人の死について考えること。

投稿者: 堀米香奈子 | 投稿日時: 2009年06月19日 16:34

昨日、衆議院本会議で臓器移植法改正案が採決され、脳死を「人の死」とし、15歳未満からの臓器提供(現行法では禁止)を可能とする案(A案)が、賛成多数で可決されました。

15歳未満認める「A案」衆院で可決…臓器移植改正案
読売新聞 2009年6月18日


争点は、大きく2つありました。脳死の法的な位置づけと、14歳以下の脳死の子どもからの臓器摘出・提供です。

ちなみに可決されたA案と並んで有力視されていたのは、15歳未満は家族の同意と第三者の審査を条件に脳死移植を認める案(D案)でした。他には、現在は15歳以上とされている臓器提供可能年齢を「12歳以上」に引き下げる案(B案)と、脳死の定義を厳しくすることを求めた案(C案)がありました。各案の詳細や提出者の真意等は以下の記事に詳しく書かれています。

臓器移植法改正案:「脳死」「子ども」主張対立 法案提出者が討論会
毎日新聞 2009年5月26日


これら法案に対する世論の意見はどうだったのでしょうか。事前に行われた下記調査によれば、世の中の人の考えとしてはD案に近い回答が集まったようです。つまり、親が許せば15歳未満の脳死者からの臓器摘出・提供を認めるが、脳死を一般的な人の死とは認めない、というスタンスです(ただしD案では、親から虐待を受けて脳死に至った子どもの存在を憂慮して、第三者の判断も仰ぐように念を入れる形となっていました。たしかに、虐待がある場合、親の判断が一般に期待されているようには機能しないことは想像に難くないですね)。

毎日世論調査:15歳未満からの移植…親許せば賛成57%
毎日新聞 2009年6月16日


これに対し、今回可決されたA案は、脳死を「人の死」とする立場をとるものです。といっても、「衆院法制局によると、臓器移植法は臓器移植の手続きについて定めた法律で、その手続き以外に法律の効力は及ばない。このため、移植につながらない脳死判定による死亡宣告は法律上ありえない」とのこと。つまりA案が参議院も通過して成立したとしても、脳死=“一般的な”人の死となるわけではないようです。これは早合点してはならないところです。


私は個人的には、脳死状態となった子どもの患者から親の同意のもとに移植が行われることは、推進されていいのではないかと思っています(虐待についてはさらなる議論が必要ですが)。テレビなどでよく、乳幼児が海外で臓器移植手術を受けるために、莫大な資金の募金について報道されます。うまくそれが実現できればよいのですが、他方、そういうチャンスが得られる方々ばかりとは限らないのではと想像します。世界的にも、渡航移植を制限する動きが強まっています。国際移植学会も昨年、渡航移植禁止を求める宣言を発表し、WHOにも同様の動きがあるようです。それを思うと、移植手術を前提とした脳死判定が行われ、親が同意しているのであれば、基本的な考え方としてはそれを阻む理由はありません。


ただし、現状でのA案可決成立となれば、気にかかるのは脳死の判定基準と、さらには「人の死」についての社会のコンセンサスです。


脳死は、心臓の動きに関わらず、脳の機能が停止して戻らない状態のことで法的脳死判定には、いくつもの条件が定められています。
法的脳死判定マニュアル

しかし、とくに子どもの場合、心停止から何時間も経過した後に、再び心拍が再開したという例も1回や2回ではないそうです。脳死の基準が今のままA案が通過したときに、本当に現場では混乱が起きないでしょうか。あるいは、そのような判断基準のままで、患者の親・家族としても、脳死移植に協力できるのでしょうか。その意味で、C案を提出した阿部氏が「救急搬送に要した時間など、これまでの脳死移植の検証が不十分。また、脳死にはまだ科学的に追究すべき点がある」(上の5月26日の記事より)と指摘している点、A案が可決成立したとしても、看過されてはならないと思います。


一方、一般的な「人の死」は現在、医師が、心臓停止、呼吸停止、瞳孔の散大を確認して判断しています。しかし今回、移植を前提に脳死も「人の死」とされることになれば、「死」というものの基準が2つ存在することになります。脳死の基準が改めて議論され、科学的に妥当な結論が導かれ、誰もが納得するものになったとしても、こうして2つの「人の死」が並存する状況で、本当に臓器提供側の家族が気持ちよく患者の最期を看取れるのか。複雑な感情を抱えることにならないか。とても気がかりです。かといって、諸外国のように、全てのケースについて脳死をもって「人の死」とすることも、容易には受け入れられるとは思いません。


