医療崩壊と司法の論理(2)

投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2007年12月24日 16:58

少々長くなってきたので
パネルディスカッションから稿を改める。


和田 法の論理と医の論理、小松先生の言葉では規範と認知の齟齬ですね、それが鮮明になってきた。では、さてさてどうするかということで法律家3人と医療者3人でディスカッションをしていただこうと思いますが、その前に井上先生、長谷川先生に10分程度で少しお話しいただけるでしょうか。


井上 安心の医療、患者さんの期待・納得、こういう言葉がブームというか通り相場になっている。これを正当という前提で受け止めるか。私は普段病院の代理人として実務に当たっている弁護士ですが、司法で期待・納得が当然の前提になっていることはおかしいと思う。

司法の人と話をすると、保険診療ではなく自由診療を前提に法理論を組み立てている。ファクターとして保険が入っていない。ちなみに「国民の健康」が憲法に明文化されているのは私が知る限り日本だけ。それくらい重要な位置づけの中で皆保険もあるのだと理解しているが、前線でクレームをつける患者さんや家族と対峙していると「納得いかない」と言われる。納得とか期待が法律に入り込んでいると思う。

平成7年に『診療契約に基づいて当該医療機関に要求される医療水準』という判決が出ます。それまでは、良いか悪いかは別にして、医療の実情に寄り添おうという態度の判決が多かったのすが、ここで実質的に判例変更が行われたと理解しています。

どういうことか。この中で、患者さんとの間で診療契約書を結んだことのある人いますか? 契約はフィクションに過ぎないのに、当然の実在として法の上では扱っている。

契約とは相対立する当事者の意思表示の合致です。お互いに釣り合いが取れないといけない。患者の意思としては、期待・納得という大きなものが入り込んでいる。これと保険診療で釣り合いが取れますか。保険診療では勝手なことをやっちゃいけないのだし、しかも医療費が抑制されている。釣り合いが取れるとしたら、応召義務を外すことと医療費を桁違いに高額にすることが必要でないか。

現状では、あまりにもシーソーが傾いているのに、司法関係者の頭の中にはその話が入っていない。国民皆保険制度を続けた方がよいと思う。そのためには司法の中に、期待とか納得とか安心とかを取り込むのはバランスが悪い。


長谷川 自治医大のICUナースが偶然乗っていたハワイから日本へ向かうJALの機内で、心臓発作を起こして倒れた人がいた。ドクターコールがかかったけれど乗っていなくて、そこでそのナースが地上のドクターと連絡を取りながら救命措置にあたり、幸い何の後遺症もなく回復させたという。この例などを考えると、どこから診療契約がスタートしているか、そんなものないし、実はすごいラッキーが重なっている。ICUのナースというのは優秀だし蘇生措置にも慣れている。たとえば眼科の方がいたら申し訳ないけれど、ドクターでも眼科だったらダメだったんじゃないか、とか。何もなければ亡くなる方を助けようとして助けられたという例なんだけれど、この方が亡くなっていたらどうなるのか、もし刑事責任を問われるのだとしたら悲しいと思う。

フェルドマンという米国の法学者に尋ねたら、米国ではnegligence(過失)は刑事では扱わない、criminal(犯罪)を刑事で扱うということだった。一体いつから日本では犯罪者と、患者を助けようとした結果とを同じに裁くようになったのかと思うのだが、フェルドマンが言うには、negligenceを刑事で扱うと、「sharp end」すなわち最前線で患者さんと誠実に向き合っている人たちが罪に問われることになる、と。法律家は色々言うけれど、この矛盾については何も言わないじゃないかと思う。

それから「判例の個別性」の話があったが、ならば何か事が起きた時に「判例ではこうなっている」と言うのはおかしいじゃないか。それから一般性を抽出してくる時に経済状態が入ってこないのだけれど、医療は経済に大きく左右される。それから、判例を後世の知見で批判するのはフェアでないという話もあったが、それならば医療行為を後から批判するのはフェアなのか。亀田の例では、よくもこんな短時間に原因を突き止めたというべきで、むしろ多くの場合は、一体何が起きているのか誰にも分からないという状況の中で、時間的制約もあって圧倒的に少ない情報の中で判断しなきゃいけない。


