JMM 読者投稿編:Q:910への読者からの回答 |
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投稿者: 中村利仁 | 投稿日時: 2008年05月19日 23:45 |
2008年5月13日発行
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JMM [Japan Mail Media] No.479 Extra-Edition
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■ 読者投稿編:Q:910への読者からの回答
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【Q:910】
4月から「長寿医療制度(後期高齢者医療制度)」が始まり、いろいろな混乱が起
こっているようです。後期高齢者医療制度ですが、高齢化社会の医療制度として、合
理的なものだと言えるのでしょうか。
村上龍
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■読者投稿:中村利仁
制度立ち上げ時の事務作業の拙劣さが報道され、すっかり悪評が定着した後期高齢
者医療制度ですが、制度本体の問題点を検討する報道は未だあまり多くありません。
ところが、この制度の合理性を巡る議論は2年前に既に終わったはずの話です。専
門家の間でということであれば、さらにそのちょっと前に終わっています。国会内で
の取り引きや審議も為されました。それなのに特に与党代議士の過半が、ただ小泉改
革の勢いに引っ張られたというだけでなく、本当にどういう内容なのかを全く理解し
ていなかったらしいということが報道されるにつけ、報道内容を疑うと同時に、もし
本当だとしたらどう考えればいいのか、ちょっと途方に暮れている気持ちがあります。
後期高齢者医療制度自体は、それなりの目的と合理性を持ちます。正確に言えば合
理的と言いうる立場というものがある、ということになるかと思います。
本制度の特徴は3つあります。
一つの特徴は事業主体で、国民健康保険と同じ市町村による、その都道府県単位の
広域連合とされたことです。
人口1万の町村でも国保事業は十億円規模となり、一般会計の財政規模とのバラン
スを考えると、舵取りが難しいことになります。一般会計の収支悪化の影響も避けら
れないところです。
今回、規模の小さな市町村国保が都道府県単位で広域化されたことにより、財政の
安定化が期待できます。
ただし、一口に都道府県といっても、人口数十万のところと大都市圏を抱える都道
府県が同じような状況にあるわけではありません。特に都道府県毎の高齢化率は、既
に25%を超えて35%程度まで上昇見込みのところもあれば、ようやく15%を超
えたばかりのところもあります。高齢化率は県民の有病率と生産年齢人口の割合を通
して保険財政収支に直結します。そして、高齢化率の高い都道府県の方が財政収支は
厳しくて人口規模の小さいことが多く、おそらくいくつかの広域連合で安定化の効果
は不充分という結果となるであろうと思います。やがて更なる広域化が必要となると
考えます。
あるいはこの時、平成の市町村大合併と同様に、財政事情の比較的良好な広域連合
側が反対するなどして広域化が進まなかった場合、人口規模の小さく高齢化率の高い
都道府県で、広域連合が財政破綻に直面することも予想されます。
その場合、容易に財政収支改善の論理が独走するであろう事が予想できます。何ら
かの負担の拡大がなければ、給付の抑制が行われることになるのでしょう。
二つめは、75歳以上という切り出し自体です。これによって、疾病リスクが高い
年齢層が他の年齢層から分離されました。ここでは広域化とは逆に、全体からハイリ
スクなセグメントによるロットが分離され、意図的な経営の不安定化が図られると共
に、はじめて特定年齢層について保険収支の「見える化」が図られました。
これまで後期高齢者層の医療費については、一部の専門家の間で議論が為されてき
たに過ぎません。一般国民どころか、医療関係者でも具体的数字を考える機会はあり
ませんでした。しかし今後は、少なくとも毎年年度末にその収支状況が明らかになり
ます。
日本の年齢別一人当たり国民医療費は、男女とも15歳〜19歳をボトムとして出
生直後と高齢層の両方向に上昇する凹型をしています(因みに諸外国では出産年齢の
