「入院から在宅へ」という考え方について コメント欄

投稿者: 新井裕充 | 投稿日時: 2011年09月21日 22:16

 医療費を抑制するため「入院から在宅へ」と言われた時期もあったが、最近はあまり聞かなくなった……のは気のせい? (新井裕充)

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コメント

いつもお世話になっております。

在宅緩和ケアに従事している立場からコメントさせていただきますが、日本慢性期医療協会会長の発言には非常に違和感を感じます。
この発言からは、「在宅に患者をとられると病院は困るんですよ」という強いメッセージを私は感じました。

以下に具体的な感想を述べさせていただきます。


1.日本慢性期医療協会の武久洋三会長は、「最期は病院に入院して、お医者さんや看護婦さんに看取られながら死にたいじゃないですか」と言う。

誠に勝手な私見であり、その考え方が誰にでも適応されるとは限らないと思います。最期は病院に入院して病院にお金を落として死んでくださいね、と言っているように私には思えてなりません。


2.在宅だったら、だーれもいない所で知らん間に死ぬわけですからね、ちょっと寂しいんでね。生まれた時は1人で、死ぬ時も1人とは言いながら、生まれた時は産婆さんもおるからね。やっぱり、全然違うわけですよ。

そんなことは全くありません。病院であっても誰もいない病室で知らん間に死んでいることもありうるでしょう。


3.看護婦さんに行ってもらって、「じゃ、明日の朝に死亡確認に行きます」って言って、「それでいいですか?」ときくと、「それでいいですって言ってます」と。それが現状なんですよ。
 これはね、ちょっとお寒い限りで、何ともまあ......、ターミナルで、「いよいよ息を引き取るのは数時間後ではないか」と言えばですね、一応、お医者さんは亡くなるまでの間の3時間、一応診てあげるというような余裕がないとこれ、できないわけですよ。
 「あー、あと2、3時間やな」と思ったら、「じゃ、私は診療所に帰ります」って言って、「亡くなったら次の日に来ます」って言って、「死亡診断書を書きますわ」と言ったらあまりにも味気ないという感じはありますよね。

では、病院で入院している患者さんがあと数時間で息を引き取ると思えば、主治医はずっと病院に待機して患者に付き添うべきであるということなのでしょうか?通常は、病院に勤務していても主治医は夜間は帰宅して、当直医が死亡確認するのではないのでしょうか?何を論点としてこういった発言をされているのか私には全く意味が理解できません。


4.24時間以内に診ていないと、死亡診断書が書けないとかいう法律的なものもありますしですね

これは解釈の誤りです。「24時間以内に診察した患者は、その病気で亡くなったことが明らかであれば死亡に立ち会わなくても死亡診断書を発行できる」というのが本来の趣旨であり、「患者が死亡した場合、24時間に診察していなければ死亡診断書を書けない=警察に通報する」というのは全くの誤解です。国は大らかな看取りを保障してくれているのですが、日本慢性期医療協会会長ですらそんなことはご存じないのでしょうか。


以上、あまりにあんまりな発言に思えましたのでコメントさせていただきました。長文で失礼いたしました。

第一に、死亡診断書に関する解釈はみどり病院の清水氏の解釈が正しいです。第二に、もちろん、自宅で孤独で死ぬことはありますが、自宅で最期を最期を迎える方の大部分は家族や友人や、その他のプロフェッショナルの方に看取られます。特に在宅医療を受けている方はそうです。死亡することを予測することが医師の仕事ですから、死期が近いと判断されれば、だれかがつきそうように様々な手立てをすることは当然のことです。

まず、「○X協会」なづものが、いかなる業界団体なのか、それを一般読者にもわかるように教えてくださるとありがたいのですが。医学論文では、著者がどんな製薬会社から顧問料を受け取っているかをすべて開示します。それと同じで、この方が、どのような利益団体を代表して発言されているのかを、まず知りたい、と思いました。
  国民が、死に場所をイメージするとき、「迷惑をかけたくない」という感情も大きく影響します。「迷惑」が、「税金」なのか、「家族」なのか、という価値観の変化は非常に大きいと感じています。
  昔は、「嫁」というのは孝養の倫理が浸み込んだ心をこめた世話をしないと親戚や村人から何と言われるかわからない、奴隷以下のタダの労働力で、介護をして看取るのは嫁の当然のつとめでした。嫁がどう思っているかなんて、誰も考えませんでした。
  それに比較して、「お上の世話になる」ことは非常な恥であり、家族も、世間に顔向けできないから、と、身内で必死で介護したのです。
  今は、もう、同居していても書類上は世帯を分けて、親を生活保護にする、などというのは「常識」です。
  そのような感覚なので、「家で死にたいけど、家族に迷惑をかけるのは嫌」なのであり、それが、どれだけの医療費となって「お上」(=税金)に迷惑をかけることになるかなど、はるかに気にしなくなってしまったのです。
  そりゃあ贅沢です、3交代勤務の、大学出(このごろは大学院出)の看護師さんに、24時間コールしてよくて、当直医とはいえ、いちおう、医者(養成には勉強も時間も金もかかっていますし、日本では当直体制は労働基準法無視で、労働基準法遵守したら日本中の病院がつぶれることはもはや周知の事実)が呼ばれて「ご臨終です」と宣言してくれるのですから。
  このままでは「病院死」で経済破綻してしまうのです、日本は。
  必死になって医療費を節約しようとしている「厚生労働省」を悪者にしていていいのですか?
  日本の明日はギリシャです、スペインです。
  「どこでそのように死にたいのか」
  「それに、どのぐらいの金を払う用意があるのか」(お忘れなく、日本の医療制度は、ほとんど英国式の社会民主主義の考え方をとりいれているので、米国より優れていますが、でも、医療費はタダではない、それどころか、国家予算の大きな部分を占めているのです)
  医療を受ける権利は人権だ。その通りです。
  では、年をとり、体がしだいにいうことをきかなくなり、弱っていくのを、医療でおしとどめることは可能でしょうか。
  死亡率は100%です、死ななかった人間は歴史上、一人もいません。必ず、誰でも、死にます。死ぬ前に、(事故死でない限り)長い加齢の過程・闘病生活などが横たわっています。現在、日本人の健康寿命と実際の寿命との落差は7年であり、平均して7年間は「病んで」から、死に至る、というのが今の日本人の死に方です。
  自然に老衰して食べられなくなっていく人々に、胃瘻をつけるのは、果たして「医療」なのでしょうか。「延命=医療」なのでしょうか。
  元気なうちに、どのような死に方をするのかを想像して、希望を聞いておくことが大切なのではないでしょうか。
  「畳の上で死にたい」という願いを、現代風に具体化して、国家を破産させない死に方の国民的合意を探る時期です。
  ナントカ協会の利益誘導発言に、いささか呆れて、長文失礼いたしました。

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