「薬害を防ぐのは組織でなく人」 薬害検証委インタビュー① コメント欄

投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2009年06月16日 01:19

 先般お伝えしたように、『薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医薬品行政のあり方検討委員会』が2年目に入った。医薬品行政のあり方を検討すると称して組織論が始まったのだが、どうも唐突な印象を拭えない。当の委員たちはどう考えているのか知りたいと考え、正反対の立場にいそうな、医薬品医療機器総合機構(PMDA)審査官経験のある堀明子・帝京大学講師と薬害サリドマイド被害者である間宮清氏の2人にインタビューしてみた。(川口恭)

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コメント

岩田健太郎と申します。

 まず、薬害とは何か、という根源的な議論が充分咀嚼されないまま「薬害はよくない」が「副作用は良くない」にいつのまにか変換されるリスク・誤謬を明示されたことは大切だと思います。有害事象が起きることが薬害である、という観念をいだいてしまうと医療そのものを放棄する以外、これを払拭する手段はないからです。いろいろな見解はあるでしょうが、有害事象が有害事象として患者、医療者、行政官などのプレイヤーに認識されないまま被害が広がり続けることが薬害なのでは、と私は緩やかには認識しています。
 また、当事者が問題に対応すれば適切な対応になる、という幻想にメスを入れられた見解にも同意します。むしろインサイダーになってしまうと、「立場」「事情」「情念やルサンチマン」が渦巻いてしまい、理にかなった判断が出来なくなることはよくあります。何が問題でどこがゴールなのか、という問題解決の根本的な枠組みも見失われやすくなるのです。
 
 ところが、このような高い見識が開陳される一方で、とたんにPMDAそのものの評価がアマアマになってしまうのが堀氏の議論展開の弱点です。これは、彼女が指摘した「検討委員会」の構造的弱点と全く同じ構造からくる誤謬なのが皮肉です。
 例えば、仕組みの構築に「PMDAに任せるのが妥当」ととくに根拠も示さずにいきなり結論づけられています。しかし、医薬品というプロパティの属性が製薬メーカーやPMDAだけに所属するのではなく、ユーザーたる医師、薬剤師、患者などたくさんのキープレイヤーたちが関与したものである以上、このような乱暴な物言いは許されません。そもそも「薬害」という構造を生み出す最大の要素が情報隠蔽、情報のラテラリティーなのです。最近、ようやく是正傾向にありますが、既存の薬剤添付文書改正や運用の改善、新薬の運用に関してユーザーの声が非常に届きにくいのは厚労省やPMDAのお役所体質、問題が大きくなりすぎないと認識しようとしないことなかれ主義にあります。

http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/p0618-1.html

 厚労省もPMDAも程度の差こそあれ、叩かれて引きこもるという日本のおかみ依存、過度な責任引き受け、歪んだ使命感と諦観がもたらす沈黙、という同じ構造がぎくしゃくの遠因になっています。プレイヤーは異なれ、「構造」そのものは同じです。だから、仕組みの構築にはどこかが全てをになうようなラテラリティーを排除したやり方が望ましいです。もちろんそのためには、国民(被害者の会だけではなく)、医療者、学術団体も「自分たちの問題」という意識を高く持ち、「誰かに任せる」依存体質を廃してプレイヤーとして毅然と振る舞い、参加することも必要なのですが。

 治験にたいする堀氏の見解も弱いです。「はじめに治験ありき」という立場が貫かれているので、それに対する条件留保がないのが問題です。例えば、「やってみたら、どうも海外と違いそうだということがあります」とありますが、ではそれは何パーセントで生じるのか、全ての医薬品に対して一律に行う必然性はどれくらいあるのか、なぜ他国では同様の見解が為されない(ことがある)のか、ドラッグラグとのリスク利益のバランスを考えてどこまで許容できる懸念なのか、という部分が抜け落ちています。やめてしまえというのが極論であれば、根拠の「程度」が明示されないまま「とりあえず治験」というのもやはり極論です。