女性に高い山が生じますが、日本の国民医療費の定義には分娩関連費用が含まれない
ため、日本でこの医療費の山が問題となったことは過去に一度もありません)。特に
高齢者の上昇は大きく、年齢別一人当たり医療費を縦軸に年齢を横軸にグラフ化する
と右に高い三日月型になります。
75歳以上高齢者を他の年齢層から切り離すことによって、この高額な医療費とい
う現実が容易に透明化できるはずで、行政の目論見としては、誰の目にもこれからひ
たすら死んでいくだけのはずのお年寄りの無駄遣いする医療費が見えるようになるは
ずです。
ところで、(簡易)生命表というものが毎年公表されています。これによると産ま
れたときに10万人いた人が、65歳、75歳、85歳、95歳まで生き延びて行く
のは、男で8万5894人、6万9674人、3万8417人、7094人、女で9
万3146人、8万5236人、6万3523人、2万1668人と各々急減して行
くことが分かります(平成17年都道府県別生命表)。
しかも、平成18年社会医療診療行為別調査結果の概況によると、年齢階級別入院
診療行為別(レセプト)1件当たり点数は、65〜74歳の4万2204.2点がピ
ークで、75歳以上は3万9741.5点とわずかですが単価が安くなっています。
1日当たり点数で見ると、0〜14歳が3628.3点と最も高く、65〜74歳が
2561.3点、15〜39歳が2407.9点、40〜64歳が2333.7点、
75歳以上は2094.5点と最も低くなっています(1点10円で計算します)。
外来では、レセプト1件当たり点数は75歳以上で最も高くなりますが、1日当た
り点数では、40〜64歳(団塊の世代は現在ここに含まれています)が最も高く、
65〜74歳がそれに次ぎ、75歳以上はさらにその次に過ぎません。
年齢階級別一人当たり医療費では一番高かったはずの75歳以上は、実はあまり高
くないということになります。これはどういうことでしょうか。
年齢と共に高くなるように見える一人当たり医療費ですが、これは単価の高さより
は有病率の高さが寄与するところが非常に大きいのです。しかも実際に長生きして使
うことなく、まだ比較的安いうちに亡くなってしまう人の割合がけっこう多いのです。
高齢になると高度の侵襲に耐える体力のない人が増えてきますから、高額の医療費を
伴う診療が行われることは自然と少なくなります。ある意味で当然の現象です。結果
としてどうなるかというと、余命に伴ってその後に必要となる一人当たり医療費は、
65歳前後を境に加齢と共に急速にゼロに近づいていくのです。
むしろ、前期高齢者の一人当たり医療費の方が生産年齢人口にとっては相対的に大
きな負担となっています。平成17年の国民医療費の概況によると、65歳〜74歳
の前期高齢者が使っている医療費はたった10歳分で全体の22.2%を占めます。
それに比して75歳以上全ての後期高齢者が使っている医療費は今後増え続けるはず
とは言いながらも28.8%で、とても元気な64歳以下人口の使っている49.0
%よりも少なくなっているのです。
それでは、後期高齢者を切り出すことの意味はどこにあるのでしょうか。結論とし
ては、疾病リスクの高いセグメントによる保険、一般化すれば、ハイリスク・グルー
プを集めた保険は保険料が高くつくし利ザヤが取れないという当たり前の事実が確認
できるに過ぎません。
これで他の世代への負担の転嫁を減らしていくとすると、必然的に所得の乏しい年
金生活者への保険料負担が強化されていくことになります。事実上の年金給付の引き
下げであり、早々に限界に達すると考えるべきでしょう。
また、高齢者には健康度だけでなく所得や資産にも大きな個体差のあることが知ら
れています。資産評価やその現金化、所得の把握は技術的に困難であり、また高所得
者層、資産家層は同時に政治的影響力の極めて強い社会階層でもあることから、これ
らへの負担の強化は実現不可能と考えます。
端的に言えば、後期高齢者を切り離し、その医療費単価を更に下げることによって
現役世代の医療費負担が軽減するというのは幻想に過ぎません。費用転嫁の縮小には
明白な限界があります。期待できるとしてもごくわずかでしょう。
三つ目は、医療費抑制の徹底を目的として、将来の外来医療への人頭制導入の道筋
が付けられたということです。…実はこの点が日本の医療にとって最も大きな転換点
の一つとなっています。
財政破綻に至らないまでも、ハイリスクグループを切り出していく後期高齢者医療
