「救児の人々」感想⑥

投稿者: 熊田梨恵 | 投稿日時: 2010年08月10日 15:10

 庄和中央病院(埼玉県春日部市)の洞ノ口佳充副院長から、感想を郵送で頂きましたのでご紹介いたします。洞ノ口先生は先月、知人が開いてくださった拙著の出版祝い会においで下さいました。そして「この本を一人でも多くの方に知って頂きたい」と、2冊もその場でご購入くださいました。

 洞ノ口先生は拙著の感想を熱く語ってくださり、私が持っている問題意識は、現代の科学技術が持つ問題に共通していると話してくださいました。それは、私が常々そう思っていることでしたので大変嬉しかったです。

 ロハス・メディカル紙上で、拙著に登場する豊島勝昭医師にインタビューした時の言葉です。
「科学に流されたり溺れたりすると、かえって生きることがつらくなったり悩んでしまうことも起こり得ますから、自分の人生の中で医療とどう関わっていくか、考えないといけないと感じています。本来、医療は人を幸せにするためにうまく使いこなしていくべきものだと思いますから、医療者も患者さんやご家族も、死生観について考えて、間としての芯を持たないといけない時だと感じています。そうしないと、医学の進歩と医療体制の劣化の狭間で苦しむ可能性が、どんな人にもあるのではないでしょうか?」
 
 これは、医療だけでなく現在の科学技術全般に言えることだと思います。洞ノ口先生から頂いた感想の中では、原発や油田開発なども含めた新技術の開発について触れられています。豊島医師の言葉は医療に言及されていますが、「科学に流されたり溺れたりすると、かえって生きることがつらくな」る、「人を幸せにするためにうよく使いこなしていくべきもの」というのはどんな科学や技術についても言えることだと思います。私達が、どう生きたいのか、そのために新しい科学や技術、研究をどう使っていくのか。私達は環境に使われるのではなく、よりよくこの世界で生きていくための主体として、これらをどう使うのか、ということだと思います。
 「救児の人々」を書きながらずっと考えていたことだったので、そこを感じてくださったことを、とても有り難く感じました。

 また、私自身へのメッセージも大変ありがたく拝読いたしました。仰る通りで出版業界は大変厳しく、良い本ではなく、売れるように仕組まれた本が売れる仕組みです。その意味では、「救児の人々」は仰るように「荒波」の中の「小舟」として浮かぶ本ですが、私の思いを全力投球しており、登場された方々の思いが込められている大切な本です。これからも地道に広げられるよう頑張っていきたいと思います。

 洞ノ口先生も8月6日付毎日新聞の1面の特集「明日へのカルテ:第1部・医師不足解消の道~診療報酬増、効果薄く」の記事で、中小病院には厳しい2010年度診療報酬改定だったことを訴えておられました。ご自身の立場から、医療の現状を訴えておられるのだと感じました。
 私達の取り組みは、確かに「荒海に小舟でこぎ出すがごときもの」かもしれません。ですが、洞ノ口先生が励ましてくださっているよう、私も自分の身の丈で、できることをこれからもがんばっていこうと思います。

 私が書いている部分だけでなく、文章全体にわたって非常に示唆に富む、深い内容です。洞ノ口先生、感想をお寄せ下さいまして、本当にありがとうございました。


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「救児の人々」を読んで 洞ノ口佳充 2010.7.18

 素晴らしい本をありがとう。救児の現場を、熊田さんは、医療を提供される側から、国民の側から、精一杯の誠実さで、問題提起してくれました。その現場で働く医師については、「先生たちは助けることができてしまう。だからこそ、悩まれる・・」「先生たちも人間なのですから、患者さんを死なせたくはないと思われるのは当たり前ですものね」と、書いておられます。熊田さんは、何より医療を受容する国民の立場で、現実を反省的に捉え、アプローチされたので、医師の問題には立ち入らなかったのだろうと私は考えました。そこが熊田さんの誠実さのゆえんかと。

 私は、あくまで医師の立場で、NICUに直接勤務しているわけではないけれど、同じ医師として、自分に突きつけられた問題として受け止めたのでした。アプローチする方向は違っていても、私の心は激しく共鳴しました。何としても、自分の気持ちを筆者に伝えたいと思って駆けつけました。

 お祝いの会で、私のつたない感想を、まっすぐこちらを向いて聞いていただいてありがとうございました。そうか、この人は、この本に出てくるインタビューを、こんな風に優しいまなざしでしてたんだ・・。