以前取り上げた異状死死因究明や監察医制度のこともそうですが、「人の死」というものについて国民はもっと関心を持っていいと思います。死はある日突然訪れることもありますが、訪れない人はいません。そして人は、自分の死は1度しか経験しませんが、自分の大切な人の死は、大切な人が多ければ多いほど、数多く経験することになります。いえ、自分の死は1度ですが、それも一度にたくさんの大切な人とお別れすることでもあります。だからやっぱり生と死はひと続きで、隣あわせ、他人事ではないんですよね。「死というものについて考えることは、いかに生きるか考えること」とよく言います。私はそれに共感しつつさらに一歩踏み込んで、「死というものについて考えることは、大切な人たちといかに過ごし、別れるかを考えること」でもあると思うのです。

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コメント

法律で死について定義を変えても、人の中にある死生観を変えることができるものなのでしょうか。臓器移植法のA案が成立すれば、臓器提供が増えるという期待が、移植医療の現場には強くありますが、本当にそのような結果になるのでしょうか。結局は、臓器提供の意思を国民が示してくれなければ臓器提供も移植も増えないのです。他国に臓器提供を依存している日本は、自国での解決を検討するようにWHOの外力を受けましたが、本当にA案が成立すれば、臓器提供が増え、自国での解決につながるのでしょうか。疑問が残ります。

この記事の論点はどこにあるのでしょうか。

移植をする場合としない場合で死の判定基準が異なることは非常に大きな問題だと思います。純粋に「人間の死とは何ぞや」という事を論じて判断すべきでしょう。心臓が自律的に動いているか否かを判断基準にすることはペースメーカーによって既に否定されていると考えます。意識の有無を基準とすることは医学的にも倫理的にも問題があるでしょう。現在の脳死判定基準が十分な基準であるか否かは個人的経験からは十分なものと思いますが、不十分であるという具体的事例が今後提示されることを望みます。

脳死を死の基準とすることと移植医療が進むかどうかは、移植医療の側からの要望によって始まった議論であっても、本来別次元の話です。私自身は移植医療に対して肯定的ではありませんが、脳死に対しては肯定的です。そういう意味でtrarcoさんの言うとおりA案が成立しても直ちに移植が増えるとは思っていません。

コメントありがとうございます。

trarcoさんの
>結局は、臓器提供の意思を国民が示してくれなければ臓器提供も移植も増えないのです。

また、ふじたんさんの
>脳死を死の基準とすることと移植医療が進むかどうかは、移植医療の側からの要望によって始まった議論であっても、本来別次元の話です。

というご指摘、そのとおりと思います。ただ少なくとも、臓器移植に関する脳死の基準については、患者の家族にとって納得いくようなものを目指し、事例に基づいた議論を進めていくべきだと思うのです。私が自分を家族の立場に置き換えてみた時にひっかかるのはそこだけだからです。脳死を納得して死と受け止められるなら、むしろ、家族の臓器が別の人の体の中で生き続けるという意味でも、臓器提供に積極的になれる気がするのです。

私自身でいえば、死後私の体をどうされようと何の文句もありません。お骨を保存してほしいという希望も、お墓を作ってほしいという希望もありません。それこそすりつぶして研究に使ってもらっても、解剖実習に使ってもらってもかまいません。
ただ、移植医療については否定的です。自分自身の身に臓器移植が必要な事態が起きても、移植を選択するよりそのままでできる範囲のことを続けるほうを選択します。移植を拒否するからには輸血もか?といわれれば、エホバではありませんが、輸血を受けたいとも思いません。献血はしますが。感覚的な問題です。従って移植促進の署名をと言われればNoです。

参議院で大きく歪んだ議論になっているようです。

脳死は移植のための基準

臓器がほしいから、移植を希望した人は早く殺してしまえ
移植に関係ない人は心臓が止まるまで医療費をつぎ込みましょう

という乱暴な議論に聞こえるのは私だけでしょうか。

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