 私は、ある抗菌薬の添付文書の副作用情報が事実に反しているのでそこをただして欲しい、と要望したことがありますが、「臨床試験がないのでダメ」と拒否されたことがあります。しかし、文書そのものに根拠がないものを新たなデータを揃えないと改訂しない、というのは論理的整合性を持っていません。「とりあえず治験」「治験をすることそのものの自己目的化」という役所(あるいはそれに準じた構造物)が陥りがちなトートロジーがそこには見え隠れします。

 「こういうことが起きるかもしれない」という事前の注意喚起は結構ですが、それがいつの間にか「禁忌」になってしまい、ユーザーの手足を縛ってしまうのも日本の添付文書の特徴です。これは新型インフルエンザ対策の誤謬とパラレルで、お上が箸の上げ下ろしまで規定してしまうとユーザーは現場で困惑します。注意喚起と命令は別物だということです。もちろん、添付文書は命令ではない、という「理屈」は成り立ちますが、それは現実にはそう運用されていない以上、机上の空論、アリバイ作りに他ならないのです。
 
 他の国からニセ薬を売られるリスクは何パーセントくらいあるのでしょう。自国で薬を作る、何パーセントの薬は自前で供給しなければならないのでしょう。それは現在の我慢や忍耐を強要するほどの国益なのでしょうか。あるいはどこまでのそれが国益なのでしょうか。治験をやらないでも国内に導入して良い薬だってたくさんあるはずです(実際政治的に入れられていますし、、、)。治験をやる、という前提が目的化される誤謬が払拭されず、治験スキップの懸念を「あるなし」ではなく「どのくらいのリスク」という量的吟味がされない以上、結局はこの議論は既得権益の保持や立場の固持(誇示)といったチャイルディッシュな議論に堕ちてしまうのです。立場の固持(誇示)はラテラリティーの温床です。ラテラリティーこそが、薬害の温床でもあることを、我々は再度理解し、確認する必要があるのです。

岩田健太郎
教授
医療リスクマネジメント分野 神戸大学都市安全研究センター
微生物感染症学講座感染治療学分野 神戸大学医学研究科
感染症内科診療科長 神戸大学医学部附属病院
副センター長 神戸大学感染症センター

>岩田健太郎さん

>注意喚起と命令は別物だということです。もちろん、
>添付文書は命令ではない、という「理屈」は成り立ちますが、
>それは現実にはそう運用されていない以上、机上の空論、
>アリバイ作りに他ならないのです。

本来、命令ではないはずの添付文書が「命令」として運用されている原因は、どこに存在するとお考えでしょうか。

「お上」に問題があるのか、「ユーザー」に問題があるのか、あるいは両者が絡んだ問題なのか、お教え頂ければ幸いです。

岩田健太郎さま
>「PMDAに任せるのが妥当」ととくに根拠も示さずにいきなり結論づけられています
記事の中には「やるのは人であって、組織ではありません。現状ではPMDAが担っていて、そこに専門家も集まっているので、まずはPMDAに任せるのが妥当」とあるので、組織論としては十分な根拠というか現実的な方法論の提示と言えるのではないでしょうか。

>「はじめに治験ありき」という立場
記事には、「治験だけで全ては分からない。だからといって、やめてしまえというのは極論です。」と書かれているので、必ずしも「治験ありきという立場」ではないように思います。

>自国で薬を作る、何パーセントの薬は自前で供給しなければならないのでしょう。
この「薬」の部分を「医者」に変えても文章的には成立するように思いますが、その「極論」にはご賛成でしょうか?

インドのように、自前新薬はなくとも後発品で世界のトップになることは可能ですが、輸入に頼るのが吉ですね。

ドラッグラグと薬害を同時に解消するためには、アメリカかEUの認証をもって日本の認可と見なし、損害賠償も製造元の外国メーカーに請求することにすればよいのです。

医師の養成も、フィリピンやインドネシアとのEPAを改定して彼の国の医師免許を日本の医師免許と見なせばすべて解決します。
ついでに、室町時代に「世界」通貨であった永楽銭を導入したように、円を廃止して人民元を導入すれば為替リスクも解決します。

それで日本はどうなってしまうか、私には分かりませんが、きっと岩田先生が考えてくれることでしょう。

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