認知症は本人に告知すべき?

投稿者: 堀米香奈子 | 投稿日時: 2017年05月17日 11:00

これまでに私も様々なライフイベントを経験してきましたが、新たに先日、「認知症の親戚の介護」というテーマが追加されました。ある程度は予期していたことでもあり、だからこそ「ライフイベント」という捉え方をしているのですが、不確実性もあって正直なところ具体的な準備をしてきたわけではなく、戸惑うことの連続です。今回は、本人への告知について思うところありました。

「もの忘れ外来」受診

私の場合、認知症と診断されたのは近しい親戚です。親ではありませんが、本人は独居の後期高齢者で、これまでの関わりやお世話になった程度から、私もかなり主体的に介護等に関わっていくべき状況にあります。先月は、私と私の親とで本人を何とか連れ出し、近くの病院の「もの忘れ外来」を一緒に受診しました。問診に引き続いて2種類の認知症テスト(HDS-RとMMSE)を受けたところ、結果は各30点満点中、それぞれ16点と21点でした。CTなども撮影し、認知症と診断されました。


担当の医師は、すぐさま本人に「認知症と考えられます」と告げました。私たち親戚はすぐ横にいましたが、本人はテストを受けている時から、憮然とし始めていました。テストの前は背筋をピンと伸ばして、堂々と医師の質問にもよどみなくはきはきと答え、むしろ饒舌でさえあったのですが、質問に対しなかなか答えが出せないことが続き、また点数が思わしくなかったことで、すっかり気分を害したようでした。


一方、私たち親戚としては、認知症であることは間違いないと考えていましたが、テストの点数が思った以上に低いことは少し驚きでした。このところ認知症のせいと考えられるトラブルが続いてはいましたが、平時はまだまだしっかりしているようにも見え、たまに短時間接する様子からは認知症であることさえ見て取れなかったからです。


とはいえ、診断を踏まえて振り返ると、兆候が数年前からあったことに気づかされました。例えば、「物盗られ妄想」が時折あったこと等です。しかしながら、本人の性格的にも、ライフスタイル的にも、認知症のせいであるとは気づかれないままでした。


それがこの2~3カ月のうちに、親戚中を巻き込んだ様々なトラブルが毎日のように続くようになり、誰もが異変に気づくこととなりました。挙げればキリはありませんが、2日と置かずに1日何十回と電話をかけてきても本人は覚えていない、一瞬辻褄があっているように聞こえる作話ばかりする、物盗られ妄想が激しくなった、入浴など様々なことを億劫がり、筋が通っているかのような理由を説明する、などです。しかも意固地になっているのか、人に指摘されたわけでもないのに、「私は認知症ではないから」と事あるごとに言うようになっていました。ただし今も、医師やその他外部の人に対しては、非常にしゃきっとした口調と物腰で接するので、一見したところ「とても元気はつらつとしたお年寄り」です。


そうした態度からも分かるように、本人は、自分の認知症を絶対に認めない、認めたくない、受け入れられない。まして人にそう疑われることは自尊心が許さないタイプです。実はそうした性格自体、以前は理性が働いていたのかあまり人にはわかりませんでしたが、ここ最近、分かってきました。


ですから、今回の本人への告知に際しては、隣で見ていたこちらが、どんな反応を示すのか、ちょっとドキドキしていました。もちろん騒ぎだすなどといった大事にはなりませんでしたが、初対面の人に、自身のできれば触れられたくない部分をズバッと指摘された、といった様子であるのは傍目にも確かで、その時は正直何だか気の毒になりました。


「知らされない権利」ってあるの?

