手術を受ける患者の命綱 麻酔科医
麻酔科医や麻酔の役割、知っているようで知らないのではないでしょうか。「痛くないようにする」だけではありません。私たちの命にかかわり、医療安全を左右する重大な役割を担っています。
監修/花岡一雄 JR東京総合病院院長
後藤隆久 横浜市立大学教授
宮下達也 国立がんセンター中央病院部長
「眠っている」のとは違います
何か大きな手術を受けなければいけなくなった時、「全身麻酔をかけられて眠っている間に終わってしまえばいい」と思う人もいるかもしれません。実際に「寝ている間に終わってしまった」という声も聞きます。では、麻酔のかかった状態は本当に眠っているのと同じ状態なのでしょうか?
医療は合法的な「傷害」行為
麻酔をかけられた状態が睡眠中と同じなら、体にメスが入った瞬間にあまりの痛みに飛び起きてしまいます。実際に私たちが眠っている時、体をたたかれたり、物音がしたり、トイレに行きたくなったりしたら自然に目が覚めます。
しかし、手術中に患者が突然動いたり目を覚ましたりしたら、執刀医は手術ができません。医療行為は、医療者による手技や薬物投与などによって生きている患者の体に侵襲を加えるという、いわば合法的な「傷害」行為です。
中でも外科手術は、患者の体を切り開き、手術内容に応じてからだの一部を切ったり繋いだりするため、他の医療行為に比べて傷害の程度が大きくなります。通常の体の状態に手術のような事が行われれば、ショックや痛みに耐えられず、死に至ることもあるでしょう。
体は痛みを感じると防御反応を起こします。自律神経が働いてアドレナリンなどのホルモンが分泌され、血管が収縮して血圧が上がったり、心拍が速くったりします。この反応が過剰になると血管が破れたり、不整脈を起こして心臓に負担をかけたりします。
手術中の患者は「生死の境目」
この外傷によるショックやストレス、恐怖から患者を守りながら、執刀医がベストな手術を実行できるような状態に保つのが麻酔であり、麻酔を扱う麻酔科医です。手術時には、痛みなどに反応する私たちの体の機能を抑え込む必要があります。
麻酔は劇薬や麻酔薬を使って中枢神経に作用するため、痛みを感じなくなるだけでなく、筋肉も動かなくなるので、まばたき、発声、排泄、呼吸、心拍も抑えられます。ホルモンの分泌も少なくなり体温調節もできません。こうした自然な体の反応がなくなるので「傷害」を加えることが可能になります。
つまり、麻酔がかかった状態は、私たちの体が「死」に近い危機的な状態なのです。このため、麻酔科医は手術中、常にモニターから血圧や心電図などを観測して患者の状態を把握します。気管にチューブを入れて人工呼吸を行い、カテーテルを通して排尿できるようにし、肛門に体温計を入れ、何かあったらすぐに薬や血液を送れるように点滴をつないでいます。声を上げられない患者に代わって、生きるために必要な機能をしっかりと維持します。こうなって初めて、外科医は手術に専念することができるのです。
麻酔科医は、患者の生命を維持するスペシャリストであり、生死の境目にいる患者の命綱ともいえます。このため、手術を行う病院には麻酔科専門医が必要です。