序文

投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2007年04月22日 16:19

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 Medical Research Information Center (MRIC) メルマガ vol 5

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 単行本『いのち輝かそう』に賞主催者である亀井眞樹医師が寄せた序文。

 鳥肌が立つような名文です。ご堪能ください!!

                       MRIC(エムリック)田中
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 そこにあるのは。
 みずみずしく生い茂る言の葉たち。
 燃え上がるような情熱をはらむ言の葉たち。
 かたい岩に一文字一文字、刻み込むようにして
 綴られた言の葉たち。
 きらきらと光を放つ言の葉たち。
 そして、透きとおって心にしみこみ、
 やがて集まって巨大なうねりとなる言の葉たち。

 本書は、がん・難病に関する体験手記を募る、健康生活企業・株式会社Jハーブ主催「第1回いのち輝かそう大賞」への応募作品139編の中から、大賞そのほか各賞にノミネートされた57作品を収めたものである。

 集まった作品を読んだ各界の著名人・オピニオンリーダーからなる審査員団が「優劣つけ難い」として、審査そのものの必要性を問い直さなければならないほど、応募作品139編のいずれの作品も、読む者の心を打たずにはおかない素晴らしいものであった。

 そこにはたしかに、かけがえのない「139の真実」と「139のいのちの輝き」があった。

 私はいまもありありと思い出すことができる。

 139編の作品に刻み込まれた44万5千の文字が、次第に縒りあわさって、たったひとつの言の葉となる奇蹟を。その奇蹟に、すべての関係者が言葉を超えた深い感動をおぼえずにはいられなかったことを。

 がんを卒業された方々、いまがんとともにある方々、いま難病とともにある方々、かつてがんや難病に苦しむ人を支えた方々、そして今まさにがんや難病に苦しむ人を支えていらっしゃる方々による、真実の44万5千文字。

 それらすべてが結実する、たったひとつの美しい言の葉。

 過酷な現実に直面せざるを得なかった人々が、想像を絶する困難と苦しみのなかから紡ぎ出した、たったひとつの真実の言の葉。それは、

 「ありがとう」

 誰よりも、つらく苦しく悲しいはずの、あなたからのこの清らかな言の葉が、いまも私の胸を衝き、心をふるわせてやむことがありません。


 36525。
 これは百年生きた人が迎える朝の数である。
 一年には365回の朝がある。
 一年が百回繰り返すと36500。

 さらに四年に一度の閏年が25回あるから、百年生きた人には、36525回の朝があることになる。

 私たちのほとんどは、36525回よりも少ない回数の朝を迎えた時点で、この世を去らねばならない。人のいのちの時間を、その人が迎えるはずの朝の回数で数えると、いのちに限りのあることが身も蓋もないほどに露わになる。

 しかしながら、私たちがそのことを痛切に意識しながら毎日を暮らすことは、稀だ。
 
 私の母は1932年11月7日に生まれ、1984年1月3日未明に亡くなった。彼女は18683回目の朝を迎えることなく、永遠の眠りについた。

 子宮頚癌だった。

 その日、医学部の学生として8087回目の朝を迎えようとしていた私は、まだぬくもりの残る彼女の手に触れ、その死という厳粛な現実に直面してなお、どこかでまだ母の生の可能性を信じていた。

 「おかえりなさい」

 母のいない静まりかえった家に帰るたび、それでもいつか、何事もなかったかのようにそう言って母がまた私の日常に帰ってくるのではないか。そんな気がしてならなかった。

 母のいない日常を生きる私のそばの、そこここに、まだ母がいるように感じられた。

 それは本当に長い、長い時間をかけて少しずつ、少しずつ薄らぎゆき、いつのまにかどこかへと消えていった。

 そのようにして母を失ってはじめて、自分は母の人生の何をわかっていたのだろうかという、痛切な後悔を含んだ疑問が静かに残っていることに、私は気がついた。


 私の弟は1965年6月17日に生まれ、1991年1月16日に亡くなった。弟の朝は9344回で止まった。

 交通事故による突然の死だった。

 10657回目の朝を迎えていた私は、勤務していた病院から遠く離れた雪国へ急行し、もはや雪よりも冷たく感じられる弟の手を握り、呆然と立ちすくみながら、それでもなお弟の生の可能性をあきらめられずにいた。

 「よう」

 弟の死から何年も経ったある日、雑踏のなか、ふいに弟に呼びかけられたような気がして、思わず足を止めたことがあった。

 一日の診療を終え、夜更けに車を運転して帰宅する。今すれちがった車のドライバーが、一瞬弟であったような気がする。

 弟のいない日常を生きる私。その私の知らないどこか別の場所で、弟はそれまでとは違う人生をまだ生き続けているのかもしれない。そんな荒唐無稽な夢想を、医師となって久しいにもかかわらず、私は密かに抱き続けた。

 それはやはり、弟の冷たい手の記憶とともにいつまでも私の心の中にあり続けたが、母の時とおなじように、長い時間の後、いつのまにかどこかへと消えていき、そしてまた、母の時と同じように、いったい自分は弟の人生の何をわかっていたのだろうかという思いだけが、残った。

 「いのちには限りがある」というあたりまえのことを、医師であれば日々目撃するそのことを、私はこうして二人の肉親の死とその後の過程を経験することで、なにかがゆっくり骨の随まで浸み込みそこに満ちていくように、あらためて思い知らされた。一緒に暮らした家族の場合でさえ「あのひとの何をわかっていたのだろう」という切ない思いが、いくつかの後悔とともに、いつまでも残り続けることがあるのだということも。