制度には、供給抑制による医療費抑制の機能がビルトインされています。一例が、後
期高齢者診療料を請求する、いわゆる「かかりつけ医」制度です。
現在のところ、「加算」と呼ばれる比較的穏やかな制度に留まっていますが、団塊
の世代が後期高齢者となる非常に近い将来には、後期高齢者一人当たりの定期定額制、
即ち人頭制(※注)の導入がなされることが明らかです。ただし、現在のところ厚生
労働省の担当官はこの否定に躍起となっています。
人頭制は疾病リスクを保険者から医療機関へと転嫁する仕組みに他ならず、患者を
たくさん抱え込めば抱え込むほど短期的収入は増えるが、長期的には高額医療費の発
生によって医療機関がトドメを刺されるリスクも増えるという仕組みです。
発想としては広域化の逆、ロットを小さくすることによって経営を不安定化し、供
給者をどんどん減らしていこうという政策です。
ただ、ニーズが増える中で価格を過度に抑制すれば供給は過少となることが避けら
れません。いろいろな議論がありますが、日本では診療所開業医ですら過当競争に
陥っている地域はあったとしてもごくわずかです。サプライサイドのスクラップが進
めば、不連続的に価格が上昇に転じる局面の生じる可能性を覚悟しなければなりませ
ん。しかもそれは操作困難です。
以上、三つの特徴を、様々な関係者の立場から見てみるとどうなるでしょうか。
まず、老若を問わず健康な国民は、税や社会保険料率が下がり、可処分所得の増え
ることを期待し、歓迎するでしょう。広域化によって小さな市町村に居住していても、
老人の医療費を原因とした財政破綻に直面する危険は減少しますし、もともと高齢者
の少ない大都市に居住していたのであっても、負担の増大は体感されにくいだろうと
思います。
後期高齢者の切り出しも、自分が給付を受ける側でないことがはっきりしている限
りは、ひとまず歓迎されるべき状況でしょう。
ただし、先に述べたように、結果は微々たるものに留まることが予想できます。ま
た、健康ではあっても既に後期高齢者の仲間入りをしているかそれを目前にしている
国民にとっては、広域化による市町村からの補助の打ち切りや、現在の支出の10%
を捻出している保険料の上昇や給付抑制は、各々違う理由で積極的反対は言い難いな
がらも、微妙な印象を受けるであろうと思います。特に属する社会階層によって利害
がさらに複雑に絡むこととなります。
人頭制については、健康な一般国民は興味を持たないでしょう。
法人税を支払い、また雇用主として社会保険料を被用者と折半して負担している企
業や事業主はどうでしょうか。
広域化には興味が持てないでしょうが、後期高齢者の切り出しについては、これが
ほぼ生産に関係しない年齢層の医療費であることから、無駄遣いという印象を持って
いる経営者が多いことでしょう。積極的に抑制と費用転嫁の軽減を求めて政治的圧力
を強めて行く材料とすることができるであろうと思います。
人頭制については、十分な理解が為されれば、これが中期的に医療費抑制に効果が
あることを期待して、やはり積極的な支持が行われるであろうと思います。
後期高齢者に属さない患者の立場となった国民は、広域化や後期高齢者の切り出し
にも、人頭制の導入にも、自分が直接関係しないことから興味の持てないことが多い
だろうと思います。
後期高齢者が患者となった場合は大変です。広域化によって市町村からの種種の支
援が打ち切られる一方、切り出しによって新たな保険料の自己負担が生じて、しかも
将来的にはほぼ確実に保険料率が上昇します。人頭制の導入によって受診時の自己負
担分は確実に減少しますが、地域連携体制の整備されていない地域では、充分な専門
的治療は受けられなくなります。長い目で見れば、医療機関の減少による利便性の減
少を覚悟する必要もあります。
医療機関の立場ではどうでしょうか。広域化によって財政破綻の回避が図られたこ
とはひとまず評価されるべき所です。しかし、後期高齢者の切り出しによる医療費抑
制の強化や人頭制の導入は、確実に経営体力を奪っていきます。
診療所や小規模な病院が倒産するとき、他の一般的事業と同様に事業主は身ぐるみ
剥がれて再起不能に追い込まれます。医療費抑制政策について行けなくなれば、後期
高齢者保険制度からは離脱し、自由診療を選択せざるを得なくなることが予想できま
す。後期高齢者についてだけ離脱が許されるならそこだけ、だめなら皆保険全部から
の離脱を考えざるをえないでしょう。
