遠くて遠かったハンセン病。

投稿者: | 投稿日時: 2009年11月03日 21:57

今年は、日本でハンセン病の隔離政策が施行されて、ちょうど100年にあたるそうです。そのため、このところその関連記事が、続々と新聞に掲載されています。

●【遙か ハンセン病隔離100年】(1)忌み嫌われた病気
(10月30日 産経新聞)
●【遙か ハンセン病隔離100年】(2)差別と偏見今もなお(10月31日 産経新聞)

●ハンセン病回復者 足りない行政支援
(2009年10月24日 東京新聞)


これについて私自身は、先日乗った電車の社内広告で、「2009年度企画展『隔離の百年-公立癩(らい)療養所の誕生-』」なる展示が、12月20日まで、東村山の国立ハンセン病資料館で行われていることをたまたま知り、感慨深く思っていたところでした。と同時に、今もなお偏見や差別、そして行政支援の不足に苦しんでいる方々の存在を普段まったく意識せず、のうのうと暮らしている自分を改めて認識し、その暢気さを思わず自省してしまったのでした。

そこでまず、国としての隔離の政策を振り返るべく、少し調べてみました。


1907年、隔離を規定した法律「癩予防ニ関スル件」が発布され、2年後の1909年、全国に5つの公立癩療養所(合わせて1000床以上)が開設されました。1900年当時、全患者数は3万人を超えていたとのこと


ただ、そもそも日本でこの病気が記録されたのは、飛鳥時代、聖徳太子のころまでさかのぼる(!)そうです。その後、1000年以上、原因不明の病として恐れられてきました。そして明治初期の1800年代後半、ようやくアルマウェル・ハンセンによって初めて、それが感染症であることが判明します。現在用いられているハンセン病の病名は、そこからとられたもの。その後、隔離政策が施行されるまでは、民間の治療施設(キリスト教会や外国人によるものも多数)で治療が行われていたようです。(詳しい年表はこちら


私が今回、「へぇ」と思ったのは、この頃、治療に関してはわからないことばかりだったものの、当時すでに感染力の弱さについては、多くの学者が言及していたということです(上記年表より)。にもかかわらずこの後、患者は生涯にわたって隔離されるという重大な人権侵害を伴う措置を国が法律で定めたというのは、どういういきさつだったのでしょうか。


そこでさらに当時の時代背景を併せて見てみました。1907年といえば、日本は明治時代後半、日露戦争に辛くも勝利した直後です。その頃、ハンセン病患者は前述のとおり3万人を超えていましたが、当時の日本の人口はたしか4000万人超くらいだったと聞いたことがありますから、今の感覚で言ったら10万人くらい患者さんがいる、といったところでしょうか。10万人といえば、珍しい病気ではないものの(麻疹などと同じくらい?)、インフルエンザが100万人単位の流行であることを考えてしまうと、さした数字ではないように思います。しかし、治療法がわからなかった当時、「人にうつる不治の病」として恐れられ、患者のなかは家や学校・職場も追われ、行き場を失って路上で生活せざるをえなかった人々が多くいたことは、想像に難くありません。こうしてハンセン病患者が路頭に迷っているという状況は、文明国として世界にアピールせんと勢いづいていた政府にとって、不名誉であり、恥辱であるとする「国辱論」が盛り上がった、ということのようです。


この法律は数回の改正を経て1953年(昭和28年)に「らい予防法」になり、そこでは療養所への強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の強い権限などが規定されていました。これにより事実上、患者さんの多くは生涯を療養所で終えることとなったのです。そして患者数が大幅に減り、新規患者は毎年10名以下となった現在も、高齢や後遺症、それによる偏見等のために、4000名以上が療養所での生活を続けているそうです(近年の発症者はまだしも、高齢者の多くにはそこでの人生しか知らず、国からの支援も足りず、結局はとどまる以外に選択肢がないというのが実際のところなのです)。

今日までに、患者さんとご家族が受けた非人道的な扱い、理不尽な生活と、長い差別・偏見の歴史は、いまや多くの人が知るとおりです(上記新聞報道でも触れられています)。特に戦後、医学の発達もあり、ハンセン病は恐ろしい病気ではないことがますます明らかになりつつある過程においてなお、1948年優生保護法で、「癩」患者の断種・人工妊娠中絶について「本人及び配偶者の同意が有れば」可能であるとあえて明文化されたことも、信じがたい措置です。そもそも、ハンセン病は遺伝病ではないのにもかかわらず、です。


そのような強制隔離等の措置が廃止されたのが、ようやく1996年(らい予防法の廃止に関する法律)。つい10年ちょっと前、平成に入ってからだということも、愕然とする事実です。それまでの間、隔離された患者たちはまさに、世間にとって忘れられた存在であり、放置されていた、といって過言でないと思います。国が人生を奪ったに等しく、本当に罪深いことです。そして報道にもあるとおり、今なお差別や偏見は終わっておらず、のみならず、補償にかわるものともいえる行政支援も足りていないというのは、かなりショックでした。


