私が記者を続ける理由

投稿者: 熊田梨恵 | 投稿日時: 2012年03月21日 15:09

私は医療記者です。

記者と名乗ると、一般的なライターと混同されることが多いため、多くの人に伝わるようにと医療ジャーナリストと名乗ることが最近は多いですが、やはり私は記者だと思っています。

私が記者を志したのは、親友の死がきっかけでした。

美しかった彼女は、20歳で自らの命を絶ったのです。

私は彼女と大学時代に知り合いました。
 
バイト先で知り合った彼女は、同年代の誰とも違う雰囲気を纏っていて、最初はとても近づきがたかったのを覚えています。
 
腰まである長い髪の毛は柔らかそうにサラサラと流れ、凛とした表情ははっとさせられるほど気高くて綺麗でした。
 
同い年だと分かった時には、驚いたものです。
 
誰をも寄せ付けず、媚びず、同い年の私よりもずっと大人びていて、それでも年齢相応に線は細く、華奢な体つきでした。
 
あまりに顔の造作が整っていたため、まっすぐに人を見る視線がとても強く、私は彼女と目が合うと何度もそらしてしまいました。
 
 
 
何がきっかけで仲良くなったのかは、覚えていません。
 
でも、私はどこかでそんな彼女と仲良くなりたいと、思い続けていたように思います。
 
憧れに近い思いを抱いていたような気がします。
 
とにかく私と彼女は、仲良くなってからはそれまで友達でなかったことが信じられなくなったぐらい、心をお互いに開き合っていたと思っています。
 
彼女の笑顔を見ることができるようになって、とてもうれしかったです。
 
 
彼女に家族はおらず、児童養護施設で育ちました。
 
私は「両親はいない」とだけ聞かされていて、本当はいるのではないかと思っていましたが、実際にいなかったことも、後から分かりました。
 
高校を出てからは、ずっと一人で働いて生活してきたそうです。
 
知り合った当時のその妙に大人びた雰囲気も、必ず境界を引いた接し方も、よく分かるような気がしました。
 
私は彼女と仲良くなってからよく彼女のアパートにも遊びに行きましたが、あまりに物がなくて居心地が悪かったことを覚えています。
 
「いつここからいなくなるか分からんやん」
 
と、どんなものにも大した執着を見せない人でした。
 
 
彼女の生い立ちを聞けば聞くほど、私は打ちのめされたような気持になりました。
 
家族がいて、大学に行けて、友達がいて、そんな私と同い年でありながら、こうも境遇が違うのかと。
 
そんなことがあり得るのかと。
 
彼女の話を聞きながら、私の方が泣いてしまうことがよくありました。
 
そして私が慰められるというおかしなことになっていました。
 
「そんなに泣かれたら、私の人生がそんなひどいんかって思うやんか」。
 
彼女は綺麗に笑いながら、私の頭をなでてくれました。
 

私はとにかく彼女に笑ってもらいたかった。
 
少しでも、笑える時間を、持ってもらいたかったのです。
 
想像を絶するようなつらい過去を持ちながらも、何事もなかったかのように淡々と生きている彼女に、少しは「楽しい」と思ってもらえる時間を、過ごしてもらいたかったのです。
 
でもそれは、私のただのエゴだったのかもしれません。傲慢だったのかもしれません。
 
でも当時の私は、そんなことはどうでもよかったのです。
 
ただ、透き通ってしまいそうに綺麗な彼女の笑顔を、私自身が見ていたかったのです。
 
何度でも、何度でも。ずっと。
 
 
 
ある日、そんな彼女がHIVに感染していると、分かりました。
 
現在、HIV/AIDSは服薬して症状をコントロールしながら生活できる病気になりましたが、当時はまだまだ治療法も発展段階で「死ぬ病気」のイメージだったのです。同性愛者への偏見もあいまって、HIVキャリアになったことを周囲にカミングアウトするのは相当勇気のいる時代でした(もちろん今でもそうだと思っています)。
 