<哲学なき医師労働こそが問われている>
 先日の出版祝いの会にいただいた第2刷。帯に小松秀樹氏のコメントが新しく付いていました。「熊田さんの書いたことは、多くの医師が認識していたことだろう。しかし、医師の言葉で書いても、このような迫力は絶対出ない。脱帽。」

 こうした意見は、多くの医師たちが感じていることかもしれません。しかし、このコメントには少しばかり疑問を感じます。(短いコメントが小松先生の意見を正しく反映しているとは限りませんが)我々医師たちは、脱帽しただけではいけないと思っているのです。

 何より、この本が、我々医師たちに突きつけたのは、「あなたたち医師たちは、この本にある現実をどう考え、どう発信してきたのですか」という問いだ、と私は考えるからです。私たち医師は、この問題を、己のみぞおちで受け止める必要があると私は思うのです。

 NICUで働き、「目の前の患者を、救わざるを得ない」医師たちは、NICUの後方と化した重心の現実をどう考えていたのか、何年も美容院に行けずわが子と生きる母親の苦悩をどれだけ知っているのか、思わず包丁を握りしめ我が子と向き合う親の気持ちを考えたことがあるのか、またそうした気持になった自分を恥じ涙する親の存在を知っているのか。

 問われているのは、「目の前にある患者」を救うことにのみ精力は尽くすが、「その後」について考えることの少ない、いわば「哲学のない診療」なのではないでしょうか。

 熊田さんは、「先生方は、目の前の患者を救わざるを得ないのですね」と、好意的に書いておられますね。しかしそうではないと私は思うのです。「その目の前の患者を救うことにのみ必死になる」医師の診療そのものが問われているのだと思うわけです。それは結果としては、患者の一生のうちの、ほんの一部分のみに関わり、全体に責任を持たない姿勢ではないかと思うのです。「病院はそういう子供を助けて終わりですか」、この言葉は、NICUで働く医師たちに、そしてすべての医師たちに疑問を投げかけているのです。(また、もちろんそのシステムを作ったのは、政府の医療政策です)

<責任感のないIC(インフォームドコンセント)>
 たしかに、ポストNICUの現実を、NICUの医師たちをはじめ、「多くの医師たちは認識」していたことではあります。しかし、医師たちは、「医師の言葉で書」くことはしませんでした。「自分で書いても迫力がない」ので書かなかったわけではないでしょう。書くことが無かったのは、ひとつは、医師たちの問題意識が目の前の患者に局席されてしまったその狭さであり、もうひとつは、その現実を自分が作り出したものとして、自己の他在としてとらえる意識の弱さだと思うのです。

 例えば、NICUの医師たちが子どもの親たちに対して行うICを考えてみましょう。確かに、医師たちは、子供の治療のその先についてあらゆる可能性を説明し、押し付けることのないICを行っているとは思います。しかし、実際その場の親たちは、医師たちと違って現実のポストNICUを知りません。その上でのICでは、どんなに詳細な情報が医師から提起されても、親はインテンシブな治療をあきらめることが少ないのは当然です。医師が、自分の哲学、ポリシーとして、少なくとも自分だったらという観点で、こうしましょうと言わない限り、素人の親は判断できることは少ないと思うのです。その領域は、プロとしての責任において医師がなすべきであって、親たちが選んだことだから、何らかの責任を持てというのは酷であると思います。(医師の、フランクなICが許されない状況があるのも現実です)

 こうした、「パターナリズムでない」、「平等のIC」をしている限り、医師たちは、起きた現実を、自分も作り出したものとして見つめ、己と、世に問うことはないように思います。パターナリズムの克服の名のもとに、患者との関係はドライな契約関係となり、医師のプロとしての責任を薄くしているように思います。

<半歩先しか考えない診療と、現代科学技術>
 後先考えることのない技術開発と現場への導入、それは、使用済み燃料の処理方法もなく建設される原発、大地に帰らないビニール製品の氾濫、それをはるか太平洋の海原で、餌と思って飲みこんで死ぬウミガメや、魚がいるという現実、トラブルに対処すべもなく進められている海底油田開発などとは共通があります。そこに貫かれている哲学はプラグマチズム、実利主義です。したがって、熊田さんの描いたことは、個別的なNICUをめぐる現実でありながら、現代科学技術が持つ普遍的な問題に通じることでもあります。

 したがってこの本は、小児医療関係者はもちろん、高齢者医療や、救急医療に携わるすべての医療者が読むべき本であるとともに、医療者のみならず、現代に生きるすべての人にも訴えるものなのだと思います。