手島 判例の中には個別性と一般性とが含まれていて、一般性は他の分野にも応用できると考える。ただし医療は個別性が高い。それぞれの判例が持っている拘束力には検討が必要。簡素化した一般ルールの提示は慎重にすべきであろう。

医療には社会的営みの側面があるというのは、その通りで、保険診療に言及しているものは少ないけれど、ただし私が承知している限りでは、「保健医療の限界はあっても、それに捉われず実施すべきであった」という判例はある。それから経済的側面について何も考えていないということではない。実行可能なものは医師患者の関係の中でどこかに限界があるというのは暗黙の了解として含んでいる。経済的視点を前面に出してはいないが、ただし「不払いだからといって診療を拒絶できない」という判例はあった。


(川口の心の声)ここで挙げられた判例は、長谷川教授の問題提起への反証となるどころか、むしろいかに判例がトンデモないかの実例にしかなってないと思うのだが。。。


佐藤 判例は関わった人たちに効果がある。関わった人以外に効果があるかは、また別の話。一般化するには制度化する作業が必要。それから法律の判断というのは、医療者を第三者的に見て、結果の重大性を見る。不幸にして亡くなるという出来事があった時、その結果から遡って何をしてほしかったと推論していく構造になっている。


和田 私も法律家のはしくれなので、今のお二方の答えをもう少し分かりやすく説明すると「だって法律はそうなってるんだもん」ということだ。


小松 思考の枠が狭すぎると思う。経済を知らなすぎる。たとえば、借主保護と言って借地借家法を厳しく判決しすぎたら何が起こったか。家族向けの賃貸物件がなくなってしまった。自分たちの行為が何を引き起こしているか考えずに「だってそういうものだ」というシステムはまともなのか。法が変わらない限りアプローチしにくいという内側の論理だけでやっているなら、道具と変わらないでないか。


中田 判例は関係ないと言うけれど、裁判では必ず再発防止もしてくれと言われる。で判決を見ても、結局どうしたら良いのかが見当たらず途方にくれることが多い。極論すれば、訴訟になってしまったものは仕方ないと言えるのだが、その後も同じような患者さんが来院する。同じような場面、同じような訴訟にならないようにするにはどうしたらよいのか。

保険診療の枠内で活動していることは是非とも考慮してもらいたい。患者さんにもスタッフにもエラく評判の悪い医者がいた。何が評判悪いかというと、とにかく外来を延々と夜中の9時ごろまでやっていて、患者さんを待たせて、スタッフも引っ張っている。何とかしてくれと言われて当人を呼んで事情聴取したところ「丁寧に説明しているだけだ。最高裁判例でも、ちゃんと説明しろと言っているではないか」と逆に言われてグゥの音も出なかった。保険診療の中では説明してもお金にならないので、そのためにスタッフを増員するわけにいかない。判例が要求することをマジメにやると、こんなことになる。困っているというのが正直なところだ。


佐藤 法律家には何種類かの人種がいる。法律だけという人ももちろんいるけれど、それは少数派で、広い視野を持ち、広く他の学問に精通した人もいる。大多数の法律家は、問題点が分かっちゃいるけど言わないということなんだろうと思う。法律の謙抑性ということで、一歩退いたところで仕事をしている人が多い。その観点からすると、医療に刑事が介入してくるのは異常事態。世界的にも法律の構造からも違和感がある。

なぜ刑事介入させるのかということを考えてみると、日本独自の交渉スタイルの影響もあるのかなと思う。つまり解決を先延ばしして警察の介入を待って、より多くの示談金を取るというのが一般的。民事刑事の連携というか悪しきスタイルが土壌としてあるために、医療も巻き込まれたかもしれないと思う。これは当然、好ましいことではない。


手島 条文があって、判例の展開があって、それぞれ条文の中には広い世界があって、どういう絵を描くかは自由度が高い。私も刑事の介入は問題だと思っているが、医療者側も法律家を固定イメージで見ていないだろうか。社会で困ったことがあった時に何か使えるものがないかと探すのが、基本的な法律家の発想だ。