彼女は、彼女に感染させただろう当時の恋人に連絡しても音信不通となってしまう状態で、自暴自棄になっていました。
 
バイトにも来なくなり、電話をしてもほとんど出なくなりました。
 
家に行って、通院を促しましたが、頑として拒否されました。
 
私はそんな彼女にどう接していいのか分かりませんでしたが、とにかくそばにいることだけは続けようと思いました。
 
生きてくれていたら、それでいいのだと願って。
 
 
 
しばらくしてから、彼女はたまに連絡をしてきたかと思うと、どうしようもないワガママを言うことがありました。
 
ある日、彼女は刺身が食べたいと言い出しました。

HIVに感染して抵抗力が落ちている彼女に、生魚を食べさせるのはリスクが高いことです。
 
他にも生卵や生肉を避ける、生水は飲まないなど色々気を付けていることがありました。
 
当時は、HIVに感染しているというだけでも先行きの見通しが全く立たず、ふと肩をたたかれたら落ちてしまう崖の上にでも立っているような、そんな頃だったと思います。
 
不安と恐怖ですくみそうになる上、生活にまで制限が加わり、話をできる人もほとんどおらず、どれほど心細かっただろうかと思うと、私の想像など及びもしない世界です。
 
しかも彼女はそれまでにも、同年代の女性が生きるにはあまりまる辛酸を舐めて生きてきていました。
 
神様は残酷だと、どうしてこんなことが起こるんだろうと、私は自分の浅はかさや無力さを思い知らされました。
 
私は彼女に何もしてあげられませんでした。
 
してあげたいという時点で、とてもおこがましいけど、でも何でもいいからしたかった、笑顔が見たかったんです。
 
 
私はその「刺身」という無茶苦茶なリクエストにこたえようと奮起しました。
 
スーパーから白身魚の切り身を買ってきて、薄く切ってフライパンで軽く火を通しました。そして酢漬けにしました。
 
今思うと、本当にそれで大丈夫という根拠は何もないため危なっかしいのですが、
 
「カルパッチョにしたから、これで大丈夫!」
 
と私は喜び勇んで、彼女にお皿を渡したのを覚えています。
 
「刺身」が薄切りで炒められた酢漬けになってきたものを見た彼女の表情を、私は一生忘れることがないでしょう。
 

私はとにかく彼女に笑ってもらいたかった。
 
美しい人だったから。
 
彼女が笑ったら、何もかもが許されるように思ったのです。
 
病気も、過去も、この社会も、私自身がここに生きているということも。
 
その笑顔のために、私はできる限りのことをするんだと。
  
  
 
 
そう思っていた矢先に、彼女は自ら命を絶ちました。
 
  

 
私はしばらく、普通に生活できませんでした。
 
 
どれほどの思いだったんだろう。
 
たった20歳のか細い女性が、誰にも何も言わないで、これまでの人生も壮絶で、体にいつ発症するか分からないHIVウィルスを抱えて、たった一人で。
 
その寂しさと、不安と、恐怖と、孤独と、悲しみと、切なさと、悔しさは。
 
どれほどのものだったんだろう。

私なんかには、想像もつかない。
 
 
 
苦しかったですか。
 
 
痛かったですか。
 
 
悲しかったですか。
 
 
その瞬間、何を思いましたか。
 
 
たった一人で、呼吸が止まる瞬間に、あなたは何を思っていたのですか。
 
 
私が大好きなその美しい顔が、苦痛に歪んでいた。
 
  
私はあなたのその表情を見た時に、悲鳴を、あげてしまったんです。
 
 
あなたの最期の姿に向かって。
 
 
私は。
 
  
私は。
 
 
 
何も、できなかった。
 
本当に何も、できなかった。
 
 
あなたの思いなど、私はこれっぽっちも分からなかったし、何の支えにもなれなかった。
 
 
それでもあなたの役に立ちたかったけど、でも、できなかった。
 
 
せめて何か一言、言ってほしかった。
 
 
罵詈雑言でも聞ければ、よかった。
 
 
大好きなあなたの声を、聴きたかった。
 
 
 
私は、しばらくの間は怒りに身を任せていました。
 
社会に、医療に、行政に、何もかもに、彼女に、そして何より私自身を責め続けました。
 
癒されない気持ちを抱えたまま、周囲の人にも失礼なことを言い、ずいぶんバカなこともしたと思います。
 
 
しばらくしてから、私は怒っていても何も変わらないと、気付きました。
 
「じゃあどうやったらよくなるんだろう。自分には何ができる?」
 
そう思った瞬間に、世界が変わりました。
 
 
私は当時、HIVキャリアの人の生活を支援するNPOなど、様々な非営利団体で活動していました。
 
様々な団体、行政、研究職、企業、専門職、皆社会をよくしたいと思っているには違いないのに、どうもうまくつながらない。ではどうしたらいいのかな?
 