その印象がずっと引っかかって、認知症の本人への告知について、自分なりに調べてみました。


まず、米国アルツハイマー病協会の出した「2015 Alzheimer's Disease Facts and Figures」によれば、アルツハイマーと診断された人で告知を受けたのは45%にとどまるとのこと。同レポートでは、主要ながんと診断されて告知を受ける人は93%にのぼるそうなので、いかに認知症の告知が判断しづらいかが伺われます。


日本の文献はあまりなく少し古い数字ですが、2002年に実施された日本老年精神医学会専門医を対象とした意識調査では85%が告知をしていると回答したにもかかわらず、実際の告知率は49%にとどまる、とした学会発表もあります。その理由として、「単純に告知をする・しないの問題ではなく,医師が患者それぞれの適否を考慮したうえで実施していることを示していることが考えられる」としています。


では、どんな観点から告知の適否を判断するのでしょうか。告知に関する考え方の基本について、いくつかの報告やサイトから見解を引用してみます。


●患者の次の二つの権利を守るために告知は行われる。それは知る権利と決定する権利である。他でもない自分自身のことについて患者は知る権利があるとともに,自身の将来のことを決める権利もある。自分自身の財産や身体看護について将来誰に任せるのか,またどのような処遇を受けたいのか、あらかじめ決めておくことができるわけである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geriatrics/44/3/44_3_315/_pdf


●患者が事実を知った上で治療に取り組むことが真の意味での医師・患者関係を築くことにつながる。治療やリハビリテーションの主役は患者である。その主役である患者が主体的に治療やリハビリテーションに参加するためにも告知は必要である。さらに告知することは不安・混乱の軽減にも結びつく。告知は患者に対して一時的に精神的負担をもたらすものであるが、告知をした上で医師をはじめとした医療・福祉職が全面的な支援を行うほうが、長期間にわたる患者の心理状態には好ましい効果をもたらすものである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geriatrics/44/3/44_3_315/_pdf


●認知症と病名告知について(抜粋)
(1)「告知する」「しない」という 2 者択一の問題ではなく、どのような状態に人に、どの ように伝えるかが問題である
(2)「知る権利」「伝える義務」のように大上段にとらえるのではなく、認知症の人にとっ て、生活・治療・介護をスムーズに続けられるには、どのような情報が必要かを、専門職 の立場と、本人の立場に立って考えて提供することが必要である
(3)情報(病名)は生のまま伝えればよいというものではない。受け止める人の思いや能 力によって変わってくる
(5)どのような年齢であっても、本人に理解力・判断力のある場合や、本人から尋ねてき た場合には、病名を告知する
(6)病名については、「認知症」「アルツハイマー病」という言葉を使うときもあれば、「物 忘れの病気」という言葉を使うときもある。
(7)「病気でないのになぜ通院するのか」「なぜ薬を飲まないといけないのか」など、治療 を継続するために納得させるために、上記の病名や、「もの忘れを進行させないために」と いう説明をする
(8)認知症が進行して理解できない人、瞬間的に忘れてしまう人、認知症について恐怖感 を抱いている人、病名を知らなくても通院・治療などに差支えない人には原則として告知 しない
(10)自動車運転をやめさせるときなどに、「この病気のある人は運転できなくなりました」 「この薬を飲んでいる人で事故を起こした場合、自賠責の保障が受けられない場合があり ます。もし事故でも起こしたら破産してしまいますから運転をあきらめましょう」などと 話すと納得する場合がある
(後略)
http://saiwaicl.jp/outline/pdf/ninchikokuchi.pdf


●病名告知と権利擁護 ポイント
・認知症の病名告知は、重度認知症や意識障害、自身の拒否を除いて本人にすべきである。
・医師自身の理由で患者に告知を行わないのは明らかに説明義務不履行となる。
・認知症患者の権利や意思・意向を明らかにし、それを守ることが権利擁護の基本である。
http://medicalfinder.jp/doi/abs/10.11477/mf.1402102792


以上を踏まえて、高齢者の「認知症」の場合、本人に告知すべきかどうかを、自分なりの観点から整理してみました。大きく2つの側面から判断し、基本的には両方が揃っていれば、躊躇する理由はない、とい言えそうです。


【妥当性】
・診断結果を本人が冷静に正面から受け止めることができると判断した場合(性格や年齢、病気の進行程度などから総合的に判断して)
・診断結果を本人が知らされることで、本人が自分の今後について考え決定する機会を与えられると判断した場合(同上)←いわゆる「知る権利・決定する権利」


