9月11日 |
|
投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2006年09月11日 23:46 |
勤務していた米国半導体企業のつくば研究所が、1991年10月にオープンした時、研究所の社員は20名に及びませんでした。
10年経過した2001年、
合理化とリストラを進める目的でつくば研究所から名称変更したつくばテクノロジーセンターのスタッフは200名近くになっていました。
立ち上げから勤続していたのは、施設課の男性と、育児休暇復帰後、総務・人事グループ所属になった私の二人だけ。
当然の成り行きで、10周年の記念行事を担当させていただくことになりました。
ちょうど、筑波大学の白川博士がノーベル賞を受賞された直後で、日本法人社長とも懇意でありご講演をお願いしてはという案も出たのですが、最終的に本社からCEOを招いて直接お話してもらうことになりました。
CEO来日予定に合わせ日程は2001年9月28日に決定しました。
プログラムや記念品、社内招待者のリストの最終確認、ケータリングサービスについてホテルとの打ち合わせも大詰めを迎えた9月11日に事件は起こりました。
まるで映画を見ているようでした。ニューヨークの貿易センタービルがゆらゆらと崩壊し、空が真っ黒に煙って・・・
翌日から米国在中の社員の安否確認が最優先の業務になりました。
昨夜釘付けになったテレビ画面が、自分の関わる仕事を直撃するとは・・長年アメリカの企業で仕事をしていたのに意外な感覚でした。
海外出張はすべてキャンセル。出張中の社員は帰国できなくなりました。
CEOの来日も中止。代替案としてCEOのビデオを流すか、衛星放送でスピーチをしてもらうか、急遽検討を重ねました。時差を考慮し早朝から衛星放送のテストも試みましたが、米国本社の混乱を考えると、「たかだかつくばの10周年」に、こちらから何かを依頼できる状況ではありません。
当日は社員全員の黙祷にはじまり、記念講演は日本法人社長挨拶に変更しました。エントランスホールに本社から届いたCEOと初代研究所所長、そしてノーベル物理学賞受賞者である名誉社員氏のメッセージを飾りました。
また、つくば科学万博跡地(それもアメリカ館の跡地辺り)に建設された研究所だったので、私物の万博アルバムから開催前の会場の様子などを含め、15年に及ぶ歴史の数コマを大型プラズマテレビにBGMとして流しました。
あの事件からちょうど5年。
メディアに映る未だ訪れたことのないニューヨークは、11年勤務したアメリカ企業でのほろ苦い最後の仕事の風景に重なります。
コメント
世界を巻き込んだ大きな事件でした。しかし、私たちは報道をそのまま飲み込む危険に何時もさらされている様な気が致します。
事実と真実は異なると考えます。
テロ、確かに痛ましくも大きなテロ事件でした。
しかし病気の発症と因果関係と同様、何故この事件が起こったのか、その因果関係まで深く掘り下げて考えてみないと判断を誤ると思います。
本来、どの国の国民も真実を知る権利が有ると考えますが、個人的には限度があります。
9,11のテロ事件に関しても、あっ、そうか、それはとんでもない事である。
しかし、5年前のこの事件の背景には長い長い長い歴史的背景、世界史から紐解いて行かないと間違った判断をしてしまう様な気が致します。
昨日、ある、メディアから、あの事件の時、活躍した警察官、消防士、多くの人達のその後の苦しみに付いて報道がされておりました、
本当に気の毒な事と胸痛ませながら、私はふと、広島、長崎の被爆者達の事を考えまし
た。
あれから61年、いまだにその苦しみの癒えぬ多くの人達がおります。
広島、長崎の原爆投下、その事実と真実の関係、また裏側はどうだったのか、私たち日本人はどれだけ知っているのだろうか!?、、、、、。
>m,n.様
戦争も、テロも、地下鉄サリンの無差別殺人も、阪神の震災も、飛行機やJRの事故も、当事者、ご遺族、近くにいた方々、いかほどの苦しみや痛み、無念、恐怖があったことか、きっとそれは他の誰にもわからない・・
「事実と真実は異なる」おっしゃるとおりだと思います。
村上春樹氏が「アンダーグランド」と「約束された場所で」で、被害者と加害者のあらゆる言葉から、人が人を殺す理由を同時代の社会に探そうとしているような、物を書く立場から、社会の影と光を描き出そうとする、そんな姿勢が痛々しいほどで、深い感銘を覚えました。
どんなメディアの報道よりも、取材する人たちの精神に寄り添った言葉に真実が滲んでいると感じました。
過去の事実を伝えるには限界があるかもしれないし、言葉って何の役にも立たないようで、ものすごい力があるのだなあと、怖いなあと感じたことを、コメントを拝読して思い出しました。