一病~リウマチ~息災徒然ノート25 |
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投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年09月12日 20:43 |
医療機関へ転職と治験3
村田先生がフランスに留学され、
4人目の主治医が
現在の後藤先生です。
私は、
後藤先生の診療下で、
治験を続行しました。
病院の仕事が二年目になり、
院長室、総務・人事、広報
と落ち着く場所不明のまま、
言われるままに、
あちらこちらの業務に携わっていました。
確定した休み無し、
夜中や早朝の呼び出し、
先の予定がたたない毎日に、
不満が鬱積しなかったといえば嘘になります。
でも、
病院事務管理の仕事は
終わり(区切り)がない、
医師という資格が有する
権限の絶大さ、責任は
極めて重く、
その資格に代わるものは存在しないし、
病院は、常時、
人命の危機と対峙した仕事が行われており、
その生きる闘いに、
患者とともに取り組んでいる医療技術職(コ・メディカル)が
やらない職域の隙間を埋め尽くすべく、
事務方は
微力ながらも支援している、
だから
(自分のプライベートや時間は無くても)仕方ない、
という諦めもありました。
子供との約束はひとつも守れませんでした。
子供は母親が家にいないものだと思っていました。
病気になっても院内の病後時保育室に預けました。
それでも一度だけ、
高熱にうなされた子供が
一人で寝ている自宅に戻ったとき、
それが父親でなく母親だと
気づいた子供は
激しく抵抗しました。
「パパじゃなきゃ嫌、
パパじゃないとダメ、
ママのリウマチが移る、
そばに来ないで
あっちに行って、、」
振り返れば、
子供が4歳になった春、
公立保育所に変わった初日の朝7時半、
誰もいない保育所に、
子供は
大きなリュックを背負って
真っ直ぐに入っていきました。
お友達もいない新しい環境で、
そこで12時間も過ごすのに、
見送った私を振り返ることは
一度もありませんでした。
小学校に入ってからは、
児童クラブの迎えの時間(午後6時)に
到底間に合わず、
保育サポーターさんや、
児童クラブのお友達のご父兄や、
送迎付きの塾を探して、
塾の先生に迎えに行ってもらいました。
どんな環境も受け入れて、
不満や文句を言ったことがなかった子供の
高熱にうなされながらの
精一杯の叫びでした。
私はなす術なく、
子供の寝ている枕元で
立ち尽くすしかありませんでした。
そんな頃、
人間ドックで
私の腫瘍マーカー血液検査(CA19-9)に
異常値が出ます。
基準値は0~37U/mlですが、
検査するたびに跳ね上がり、
3回目の結果値は1000U/mlを超えました。
超音波診断、CT、造影剤を用いたMRI、
PETと連続で検査を受け、
最後のPET検査の結果、
『子宮に悪性腫瘍がある』
と判明しました。
私は、
精神的にも肉体的にも
追い詰められていきました。