【必要性】
・本人が認知症であるとの自覚を持つこと、あるいはその事実を本人にある程度理解してもらうことが、本人の生活・人生の質の向上のために、必要なステップと判断される場合
・本人が自分の現状や生活上の支障に困惑しており、認知症と知らされることでかえって精神状態が落ち着くとみられる場合


要するに、「妥当性」は、本人に告知しても問題がなく、むしろその方が本人にプラスに働く可能性があるかどうか。「必要性」は、本人に事実をある程度受け入れてもらった方がスムーズに、本人や家族・親類のQOLを保障できるのではないか、という考え方です。例えば、家にヘルパーさんが来るのを受け入れてもらわないといけない、新たに薬を飲んでもらわないといけない、といった本人のアクションを新たに要する場合は、何らかの説明と告知の必要性が高いですよね。


ただ、まだ疑問は残ります。


本人の「知る権利」を考慮するとしたら、それと同様に「知らされない権利」は考慮すべきか、と言う点です。


これが例えばがん告知であれば、通常、本人は判断力に大きな問題を抱えているわけではありませんから、「知らされない権利」を本人が主張することは、当然に認められるべきと思えます。ところが、認知症ではそうした判断力の個人差が大きすぎるのです。


私なりに出した答えは、「NO、権利とまでは言えない」というものです。なぜなら、権利には義務が伴いますが、認知症はその義務を果たしきることが困難な病気だからです。遅かれ早かれ、本人は周囲や社会に迷惑をかけつつ責任を自分で引き受けることが難しい状態になります。その状態で「知らされない権利」だけ主張しつづける、というのはおかしな話です。


きっと大事なのは伝え方

ただし、権利とまでは言えなくても、周囲が本人の気持ちを汲んで、告知の影響を配慮し、告知するかどうか判断し、告知するにしても伝え方を工夫する、ということが大事なのではないでしょうか。


今回の私の親戚の例で言えば、本人の性格を考えると、告知されること自体がプライドを傷つけ、精神的負担になったように見えます。本人の性格や状態、状況を踏まえると、今回は「認知症」という言葉自体を使わなくても「物忘れの病気」と伝えれば事足りたケースかもしれません。しかも、その事実を受け止めて、本人自身が今後の生活に役立てられるようには思えないどころか、不愉快な感情だけ残して、既に告知された事実自体は忘れてしまっている(自分の都合の良い内容にすり替わっている)ように見えます。


本人にとって屈辱的な出来事を忘れてしまったのは、本人にとって幸いかもしれません。と同時に、より一層の防衛本能によるものかしら、とも思えます。ただ、肝心な事実を忘れてしまっていたとしても、その時に受けたネガティブな心理的影響は、見えなくても消えたわけではないと思うのです。となればなおのこと、何のための本人への「告知」だったのか、必要だったのかも、正直よくわかりません。


ちなみに担当の医師の診断は的確で、本人への接し方も、とても慣れていましたし、その他の点では非常に配慮されたものだったという感想を持っています。それだけに、あっさり本人に告知したことはちょっと意外で、告知そのものの妥当性や必要性については、実際の医療現場でも議論が進んでいないのかな、との印象を受けました。


さて、診断からもうすぐ1カ月。つい先週、介護認定のために市から派遣された調査員の方の訪問を受けました。私と私の親も出向いて立ち合い、事前に伝えるべきことは書き出して手渡し、読んでいただき巻いた。本人を目の前に、どうしても事実を口頭で伝えづらかったからです。やはり本人は饒舌で、調査員の方と堂々と話をしていました。実のところ作話が多いものの、ところどころ事実も入っていて、認知症の複雑さ、難しさを改めて実感しました。


今後、進行することはあっても、治ることはほぼ期待できないのが認知症です。本人のQOLを維持すべくサポートしていくことになりますが、ずっと状況は一緒ではなく、変化していくもの。市や民間のサービスも利用しながら、私たち親戚のQOLも大きく損なわれずに両立していける道を探りたいと思っています。

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