和田 法律家から見ても刑事が発動されるのに違和感があるという話ですが。


井上 良いか悪いかは別にして、主観的に認識しているのは、刑事が介入してきたのは最近のことで、それまで医療側の対応というのは、カルテ開示しない、説明しない、訴えられてからおいおい考えるというものだった。それが事故隠しをしていると認識され、頼れる何かとしては警察を動かすしかなかった、このような不幸な流れだと思う。情報開示していなかったことが一番重要なファクター、元の病理現象であっただろう。しかし、今は変わっている。請求されればカルテも開示するし、刑事権力を発動させる動機づけがないじゃないかと思う。一般論で言えば、今の時点はバランスが悪い。

事故調ができることでリセットすれば良いが、重過失に限るとかいう議論をしていて何が重過失なのかも定義されていない状況で非常に危惧を覚える。事故隠しに対して真相究明という言葉を使ってきた経緯があるが、現在クレームの現場で真相究明と言えば「金よこせ」ということ。厚労省試案の真相究明もその方向を指向している。


小松 厚労省の第二次試案は大きな問題。そのめざすところは法的責任追及そのもの。過去の事件を見直して基準を作り、届け出を義務化しペナルティを科すという。これをすると現場であつれきが高まり対立構造を呼ぶ。現在では院内事故調査というのは非常に真っ当にやっている。患者さんが気づいていないようなことまでミスはきちんとチェックされている。それをするために、実質的に院内ではヒューマンエラーを処罰しない。ところが今回の試案では院内調査も活用すると言っている。自分も処罰される可能性があるという前提で話をしなければいけない。ある看護師長と話をしたら、「私だったら弁護士と相談してガチガチに内容を固めてから話す」と言った。それが当然だと思う。そんなことになったら院内調査の前提が崩れて、医療安全の取り組みがやりにくくなる。

患者と医療者、管理者と現場、厚労省と現場にあつれきと対立構造を呼び込むものだ。

科学では、正しいか正しくないかは、仮説的真理、一過性の無謬性を持つに過ぎない、誰かが権威づけるようなものではない。調査結果といえども相対的なもので一過性のもの、そのように扱った方が世の中うまくいく。国家がやるべきものでないし、たとえ大組織を作っても、病理・法医の絶対数が足りないので成立しない。


中田 事故調の話は、どう考えても腑に落ちない。自分のミスを届け出ることを義務化しながら刑事にも使うという。憲法に書いてある「何人も、自己の不利益な供述を強要されない」と違う。それから日本は三権分立の国のはずなのに、今回の試案では行政庁が司法分野まで食い込んでいる。そもそもの形がおかしいのでないか。


長谷川 帝京大が敗訴した例で考えてみれば、もっと早くに医療が介入できたのでないかという観点は成り立つ。そういった次にどうするかを考えていくことに税金を使ってやってくれるのなら大歓迎だが、この試案が成立すると学習・反省できなくなってしまう。そういう制度設計になっちゃっている。


和田 医の論理、法の論理、それに患者の視点から見ても、不幸な事例を次に生かしていこうという主体的なイニシアチブを奪うシステムになっている。既に21条でさえ、患者遺族の意向を無視した届出によって医療現場で軋轢を生んでいる。次につなぐのは当事者であるべきで、行政が次につないでいくのはおかしい。

一言だけ先ほどの「金よこせ」には異論がある。患者遺族が必ずしも金を望んでいない場合でも、損害賠償請求の形でしか訴訟を起こせないという法の影響は強い。


小松 既に影響は出始めている。北の方の大学病院で合併症の報告を論文にしたら、それを根拠に訴えられたというのがあったそうだ。今年半ばから、合併症や副作用の報告がもの凄く減っているという報告もあった。


和田 法律家は堅い人ばかりではない。しかし司法には守るべきものがあって、大きく踏み込むことができないというのも確かにある。確実に影響が出ている時に、どう何ができるのか。