そう思った時に、メディアかな、と思いました。
 
情報がうまく流れれば、この世の中が変わるんじゃないかと、学生の単純な考えで思いました。
 
そして、社会福祉学部の学生にはめずらしく、メディア業界を志望して新聞記者になりました。
 
働き出してから、世の中そんなに甘くないと十分に分かりましたが、今でも私のそのモチベーション自体は変わっていません。
 
どうすれば世の中がよくなるんだろう。
 
自分には、何ができるんだろう。
 
私は、書いて伝えること。
 
それが役割なんだと、思いました。
 
働いていると色々ありましたが、何があっても揺るがないのはこの部分です。
 
私はこれが使命だったんだろうなと思うのです。
 
 
彼女は、大阪南部のりんくうの近くに住んでいたので、よく二人で海を見に行きました。
 
先日、仕事でりんくうの近くを通りかかりましたが、その時に、何とも全身がざわめき立つのを感じました。
  
霊感とか、そういうものは分かりませんが、彼女がいるなあと、思いました。
 
私はぽつんと「あなたが生きていたから、私がここにいて、この仕事をしてる」と、つぶやきました。
 
分かりませんが、まるで彼女がりんくうの海全体になって、笑っていてくれるように思いました。
 
海みたいに、いつも私を包んでしまうあの笑顔で、
 
ずっと私を見ていてくれるんだなあ、見ていてほしいなあと、思いました。
 
 
私は記者としてのこの仕事を、これからも続けていくのだと思います。
 
彼女だけでなく、様々な方に取材を通して出会います。
 
お話を伺いながら、人生を聴きます。
  
その重みを、私は記事にして返していくのだと思います。
  
この仕事に就かせてもらえた奇跡に感謝しながら、私はこれからも生きていくのだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 

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コメント

ツイッターから飛んできました。
医療といったら大げさかもしれませんが、
わたしも健康雑誌の編集記者をしています。
わたしにも一生治らない病気を背負った親友がいます。
彼女は病気と一緒に生きていく決意をしていますが、
たまにお酒を飲んだときに流す涙には
きっと誰にも言えない心の中の言葉があるのだと思っています。

「心身共に健康で生きることができている」
それに対する感謝は、この仕事をしなければわからなかったと思います。
一人でも多くの人にこのことを伝えるために、
わたしもまだまだ頑張ろうと、このブログを見て思いました。
ありがとうございました。

うめの様

コメント、ありがとうございます。
私もこのブログを書きながら、当時の思いが駆け巡りました。
彼女の思いを察したいと思えば思うほど、違う人間なのだということが突きつけられました。
理解することなどできなくても、寄り添うことならできると思えたのもこの時です。

当事者ではないから分からないけど、だからこそできること、一緒にできることがあるんじゃないのかなと思いながら、記者を続けています。
真摯に聞くことが、一番大事大切なことではないかと、ずっと思っています。

これからも記者として、共に良い仕事をしていきたいですね。
ありがとうございました。

はじめまして。
地方で小児科医をしているものです。
心震えるブログをありがとうございます。
いつからか格好良く振舞わないといけないと思い、
患者が亡くなるたびに涙にくれた日々を忘れかけていました。
ただ、このブログを読んで、自分の中にもまだ熱い血が流れている
ことを感じ取ることができました。
どんな取って付けたような理由を言ってみても、人を動かすのは
身近な人を通しての忘れられない体験ですね。
大事な人をどうにかしたいという衝動は医療の原点であると思います。
明日からの診療、頑張ります。
熊田さんもくれぐれもご自愛ください。