そして、そういう経営戦略の選択できる医療機関であればともかく、もともと供給
過小な地域ではその選択すら許されず、供給過少の一層の促進が為されるであろう事
もまた予想できます。
ただ、医療機関はまだ逃げ場を探す余裕があるだけマシなのかも知れません。
以上見てきたように、後期高齢者医療制度については、この合理性を享受できる立
場と享受できる特徴の組合せが複数あります。他方、ほとんどメリットがなく、デメ
リットばかりが目につく場合も少なくありません。
最後に、「灰色のガンダルフ」の二つの言葉で、本稿を閉じようと思います。長文
にお付き合い下さってありがとうございました。
しかしどのような時代に生まれるかは、決められないことじゃ。わしらが決め
るべきことは、与えられた時代にどう対処するかにある。
死んだっていいとな! 多分そうかもしれぬ。生きている者の多数は、死ん
だっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あん
たは死者に命を与えられるか? もしできないのなら、そうせっかちに死の判定
を下すものではない。
── J.R.R.トールキン『指輪物語』
北海道大学大学院医学研究科医療システム学分野 助手:中村利仁
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注:「人頭制」とは、診療所のかかりつけ医を登録主治医とし、初期診療においては
登録された主治医以外受診出来なくなるという制度。診療報酬は、登録された人数に
応じた定額払い方式。現在の日本では、患者はフリーアクセスで、どこでも診療を受
けることができるが、人頭制が導入されると患者の選択はなくなるとも言われている。
(文責:JMM編集部)
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JMM [Japan Mail Media] No.479 Extra-Edition
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【発行】 有限会社 村上龍事務所
【編集】 村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】
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(本稿はJMM [Japan Mail Media] No.479 Extra-Edition 2008年5月13日に掲載された投稿を、編集部の許可を得て転載したものです。)
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コメント
中村先生いつも丁寧な解説をありがとうございます。
さて私が考える後期高齢者医療制度の問題点は以下のようなものです。
1.本来、保険制度と言うものは、健康な人が沢山存在して始めて成り立つものです。健康で自分では医療費を使わないのに保険料を払っている人が病気の人を支えているわけです。
有病率が上昇する後期高齢者だけを集めて保険が成り立つかといえば成り立つわけはありません。ならば後期高齢者保険は赤字が普通であって国・地方自治体からの赤字補填が前提となります。ところが赤字分を税金から社会保障費として計上するというシステムにはなっていないと思います。
2.一方、日本の社会は年功序列制度ですから、子供を育て養育費がかかる現役世代より、引退後の祖父母の世代のほうが蓄えを持っているという傾向はあろうかと思います。だから、高齢者にも応分の負担をしてもらおうという考えには賛成です。
かつて革新政党が共産主義を手本とし、また人気取りのため老人医療費を無料にしたという経緯があります。現在では多くの市町村で小児医療費を無料化しているという現実があります。これらは一見、良心的な政策にも見えますが、日本国は福祉予算を当たり前のものとしては考えていませんので、将来どうなるのか不安な面が残ります。
3.最近の行政は不利な政策はあまり宣伝せずに、知らぬ間にそっと実施している傾向があるように思います。特定健診にしても後期高齢者保険の天引きにしても、賛否はあれ防衛庁の省への格上げとか手法が姑息です。
そのため、後期高齢者保険では、2年前に制定されていたにもかかわらず、十分な準備がされていません。天引きされるほうも抜き打ちの感はぬぐえず、医療機関側も保険証が届かず大混乱に陥りました。