一病~リウマチ~息災徒然ノート14 |
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投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年08月22日 22:34 |
復帰5
「あなたの子宮は傾いているから自然妊娠は絶対に無理」
という医師と、
夫の「養子縁組」、
この二つの言葉を何度も反芻し、
私は出口のない迷宮にいました。
女として烙印を押されたようで、
自分を追い詰めていました。
夫の子供を産めない疫病神なのだろうかと悶々としました。
次の瞬間には、
私自身よりも子育てなのか?
と夫を責める気持ちも生じます。
もう駄目なのかなと思い始めていました。
毎朝、基礎体温をつけることも、
家の事も何もかも放り出すように、
投げやりになっていました。
夫も、せっかく準備した食事も食べないことが多くなりました。
そればかりか、
夜毎、飲み歩く生活を始めたのです。
明け方まで帰らない日が続きました。
銀行の通帳がマイナスになっているのに気づいたとき、
“ずっと何があっても大丈夫”
と運命共同体の如く私だけが勝手に思い込んでいた存在は、
一転して世界中で一番憎ったらしい人になり、
自分をコントロールできない行動へと駆り立てました。
まんじりともせず夫の帰りを夜明けまで待ち、
家出を装って、
玄関にある自分の靴を抱きかかえながら、
息を潜めて押入れに隠れたこともありました。
実際に家を出て、
近隣のホテルに泊まったこともありました。
そんな反動からか、
職場では、
採用活動や新人教育、
労務管理、
全社会議や福利厚生行事などの企画
と新しい職務に没頭しました。
日本TI東京本社がつくばに移転する案も
浮上していた時期でもあり、
東京への出張も多く、
プライベートで塞ぎきった気分と
リウマチの痛さから
逃避するように仕事をしていました。
労務管理を担当するようになって、
それまで完璧に手続きされていた、
休職中の傷病手当金や、
高額医療費の還付、
さらに
会社が独自で加入している医療保障保険により、
差額ベッド代まで全額返戻されたことも、
それがいかに稀有な事例で有り難いことか、
初めて理解しました。
企業が人を雇用するとき、
支払う給与以外に、
どれほどのコストがかかっているか、
触りを学んだとき、
それに見合う貢献が僅かでもできているかと自問すれば、
自ずと謙虚な気持ちで
仕事に向かうことができました。
所長室を引き継いだエリさんと
親しくなったことも救いでした。
エリさんは学生時代をテキサスで過ごし、
そのままダラス本社に採用された経歴があります。
だから、私と同年齢ですが、TI歴は先輩です。
エリさんは、ダラス勤務の後、
茨城県内の工場で
半導体の製造ライン技術の業務に携わっていました。
諸々の事情と、
住まいがつくばだったので、
社内公募制度で
つくば研究所の研究室秘書に応募して転勤しました。
それが、赴任後半年も経たない間に、
私の入院で
急遽所長秘書業務を押し付けられる
羽目になったわけです。
でも、これがきっかけで、
入社以来、所長室専属で、
上司以外とはほとんどコミュニケーションがなかった私が、
エリさんとは、公私にわたり、
いろいろな話をするようになりました。
人事・総務に移ってからも、
エリさんからは毎日のように
仕事の質問や相談を受け、
私も社内随一の英語力(TOEICで満点をとるぐらい)を有する
エリさんに頼り、助けられ、
一緒に仕事をこなす日々でした。
エリさんと昼休みのお喋りが楽しみのひとつとなり、
一人暮らしのエリさんと
夕食まで一緒のことも度々でした。
週末はLECに通い、
家では互いに干渉せず、
子供のことも話題にしなくなりました。
仕事をしている時が最も安心していられたこと、
リウマチになって、
今さら転職できるわけもなく、
他で同程度の収入が望めるはずもなく、
経済的自立の道だけは大事にしたい、
そう思っていました。
どんなに痛くても、
お給料をいただいている以上、
リウマチを理由に回りの人に迷惑をかけたり、
気を遣わせる存在になりたくないと必死でした。
家庭で失いつつある自分の立ち位置を、
せめて職場では見失いたくなかった、、、、
結局本音は、
病気になって離婚して、失職し、、、では、
あまりに自分がみじめだと
思っていたのかもしれません。