんて意味がないからやめよう、と思っていた、18歳の私でした。

その時突っ伏していたのは病気のためではなく、日本軍が朝鮮半島を侵略したときの話だとされる「語り」を、聞いたからでした。

高校生当時の私を知る人は、真面目で何の面白味もない子だと思っていただろうと思います。

そんなに明るくもなかったし、運動部に所属していたけど図書室が大好きでした。

原文で源氏物語や韓非子を読むことに喜びを感じたり、柳田國男とボードレールが一緒にカバンに入っていたりするような、節操ない読書をする、自分でも変わった子だと思っていました。

明るい人気者の女の子たちの、綺麗な髪の毛や男の子を惹きつける仕草に憧れもしたけど、私は無理をしてみてもそういうことが合わなかったと思います。

可もなく不可もなく、地味で、どこにでもいるような高校生だった私。

あの頃の私は、目標の大学に合格しようということしか考えていませんでした。


私の家庭も、それぞれの家庭がきっとそれぞれに抱えているであろう様々な事情があり、当時の私は、周囲の期待に応えねばならないと、それしか考えていませんでした。

当時の私が思う、「周囲の期待に応える」方法は、大学に合格するということぐらいしかありませんでした。

幼いなりに、どすんとしたプレッシャーを、いつも背負っていたように思います。

そうして今思えば、まあよくそんなことやったなあと思えるような勉強方法に勉強時間。若い時だからこそできたと思うむちゃくちゃなやり方で受験に備えていました。

馬車馬のようだったと思います。進む道以外どこも見えず、見ようとせず、ただ前に向かって一心不乱。余計なことを考えたら、何かが崩れると直感的に分かっていたからかもしれませんが。

そうしてなんとなく、「この道に行けば大丈夫」と周囲が思っている、と自分なりに察した道に、私は進もうとしていました。

何の疑問も持たず、そうやって自分の一生も、過ぎていくのだろうと、漠然と思っていました。


人生に対するそんな考え方が崩れたのは、センター試験を控えた年の夏のある日でした。

私はなぜか普段ほとんど見ないテレビを付けていて、NHKのその番組では、戦争についての語りを放送していました。

一人の女性がニュースを読み上げる台のようなところに座って淡々と語っているだけの、非常にシンプルな番組で、戦争について語る番組の物々しさも何も感じられませんでした。

女性は、日本軍の朝鮮半島侵略の際の話だというものを、物語のようにして語っていました。それが朝鮮半島で語り継がれている話なのか、どこで伝わったものなのか、そういった背景は、まるで分りませんでしたが。

その時その女性が語っていたと記憶している、日本軍が、朝鮮半島を侵略し、村を次々と襲っていったとされる語りの内容です。
(もう10年以上も前の話なので、私に残っている印象を、私の言葉で書いているため、かなり実際の放送内容とは異なっているはずです)

===

村人たちが、「もうすぐ日本軍が来て村を襲う。みんな森の中のどこかに逃げよう」と囁き合い、逃げる準備を始めていました。

しかし、ある一人の老婆だけが動こうとしません。

「母さん、もうすぐ日本軍が来て、みんな殺されてしまう。早く一緒に逃げよう」と息子が声をかけますが、老婆は動かないのです。

「お前には背負って逃げないといけない子どもたちがいるだろう。私なんかが逃げても、足手まといであんたら若者に迷惑をかけるだけだ。いくら日本軍とはいえ、鬼のような仕業はすまい。こんな生きていてもしょうがない老婆をどうこうしやしないよ」と、言います。

日本軍の迫る音が、もう近くまで聞こえてくるようです。

老婆は「お前たち若者は、生き延びないといかん。もし私が生きていたら、後で迎えに来てくれたら十分だ。私は死んでもかまわん」と言います。

息子は泣きながら「分かった、必ず迎えに来るから、母さん、必ず生きていてくれ」と、母と今生の別れだと分かりながら手を握り、そして子どもたちを抱きかかえ、村を後にしました。