手島 司法が患者救済にシフトして医療者の行動を制約し、その大きな影響が現実に社会問題化しているということだと思う。これまでも色々なことがあった。交通事故が点数制になったり少しずつ制度化されていった。同じように医療事故を対立構造で考えるのをやめて新しい構造を作るのはあり得る。国全体で対応しなければ大変なことになると認識されれば立法で対応されるだろう。新生児への保険的対策のように、今の裁判の限界を見極める前に、そもそも司法解決の方策を取らないで済むような制度の産みの苦しみの前段階と見ることができるのでないか。


佐藤 対立の思考は良くない。それはおっしゃる通り。過去思考で責めても生産的でない、将来どうしようかと考える方がよい、それはそっちの方が絶対に良い。ただし、裁判で絶対にそれが無理かと言われると難しいけれど無理ではない。被害者の命日に分割払いを命じる判決があったりして、未来志向を取り込むように工夫する法律家がいればできないことではない。夢物語とは考えてほしくない。裁判では無理だからADRでと言っても根底にある考え方が堅ければ同じことになる。工夫していく人が増えることが課題なんだろう。楽観はできないが悲観することもない。

それから対立が必要な場合もある。お互いに緊張してギリギリの所まで行かないと和解が成立しないようなことはある。最初から最後まで仲良くできればそれに越したことはないが、対立を将来に生かすという視点が大切だろう。


和田 そんなことは当然であります。それはさておき、被害者の救済と医療者の責任追及とが反比例していると思うのですね。被害救済のために医療者を追及するというのでない、それを超えたシステムを考える必要があるのでないか、と思います。


手島 帝京大学のケース、これで数千万円は厳しいなあと思う。説明義務違反一本で、もう少し争う余地はあったと思う。選択の結果は患者自身が負うべきというのが大枠にある。


佐藤 期待権侵害に落としこめる。額で評価すると、一般で使われる法理論からすると、フィクションではあるがケタが多いなと実感する。もう一つは争いになっているのがカテーテル操作のうまい下手で、負けた勝ったが二者択一判断、そこだけの話だと思う。ただ、なぜその病院に行ったのというのが不思議だ。その点は訴訟の過程で争われたのだろうか。過失相殺が蹴られてしまうのは意外だ。


井上 私が普段言っていることは、同じ質問を繰り返す患者には気をつけろということ。学校でも、できの悪い生徒ほど何度も同じ質問をするでしょう。だから何回も説得が行われるということになると、説明の時にレベルを上げていかないといけない。今の裁判所の傾向として、ずっと同じことをやっていると最後に説明義務違反で引っ掛けられる。

カテーテルの方については刑法にもあるけれど条件関係の「あれなければこれなし」で、結果回避可能性があったのか、もしあったとするならばどういう方法があったのか、これを言えていたとすれば、どうしてこの判決が出たのかなと思う。


中田 将来へ向けたアドバイスがいただけて感謝している。次どうするかといった時に、訴えられても良いようにお金を貯めておくか、そういう患者さんは断るしかないのでないかと考えていたが、非常に建設的な真っ当な方法があるということで正直ホっとしている。


小松
 亡くなった方の被害救済ということで遺族に莫大なお金を払うことが本当に救済になり得るのか、保険医療でそのような支払いが行われてよいのか、という点について、法律家の中にも疑問を持っている人が多いと聞いている。


長谷川 2例とも医療者から見れば間違いなくトンデモ判決だと思うが、それは別としても、被害を誰かのせいにして過去に捉われて非難の文化、応報の文化が本当に救済になるのかと思う。自助で回復しないといけないものが誰かを悪いことにすることで却って妨げられることなないか。文化的切り替えが必要だと思う。その点について医療者自身も頭を切り替える必要はあるような気がする。


和田 本当に救済なのかという点から言えば、勝訴しても不満に思っている遺族が非常に多い。司法の枠組みを超えた部分が要請されているのだろう。医療者からの疑問も患者からの疑問も等価であり、将来を見据えた大きな視点から議論が必要なのだろう。


(了)

<<前の記事:茨城県庁だった?    MRICより転載:次の記事>>