損得勘定をしっかりと

投稿者: 中村利仁 | 投稿日時: 2009年04月28日 15:32


 車を全く運転しないのに自動車保険に入る人はほとんどいないでしょう。


 およそ感染症というのは、機会があれば全ての人に感染するというものではありません。

 病原体の立場から言えば、簡単に取り憑ける人もいれば、頑張っても袖にされてしまう人もいるということになります。

 人の側で言うと、体調一つで同じ人でも病気に罹ってしまうこともあれば罹らないこともあります。同じ罹らない場合でも、そもそも身体のどこかに住み着くことすら許さない場合と、何となく共存する場合があります。

 さらに言えば、同じ病気に罹ったとしても、ごく軽く済んでしまう場合もあれば、生死の境のお花畑(があるそうで、心肺停止した患者さんの何人かから同じお話を聞いたことがあります)をさまよう人も、三途の川の向こう岸まで行ってしまわれる方もあります。

 それを決めているのは、病原体の悪さ加減の他にも、季節や環境、また人それぞれの分子生物的個性などのあれこれがあるようですが、いずれにせよ、今のところ新しい感染症が出現した場合に、その病気に罹る危険、重症化して死亡する危険がどれほどあるのかはわかりません。できるだけの準備をしたいのが人情というものでしょう。

 ただし、予防法はないのに効果的な治療法のある病気の場合は考え方を変える必要があります。そして同時にもうひとつ、どんなに効果的な治療法でも、病気そのものと同じように一定のリスクを持っているのだということも併せて考える必要があります。

 その病気に罹るかも知れないし、罹らないかも知れないというところは変わりません。しかしながら、罹ってから治療を受ければいいので、別に他に仔細はないのです。確かにいくらいい治療法でも、薬石の効無く亡くなられるケースもあるでしょうが、残念ながら事前に何かしておけばその結果が回避できるというわけでもありません。せいぜい、病気に罹らないような、できるだけの布石を打っておくというだけのことしかできません。

 他方、どんな効果的な治療法でも一定のリスクを持っているのですから、必要の有無をよく考えずに治療開始を選択することはオススメできません。

 本当にその病気なのか、他の病気ではないのか。その判断は急ぐのか、待てるのか。治療が必要な人なのか、あるいは状態なのか。…つまりは治療しないと死ぬのか、死ぬに等しいような目に遭うのか、一時の苦しみに過ぎないのかをよくよく考えた上で、さらに医者や周囲の皆さんと相談する必要があるのです。

 病気に罹った人が治療を受けるのであれば、治療そのものの危険と諸共に、治療による健康の回復という利益が望めます。しかし、実はその病気でなかったのに治療を受ければ、治療そのものの危険のみを背負うことになり、どう考えても得はないのにあるのは損ばかりということになります。

 ワクチンというのは悩ましいものですが、基本的な考え方は同じです。どんなワクチンでも一定のリスクを持っているのです。効果的な治療法がある場合であれば、病気に罹ってはいけない理由があるのか、病気に罹ってから治療したのではいけない理由があるのかを考える必要があります。

 治療が必要な患者さんがたくさん居て、治療に当たる医療従事者や機材が足りないとき、トリアージが行われます。治療が必要で、かつ治療しないと命に関わる、ただし、治療すればほとんど助かるような人が最優先です。助かる見込みの薄い人は、状況に応じて後回しです。治療の必要のない人も後回しです。

 これは医療従事者側から見た場合の話ですが、裏返せば治療を受ける側からも同じ事が言えます。

 同じ病気であれば、治療が必要で、治療しないと命に関わる、ただし治療すればほとんど助かることが期待できるというのであれば、是非とも治療を受けるべきでしょう。

 治療の必要がないのであれば、治療のリスクを引き受けるだけ損ですから、治療を受けるべきではありません。人混みを避け、自宅で養生に努めるべきでしょう。

 ただし、助かる見込みの薄い人であればどうすべきなのか、これは容易に結論が出せる問題ではありません。しかしながら、助かる見込みというのは、実に相対的な問題に過ぎません。治療を必要とする人全てにとって普遍的な問題でもあって、医療従事者や機材が充分という水準をどこに置くのかという問題とほぼ同値です。

 これに対する解決策を見出した人の名前をビスマルク、策の名を医療保険制度と言います。

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