熊田様
お久しぶりです。私が治らない病気を治す研究をする医者になろうと決めたのが中学2年生の時。父をガンで亡くした時です。それから情熱を燃やし続けています。あるノーベル賞学者が「人類に貢献しようとかそういった高尚な思いなどではなく、ちくしょうみたいな悔しい気持ちが研究を続ける原動力になるのです。」っておっしゃっていました。本気で仕事をするには情熱が何より大切と私は思っています。熊田さんの情熱はきっとすばらしい仕事につながると思います。がんばってください。

身近な友人を亡くすってうまく言葉にできないよね。

悲しいのは悲しいし
それでも生きていく自分
意味を問うても
意味があるのかすらもよくわからなくなる

きっと肉体も精神もなくても一緒に歩んで
闘っているのだろうな。
今は私自身もそう思えます

@kunisakiped先生

コメント、ありがとうございます。
医師でおられる先生方は、日常的に人の死に接することとなり、それがどれほどのものか、私などには計り知れません…。
だからこそお感じになる痛み、生きていられることの喜び、様々お感じになるのだろうと思います。

私は、これからも記者としてそんな先生方の思いを伝えていけたらいいなと思っております。

「大事な人をどうにかしたいという衝動」。
私もこれに突き動かされながら仕事をしていると思います。
どんな人にもそういう面があるのかもしれないなと思いました。
生きているということは。

ありがとうございました。

松本慎一先生

大変ご無沙汰しております。
コメント、ありがとうございます。

先生にもそうした思いがあって今の素晴らしいご活躍に、つながっておられるのですね。
御父様への思いが、世界の医療の歴史に足跡を残される形に…。

やはり自分の中のこうした出来事が、中心を支えてくれる軸になっていると思うし、これからもそうなんだろうと思います。
これからも、頑張りますね。

先生も、どうぞご自愛くださいませ。
ありがとうございます。

きみきみ

コメント、ありがとう。
その人がいなくなっても、自分がこの世で生きているということが、しばらくは不思議だよね。
どうして自分だけに時間が経過しているのかが分からなくなるというか…。

たまに一緒にいてくれて、もしよかったら一緒に笑っていてもらえたら嬉しいなと、そう思うよ。

ありがとう。

簡単に個人特定できそうな記事ですね(^_^)b

ジャーナリストの友人を持つと、プライバシーは守られないんだなぁと怖くなりました。。

熊田さんの情熱の源が、こんなに悲しい悔しい想いからだったのですね。
だけどその時の想いをきちんと昇華し今の原動力にされている熊田さんを改めて尊敬します。
生かされていることの意味、あらゆるものに対する感謝の念、多くのことを考えさせて頂きました。
どうぞ原点を大切にこれからも良い記事を書いて下さい。

熊田さん、お久しぶりです。熊田さんの原点に触れて、共感し、そして自分の非力さをもどかしく思いました。

> どうすれば世の中がよくなるんだろう。
> 自分には、何ができるんだろう。
> 私は、書いて伝えること。
> それが役割なんだと、思いました。

私も熊田さんと同じ思いです。医療界では決して好意だけではない「メディア」、せめて「医療のことを分かっていないメディア」と烙印を押されて、本音を話していただけないメディアにならないよう研鑽を重ねる日々です。

立場は違いますが、同じ志を叶えるべく頑張りましょうね。

amakiku様

コメント、ありがとうございます。
過分なお言葉、恐れ入ります。
やはりこういう経験から人は突き動かされるのだなと思いますよね。
できればしたくはなかったと思うこともありますけど、でも今の自分を形作る、大切な経験だったと思っています。
これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

福山智子様

ご無沙汰しております。
コメント、ありがとうございます。

仰るよう、医療に関するメディアというのはとても難しいですよね。
でもとても大切で、今後もっと必要になるものですから、頑張って続けていこうと思います。

こうしてメディアで同じ思いを持つ方、医療者で応援してくださる方、一般市民で一緒に頑張ろうと歩んでくださる方、様々な方に支えられて今の自分があるとしみじみ思います。

福山様、これからもどうぞご指導くださいませ。
ありがとうございました。

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