 そしてまた私は、彼らの生の可能性が自分の中でゆっくりと消えていく過程を味わいながら、こう考えるようになった。

 自分のいのちある限り、死者を忘れまいという思いこそが、人間という存在の根幹をなす深いところに、ひととしてのかたちを与えているのではなかろうかと。

 私は臨床医である。

 患者として私とご縁のあった方に、残された朝の回数を告げなければならないことがある。臨床医としてもっともつらい務めのひとつだ。

 病状の説明が進むにつれ、私の言葉に驚きとまどい、目の前でみるみるうちひしがれていく人に、「あなたのいのちには限りがある」という残酷な現実を、数字と言葉で伝えなければならない。

 せめて、この冷厳な現実を受け止めなければならないあなたのつらさ、苦しみ、悲しみを、私も自分の心のもっとも深い部分でわかちあおうとしていることだけでも、伝えたい。

 そう願いながら、ほかになにもできない自分の無力感に苛まれつつ、懸命に言葉を探す。

 「ごめんね。あと90日くらいしか一緒にいられないんだ…。」

 白衣を脱いでひとりになり、あと90回の朝しかない人生を、想う。朝とその次の朝のあいだ、彼女は、彼は、何を思い、何を行うのだろう。彼女を、彼を支える周りの人たちは、日々何を思い、何を行うのだろう。

 もし、自分がその立場であったなら、私は日々何を思い、何を行うのだろう。

 力量感にあふれ、自信に満ちた臨床医であったろう30歳代の私は、40歳を迎える頃には、あるがままの自分として静かに思索する臨床医になっていた。

 漢方医学の源流にさかのぼり、その基礎理論の再構築に没頭する一方で、過去に生きたひとびとが「いのちには限りがある」という現実を、彼らの生きた時代の制約の中で、どのように受け止め、乗り越えてきたのか、あるいは挫折したのか、という問題に深い関心を寄せるようになった。

 ある時、ふと、いまから100年後か200年後、遠い未来を生きる人々から私たちを見たとしたら、彼らの目に、現代の私たちはどう映るのだろうかと考えてみた。

 彼らの時代にはすでに、人が病気で死ぬことはめずらしいことになっているかもしれない。

 そういう時代を生きる彼らから見た私たちは、病気で死ななければならないというこの時代の制約の中で、病気の影に怯え、病気に苦しみ、残された朝を間断のない不安のうちに数えなければならない「不幸な存在」なのであろうか。

 死者を悼み、彼らのいのちがまだここかしこにあり続けているかのように、時に草花に語りかけ、またある時には空に微笑みかけ、彼らの死後どれほど年月が経っても彼らのために集い祈ることをやめない私たちのありよう。その深層には、人間という存在の根幹をなす深い部分に「ひと」としてのかたちを与えている大切ななにかが埋蔵されているのではないか。

 そういう私たちのあり方や私の考えは、「生老病死」が苦しみに満ちたままの不幸な時代が生み出した哀れむべき姿であり、悲しい思いであるに過ぎないのだろうか。

 かつて、権威ある医学雑誌に、乳がんに罹患した女性の10年生存率を調べた研究結果が論文として掲載されたことがある。

 そこには、乳がんに罹患したこと、その治療で乳房を失ったことなど、心の痛み・苦しみを言葉にして語り合う家族や友人、仲間をもつ人は、そうでない人と比較して10年後の生存率が約2倍の高さであるという驚くべき結果が報告されていた。

 この論文にはその後批判もあったが、以後、病の癒しに言葉が重要な役割を果たすことが重視されるようになった。

 闘病の体験談を語り合う。体験手記を公開する。出版された体験手記を収集・公開する。わが国でもこれまで、心ある人々・団体によってこうしたさまざまな試みが行われてきたが、これらの尊いご努力にもかかわらず、まだ多くの人々はこうした恩恵に浴す機会を得られずにいる。

 遠い未来を生きる人々の目に、現代を生きる私たちがどのように映るか。それを完全に知ることは私たちには難しい。

 私たちに今できることは、「病気で死ななければならない」というこの時代の制約の中で、それでもひとりひとりの、ひとつひとつのいのちが、どのようにして奇跡的ともいうべき光芒を放ちつつ、その生を全うするのか。その真実の姿をひとつひとつ記録し、そこに刻み込まれた真実の言の葉を、未来を生きる人々にむかって確実に残すことである。

 そこに集められたその珠玉の言の葉たちは同時に、今という同じ時代を生きる私たちに、病気という過酷な現実に直面する勇気を、病気とともにあっても心自由に幸せを追求する知恵を、そして身近にあって苦しみを分かちあいともに生きる人に対する心からの愛を、きっと分け与えてくれるはずである。

 ひとつの小さな灯火が、いま私とともにある。

 「いのち輝かそう大賞?いのちの万葉集事業」の象徴とすべく、本事業に深くご賛同いただいた高野山真言宗総本山金剛峯寺より、格別のおはからいをもっておわけいただいたものである。 

 聖地・高野山奥の院に、空海弘法大師以来1200年間絶えることなく灯り続け、人々を見守り続けてきたこの小さな灯火は、はかなげなその姿に思いがけない強大な力を秘め、悠久の時を超えて、これからも灯り続けるだろう。

 きっと、私たちのいのちの万の言の葉のように。 

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