和賀井敏夫・順天堂大学名誉教授インタビュー
いえ、いろいろな医学会に応募しても全く採用されず、物理電気系の日本音響学会で何とか発表を続けさせてもらっていたくらいです。ところが昭和31年になって、突然、ボストンで開かれる国際音響学会から発表させてくれるという招待状が届きました。たまたま学会長が先ほど名前を挙げたMITのボルト教授だったためです。
しかも、この招待状は「エクスチェンジ・ビジター・プログラム」という日米両政府の科学者交換協定に基づいたもので、招待側が20日間の滞在費を負担してくれるという夢のようなものでした。ただし、往復の旅費は被招待者側で負担することになっていました。とりあえず招待状をアメリカ大使館に持って行きましたら、係官が非常に感心してくれました。この年に日本人で招待状をもらったのは2人だけだったからです。渡米の旅費は日本政府が負担するはずなので、この招待状を持って文部省へ行きなさいというので、意気揚々と文部省へ行きました。ところが文部省では、日本政府としては一私立大学の助手に出す予算は全くないので、あなたの大学と相談しなさいというのです。同じ招待状をもらった東北大教授が往復の航空運賃を支給されたのと大変な扱いの差でした。
当時、JALのアメリカ便が運行されていまして、往復が300ドルくらいでした。1ドル360円の時代ですので10万円くらいですね。私の月給が4千円でしたから2年分の年俸に相当します。さすがに自費では無理なので大学事務局とも相談しましたが、教授ですら戦後に外国の国際会議に出席した人がいないという状況でしたので、助手に過ぎない私など問題にもされませんでした。
しかし、このチャンスをみすみす逃がすのは余りにも惜しい。何とか我々の研究成果を発表したいし、世界の研究者とも会って見たいと非常に強く思いましたので、必死の思いで医局員ともいろいろ相談しましたところ、米国へ向かう貨物船の船医になれば行けるぞという案が出まして、大学を休職して日光丸という貨物船の船医になりました。果たして学会に間に合うかどうかは分からなかったのですが、ボルト会長に「こういう訳で行くから、学会に間に合わなくても研究室だけは見学させてほしい」と手紙を出して出発しました。このいきさつは学会で大変な話題を呼びました。
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