(総合的学習を創る11月号) |
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投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2006年11月11日 10:10 |
以前お知らせしたように
「総合的学習を創る」という月刊教育雑誌から
頼まれて11月号に寄稿した。
12月号が書店に並ぶようになって
掲載自粛の縛りが解けたので、当ブログにも掲載する。
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「生きる力」の育成をめざす、それが総合的学習だという。言葉としては明瞭だが、説明しろと言われると困ってしまう。
「生きる力」って、なんだ?
今回ご縁があって原稿を書かせていただくにあたり、自分の現在取り組んでいることと、総合的学習とに一体どういう関係があるのか考えてみた。
最初は、混沌として像を結ばなかった。しかし、頭の霧が晴れるにつれ、大きな共通点があると思うようになった。
「生きる」とは何か
私は、患者さん向け月刊無料情報誌の『ロハス・メディカル』というものを発行し、首都圏の基幹病院に置いている。昨年9月に創刊し1年を経過したところだ。
昨今、医療不信が高まり、患者さんと医療従事者との間がとてもギスギスしているという。そして、本来は両者の間を仲介すべきマスメディアが、偏った情報を流すことによって、むしろ軋轢を増幅している(教育に関しても、まったく同じ構図があるように見受けられるが、今回は本題からそれるので触れない)。危機感を募らせた医師たちから、架け橋としての役割を託されたのが『ロハス・メディカル』だ。
疾病や医療に関する基礎的な事柄を、毎月お知らせしている。一般の健康雑誌と大きく違うのは、「患者が自ら治るのであって、医師や薬が治すのではない」ということと、「世の中には、人間の力ではどうにもならないことがある」ということを、一貫して述べ続けていることだ。
さて、話を戻そう。「生きる力」とは何だろうか。定義するには、「生きる」とは何かをまず定義する必要があると思うのだが、それは可能なことなのだろうか。
生物学的に「生存している」だけならば話は簡単だ。しかし、「生きる」といった場合、言外に「より良く」という能動的な意味を包含しているはずだ。そして「良い」とか「悪い」という価値観を持ち出した瞬間に、その定義は各個人の問題になって、普遍性を持ちえなくなる。
「生きる力の育成」はナンセンスだと言っているわけではない。何を「良く生きる」の尺度にするか個人によって異なる以上、生きる力の育成をめざして他人が教えられるのは、「自分なりの尺度を持ちなさい。その尺度が社会や自然原理と整合性のあるものか、不断に問い直しなさい」という事までではないか。踏み込んだとしても、整合性の判定の仕方を教えられれば御の字でないかと思うのである。
この「自分なりの尺度」と「社会や自然原理との整合性」が、我々の取り組みでもキーワードになっている。現在の医療不信を招いた原因は、患者と医師とで「尺度」「整合性」を共有できていないことに尽きると感じており、そのギャップを埋めることこそが『ロハス・メディカル』の使命と考えているのだ。
なぜ共有できないのか
医療現場で、尺度や整合性を共有できない理由はいくつかある。まず、医師が「病だけを診て、人を見ない」場合。尺度を伝えても尊重してもらえないなら、即刻医療機関を換えるべきだ。その権利もある。また、患者が病状を正しく知らされていない場合もあるだろう。だがそんな例より遥かに多いのが、患者に尺度がないか、あっても実現不可能な要求をすることらしい。
尺度を持たない人間なんているはずがない、と思うかもしれない。しかし「お任せします」で、一切を委ねている人に思い当たらないだろうか。かくいう私の亡父(元高校教師)が、そうだった。もし病状を正しく知らされ、自分なりの尺度も持っているのに「お任せ」するとしたら、その態度は矛盾している。
『ロハス・メディカル』誌上で、養老孟司氏は、「日本中に不死幻想が蔓延している」と分析した。
つまり、自分が死に向かっていると認識し受容していれば、医療は最期の時をより良く過ごすための手段であって、目的ではないと思い至るはず。自分なりの人生の締めくくり方を主張するはずである。死を受容せず、元の生活へ戻れると思い込んでいるから「お任せ」になる、というのだ。不死は、明らかに自然原理に反している。
死があるからこそ「生きる」がある
生死にかかわる病を得た人は、あることに気づいた瞬間から人生が輝いて見えるようになるという。何に気づくのか。それは、死を受容することと近いのかもしれないが、こういうことらしい。自分が何をしようが、やがて自分の命が尽きることは変えられない。そして命が尽きるのは、遅いか早いかの違いはあれ、万人に等しく与えられた運命である。一方、自分の努力次第で変えられるものも世の中には山ほどある。
このことに気づけば、「良く生きる」尺度も定まってくる。その意味で、病を得ることは決してマイナスだけではない。また、この気づきには、病を得ることが絶対条件というものでもない。
自らの命に限りがあること、人間に変えられるものと変えられないものがあることを直視し、自分の人生を自分で引き受けると覚悟が決まれば、必然的に自律が生まれ、また同じように自律して生きている他者への敬意も生まれる。
恐らく、これは人に教えられて学ぶのでなく、実体験を通して自ら体得する必要があると思う。その素地を総合的学習で作れるなら、素晴らしいことではないだろうか。
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コメント
最後の三行、なるほどなるほどと読みました。素地が作れれば、御の字ですね。
死の認識というものは本当に重要だと思います。人の死に接する機会がもっと必要なのだと思います。
病気があろうとなかろうと毎日を納得して生きることが大切だと実感しています。