そして日本軍が、村に襲来しました。

1日経って、息子が母親を探しに村のあった集落に戻ってきました。

家々は焼き払われ、壊され、めぼしいものはすべて奪われ、目も当てられない惨状でした。

息子は「母さん! 母さん!」と懸命に母親の姿を探しますが、いたはずの家の焼け跡からは、遺体すら見つかりません。

おかしいと思いながら、息子は別の焼けた一軒の家の中に入り、そこで大きな釜を見つけました。

祭事の時などに使う(と言っていたような・・・)、大人数の分の料理を煮炊きするために使う、人間の背丈以上もある大きな大きな鉄の釜です。

窯が熱いのは、家が焼かれたからかもしれませんが、なぜかその釜に、湯が張られているのです。


「まさか」


息子は、釜の中を覗き込みました。


中には、彼の母親が茹で上げられた状態で、浮かんでいたのです。

襲来した日本兵は、見つけた老婆をただ殺すのではなく、裸にして辱め、煮えたぎる熱湯に沈め、徐々に苦しませながら、殺していったのです。

熱せられた鉄の釜の中、噴き上がる熱湯で茹でられ、苦しみ、のたうって悲鳴を上げたのだろうけど、その表情すら全身を覆うやけどと水ぶくれによる爛れで、分からなくなってしまうほどの、あまりに無残な、裸の母親の屍が、浮いていました。


まだ熱い湯の中に浮かぶ母の姿を見た息子は、絶叫しました。


===


これ以降の話を覚えていないのは、私がこの瞬間から火がついたように泣き始めたからです。

まだ番組が続いていたのは覚えていますが、私はここから半日以上、自分が何をしていたか覚えていません。

多分、ずっと泣いていました。

その時、おそらく感情が止まらなかったせいか、文章を書き殴っていました。

戦争というものが、どれほど人間を変えてしまうのか。なぜそれほどに残酷になれるのか。人間は神のように慈悲深くもなれるのに、鬼畜のように残忍にもなれる。正義とは、何なのか。その時の日本軍にとっては、侵略は正当な使命であり、正義であった。けれど、侵略される側から見たら、彼らは鬼畜以外の何物でもない。大切な人を殺され、奪われ、後には怒りと悲しみと憎しみ以外、何も残らない。殺した本人にとって、殺人は正義であり続けられるのだろうか。だけどその本人にも家族がいて、新しく生まれる命がある。人は、闇と光の両方を持つ存在で、それを抱えながら、共に生きようとする存在。それが命を生きるということか。人間という存在は、慈悲と破壊の混沌だ。

なんとなくこのようなことを、延々とルーズリーフ30枚ぐらいにわたって書き続けていたことを覚えています。話の内容に、耐えられなかったのだと思います。

普段あまり感情をあらわにしない癖がついていて、出したとしてもそれは空気を読んだ結果だったりする、そんな自分が、自分でもびっくりするほど泣き続けていたことだけは、よく覚えています。

自分がこの話を体験したわけではないし、語られていた内容の真偽のほども、全く分からないわけです。
(とはいえ、似たような話は時代と国を問わず、あると思います)

それがなぜか、当時の私に、それまで持っていた幼いなりの価値観をひっくり返してしまうほどの衝撃を与えたのです。

人間という存在、命、魂、善悪、正邪、正義、価値観、集団、個と全体、歴史、戦争と平和・・・。

今まで考えようとしてこなかったことが、分厚いガラスが弾け割れたかのように、頭の中でぐわんぐわんと駆け巡り続けました。

食事もとらず、勉強もせず、声を上げてほぼ一晩泣いていたと思います。


私は一体誰のために、何のために、生きてきたんだろう。

何がしたくて、どう生きたくて、こんなにも馬車馬のようになって、勉強してきたんだろう。

親のため? 周りのため? 評判のため?

それで進学して、私は一体、何をした・・・?

私は初めて、「生きる」ということを、考えたのです。

それまで、まるで曇りガラスを通したようにしか見ていなかった、自分の人生というもの。

そのガラスが大きく割られ、初めて自分の目で、世界を見た気持になったようでした。

どうしてこの「語り」が、ここまでの揺さぶりを私に与えたのか、まるで分かりません。

でも確かに私の中の何かが砕け散り、新しく何かが作られたのです。

それだけは、間違いありませんでした。


そして、翌日、私はぽつんと、「このままの受験はやめよう」と思いました。


それから、「人って、一体なんだろう」と考えるようになり、

進学するならそういうことを考えられるところに行こう、と思い直しました。

そこでなぜ社会福祉に思い至ったのかは、当時の私の思考なので、よく分かりません。でも、進学本を見ながら、「社会福祉だな」と漠然とした確信を持ったことは、覚えています。

私の母校は、社会福祉については国内で最も古い歴史のある大学だったので、そこにしました。

それまでの方向性とは違い過ぎる大学や進路に、周りからは猛反対されましたが、何をどう言われても、揺るぎませんでした。

もう以前の自分に戻るのは、無理だったのです。


ある意味、楽だったのかもしれません。思考をストップさせて、ただ周囲の望むままにとがむしゃらにそれだけを目標として突き進むのは。

けれど、考えること、知ることを始めたら、それをやめることなんてできないのです。

世の中がどれほど喜びと悲哀に満ちているか。

自分がどれほど知らないか。

人間の愚かしさと素晴らしさ。

光と闇をクルクルと入れ替えながら共存させている私たちは、お互いを愛し、憎みながらも、関わり合わずには生きられない。

それが今ある地球上の、さらに日本の「社会」という形になった時、私たちはどう共生し、共存できるのか? どういう集団の形、政治、イデオロギー、しくみになっていくのがより良いのか?