<偶然を必然にしたもの・行間に溢れる共感し、寄り添う心>
 熊田さんは、自分がこの本を書くようになったのは、医療の矛盾が集中した小児医療に出会った幸運があったということを述べています。しかし、その偶然を筆者において核という必然に転化させたものは何だったのでしょうか。編集長の的確なアドバイスも然りです。

 わたしは、それは筆者の、インタビューした人々に対する、限りない共感と寄り添う姿勢ではないかと思うのです。障害を持った子供とともに生活する親と、現場で「目の前の患者を救うべき働く」医師たちと、筆者は共に悩み、悲しみ喜んでいる。「解決のない」現状に対しても、どう書いていいか分からない現実を描いたとしても、筆者のそこで出会った人々へむけた温かいまなざしに、この本を読む者は救われます。私は、この筆者の誠実な葛藤こそが、悲惨な現実を描きながらも、読んだ後に一種のさわやかさを感じさせているのではと思うのです。

<荒海に小舟でこぎ出すがごとく>
 この筆者が、これからも医療の現実に切り込んでいってほしいと私は切に願うものです。しかし、出版界がこの現代世界の一部であるように、その業界は良いモノが売れる世界ではありません。残念ながら、時間をかけて暖めてゆく、熟成のための時間が許されない出版界であり、時代です。資本力=宣伝力=販売力が、幅を利かせているのです。その中で、良心的なジャーナリズムは、荒海に小舟でこぎ出すようなものかもしれません。

 しかし、私は心よりエールを送りたいと思います。私自身のとりくみもまた、国民のための医療を、医療従事者の労働環境を守る取り組みもまた、荒海に小舟でこぎ出すがごときもののようにも思うのです。同時代に生きるものとしての、エールです。ともに頑張りましょう。

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コメント

うちの患者図書室に4冊おいておきましたが、先日チェックしたら一冊もない、うーむ。関心を呼んだことは間違いありませんが、読んだらちゃんと返していただきたいものです。また注文しなくちゃ・・・

山口様

拙著を患者図書室に置いて下さっているとのこと、ありがとうございます!
4冊も、大変嬉しい限りです。

私も地味に公立図書館にリクエストを実行中です。
病院の患者図書室というのも、一つ知って頂く道筋だなと思いました。
ありがとうございました。

我が子はNICU卒業生、在宅2年生です。新生児重症仮死、低酸素脳症、人工呼吸器の超重症児です。
ブログに「救児の人々」の感想を書かせて頂きました。
http://honosan.exblog.jp/14505446/
非公開コメントの多くは、在宅生活を送るお母様方の悲痛な叫びです。NICUで救われたいのち、その後はほとんどフォローされず、自宅にめでたく帰ったはいいが、経済的負担も多い。
私もこれまで本を出版したり、講演をしたり、様々なところで訴えてきましたが、NICU卒業生のこどもたちの抱える問題は、私たちにとって急を要すること。「生活」なのです。たくさんの在宅仲間のおかあさんたちとお話しする中で、今にも解決しなければならない地域格差、病院格差などを認識していますが、どうにもなりません。「医療にどこまで望むか」ではない、「いのち」あっての医療。救われたいのちは、どうして生きていけばいいのでしょうか。

ほのかあさん様

コメントありがとうございます。
拙著をお読みくださり、誠にありがとうございました。
ブログにお書き頂いたご感想を拝読させて頂きました。

私自身が今回の一連の取材で強く感じたのは、
助かった後のお子様やご家族の生活に関する行き届いた保障がない中で、
命を救うことのみに邁進し、急性期医療ばかりが手厚くされるのはアンバランスではないだろうか、という部分です。

今まで取材などを通じて知り合う機会を頂戴しましたご家族は
本当に大変なご苦労をされながら、その中に喜びや希望も見出しながら、生活をなさっておられます。
私などが推察から申し上げるには失礼余りありますが、
ほのかあさん様も娘様との生活から、とてもたくさんのことを
お考えになったりお感じになったりしておられるのだろうなと思いを巡らせております。


そうしたご家族の方々の現在の生活が少しでもより良いものになればと、願ってやみません。
ご家族の方々が見せて下さった涙と笑顔の中で、笑顔がもっと増えればと、心から思っております。

そのためにも、私自身は自分のいる場所から、できることを地道に身の丈で、行っていこうと思っております。
今後とも、ご指導賜る事が出来ればと存じます。

コメント、誠にありがとうございました。

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