これについて、国、行政をむやみに責める気にはなれません。国の怠慢は、国民である我々の意識の欠如であり、怠慢に他ならないからです。私自身がそうでした。冒頭に書いたように、いまさらながら反省の念に駆られるばかりです。


ちなみに私が「らい病」「ハンセン病」「ハンセン氏病」といった名前を知ったのは、かなり幼少の頃でした。父の実家が東村山の隣接する市、まさに隣町にあり、多磨全生園周辺は、実は当時のお散歩コースだったのです。今も比較的残っていますが、場所柄かとてもよい雑木林があって、朗らかな季節には祖父母の家を訪れるたびに彼らや伯母たちとぶらぶら散策に出かけたものです。敷地の内部にまでは入りませんでしたが、それに沿った道を歩きながら、ここはどういう場所なんだろうとぼんやり考えていた記憶があります。そして小学生くらいになると、親から隔離政策とその問題について、少しずつ教わるようになりました。また、小学校高学年の頃に家のLDで(時代を感じますね)見た「ベン・ハー」という映画(映像技術、規模、迫力、ストーリー、どれをとっても1959年の作品とは思えない素晴らしさの歴史スペクタクル映画。いろいろな要素が詰まった超大作です。)や、中学生で読んだ松本清張の「砂の器」(皆さんご存知名作です)にも、ハンセン病患者は登場してきました※。

※余談ですが:
もちろん、ハンセン病の歴史からすれば、こうした作品が社会に与える影響についても考えるところはありますが、今となっては正しい知識を各個人がきちんと持っておく、あるいは教育の過程で教わることが必須であり、そうであれば正しい判断ができるはずだと思うのです・・・。


こうして、らい病あるいはハンセン病というのは学校で教科書に出てくるよりずっと前、小さい頃から間接的に目や耳に入ってくる病名だったので、私自身の認識としては決して「どこか知らないところの知らない病気」という感覚ではなかったはずなのです。にもかかわらず、やっぱり「近くて遠い病気」どころか、「遠くて遠い病気」になってしまっているのが実際のところだった、と今回気づかされてしまった、というわけです。


そしてきっと、多くの日本人にとって、ハンセン病は実のところ「遠い遠い病気」になってしまってはいないでしょうか。そうなってしまっている原因の一端は、責任を再び押し戻すわけではありませんが、やはり隔離政策にもある気がしてなりません。言葉は悪いですが、それはまさに「臭いものにフタ」という態度であって、そうしてしまえばあとは、「去るもの日々に疎し」となるのは、無理もないように思うのです。


さらにこれは、ハンセン病だけに限ったことではないはずです。確かにハンセン病はもっとも極端な例であり、昨今まで医学的にも社会的にも適切とはいえない形で取り残されてきた状況があるだけに、一応はその問題も表立って指摘されてきました。しかし、隔離が差別や偏見、そして忘却をもたらすというのであれば、例えば学校教育における心身障害者への対応等にも、いま一度見直されてしかるべき点はないでしょうか。


最後に改めて、ハンセン病に関する正しくわかりやすい知識を、モグネットというサイトから引用しておきたいと思います。

遺伝病ではありません。
伝染力の極めて弱い病原菌による慢性の感染症です。
乳幼児のときの感染以外はほとんど発病の危険性はありません。
菌は治療により、数日で伝染性を失い、軽快した患者と接触しても感染することはありません。
不治の病気ではなく、結核と同じように治癒する病気です。
治癒したあとに残る変化は単なる後遺症にすぎません。
早期発見と適切な治療が患者にとっても公衆衛生上からも重要です。

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コメント

医学部のときに患者さんがわざわざ医学生(ポリクリの数人のグループ)に会いに来てくださいました。変形した自分の肉体を、偏見を持たない医者を育てるために、見せに来て下さったのです。まだ若いといっていい中年の普通の主婦の方でした。その方の勇気に衝撃を受け、医者になるということは、大なり小なり、患者さんの「身をさらす」思いを受け止めることなのだ、と教えられました。一部の指が欠けてこぶしのようになった手を両手でしっかり握りしめて、御礼を申しました。

生涯いち医師さま

貴重なご経験談をありがとうございました。
私はマタニティーマークに関してこのブログに書かせていただいたときに「自ら行動する勇気」の大切さを自覚したのですが、この主婦の方の勇断にはお話を聞いただけでも圧倒され、感銘を受け、そして改めて自らの小ささを思い知りました。

一方、医師の方々からは、教科書よりも患者さんに教えられることが多い、という話を聞いたことがあります。医学的なことだけでなく、まさに「医は仁術」の「仁」とは何たるかを教わった、というエピソードであることもしばしばです。

病気や怪我の当事者となると、つい医療を享受し、それを要求することばかりになってしまいがちです。しかし、そうした境地をすでに超越し、患者・元患者としての自分に何ができるか、そこまで考えて行動できる人たちがいるのですね。自分が容易にそれに続くことができるようになるかというと、正直自信がありません。それでも何かあったとき、そうした人たちのことを思い出そうと思います。

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