人間の中に生まれてくる知を、どう形にして、伝え合い、共有していくことができるのか?

そうやって「命を生きる」ということが、どれほど素晴らしく、どれほど輝かしい、慈しむべき喜びであるのか。


そういうことを考え始めたこの時が、私の自律の小さな小さな一歩だったのではないかと思っています。


私が記者を続ける理由は先述しましたが、
そのベースには「人間や、生きるということを考えたい」ということがあり、
根底には、「すべてを包含して、それでも生きているということの、この素晴らしさを伝えたい」
ということがあるのだと思います。


生きることや、命について考えることの原点は、18歳のあの夏にできたものだったと、インフルエンザでぼーっとした頭で考えていました。

泣きすぎて酸欠状態になって同じようにぼーっとしていたあの時の私は、これからの自分や社会というのものを初めて怖がらずに見ようとしたのかもしれません。


私は記者(媒介役)として、

個人と社会全体が、個人と生命全体がつながっているのだということを自分事として意識できる、その瞬間に触れるきっかけを、

伝えていきたいと思っているのかもしれません。

とても難しいことだとは分かっているけれど、それがとても大切で、これから必要なことに違いないと、感じています。


話がだいぶ散漫になり、何を言いたいのか意味が分からないと思われるかもしれません。

それでも自分自身の中で今このことを、書き留めておかねばいけない気がしたので、残しておきます。

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コメント

久しぶりにここに来てみました。

>戦争というものが、どれほど人間を変えてしまうのか。なぜそれほどに残酷になれるのか。

この辺は全く同意なんですが。。。
どう見ても史実と合わない部分があります。

>女性は、日本軍の朝鮮半島侵略の際の話だというものを、物語のようにして語っていました。


ご存じのとおり、韓国併合は日本の武力制圧によるものでは無く、「韓国併合に関する条約」によるものです。この時に日本軍が朝鮮半島に出兵した事実はありません。

 また、東学党の乱の時を指しているのであれば(つまり日清戦争前夜)この時に日本軍が民間人を虐殺するというのはどう考えてもおかしいです。なぜならこの時期は不平等条約の解消のために日本軍の軍規は極めて厳しく、特に国際法に反する民間人虐殺は最も厳しく戒められていた時期だからです。

 さらに韓国併合後から終戦までは朝鮮半島は戦場ではありませんでした。

 どこをどう間違っているか不明ですが、その番組自体の信憑性が疑われます。

この記事の信憑性を確認しましたか? 私は作りばなしと思うが、正確な元データーを提示して下さい。
朝日新聞の従軍慰安婦記事と同じで、疑わしい!
……………以下の記事

そして日本軍が、村に襲来しました。

1日経って、息子が母親を探しに村のあった集落に戻ってきました。

家々は焼き払われ、壊され、めぼしいものはすべて奪われ、目も当てられない惨状でした。

息子は「母さん! 母さん!」と懸命に母親の姿を探しますが、いたはずの家の焼け跡からは、遺体すら見つかりません。

おかしいと思いながら、息子は別の焼けた一軒の家の中に入り、そこで大きな釜を見つけました。

祭事の時などに使う(と言っていたような・・・)、大人数の分の料理を煮炊きするために使う、人間の背丈以上もある大きな大きな鉄の釜です。

窯が熱いのは、家が焼かれたからかもしれませんが、なぜかその釜に、湯が張られているのです。


「まさか」


息子は、釜の中を覗き込みました。


中には、彼の母親が茹で上げられた状態で、浮かんでいたのです。

襲来した日本兵は、見つけた老婆をただ殺すのではなく、裸にして辱め、煮えたぎる熱湯に沈め、徐々に苦しませながら、殺していったのです。

熱せられた鉄の釜の中、噴き上がる熱湯で茹でられ、苦しみ、のたうって悲鳴を上げたのだろうけど、その表情すら全身を覆うやけどと水ぶくれによる爛れで、分からなくなってしまうほどの、あまりに無残な、裸の母親の屍が、浮いていました。


まだ熱い湯の中に浮かぶ母の姿を見た息子は、絶叫しました。

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