一病~リウマチ~息災徒然ノート 7

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年08月09日 23:18

最初の入院4

入院二日目の朝を迎え、
意識が混濁する中、
午前8時前には、
久野先生をはじめリウマチ・アレルギー内科グループの先生方、
消化器内科の先生も次から次に病室に見えました。

手を広げて、

『指が何本に見えますか?』

『昼と夜が逆転していませんか?』

『今、外は明るいですか?』

『幻覚症状がありませんか?』

『今日は何月何日ですか?』

『自分の名前と生年月日は言えますか?』

など、

普段なら
「何をふざけたことを」
と言い返したくなるような質問をされました。

でも、実際は答える力も尽きていて、
首を振ったり頷いたり、
右手を広げて数を伝える(それが正解だったのかどうかは未だに不明ですが)
のが精一杯でした。

久野先生が、

「黄疸が出て、眼球周りの白目まで黄色くなるかもしれない」

とか

「口から栄養が取れず、点滴だけでは全身衰弱が進むので、
中心静脈栄養法といって、鎖骨下の静脈に針をさして管を入れる方法もある」

という説明に、ぞくっとしたのは、おぼろげながら覚えています。

昼前には京都の母が到着し、
私の姿にひどくショックを受けたはずなのですが、
そんな素振りは微塵も見せずに、
亡父の形見で肌身離さずにいる、数センチの髪の毛の束を半分、
小さな袋に入れ、私の右手にそっと握らせてくれました。

「大丈夫、お父さんが守ってくれはる」


この一言に、
熱いものがこみ上げてくるのを抑えることができませんでした。

父親が亡くなって半年も経たず、娘の私がこんな事態になって、
なんて親不孝なんだろうと情けなくて、母の顔を正視できませんでした。
窓の方を向いたまま、唇を噛み締め嗚咽をこらえるのが辛かったです。

仕事は一人で所長の秘書業務をやっていたので、
他に内容を把握しているスタッフがおらず、
研究部のグループ秘書を担当している二人の女性の一人、
エリさんが、急遽穴を埋めてくれる事になりました。

何しろ全く引き継ぎがない上に、
肝炎に感染後の一週間は微熱が続く中、
仕事の処理能力は極端に落ち、
どうしても必要なもの、急ぎのものしか対応できない状況でした。

その上、上司は入社半年の新人所長だったので、
エリさんは困り果てて溜まった書類や郵便物の山をカバンに詰め込んで、
入院二日目の昼から病室に通ってくれました。

ところが、
久野先生も夫もエリさんの面会を断ってしまいました。
泣きそうになっているエリさんの背中を、ドア越しに見たとき
自責の念に烈しくかられました。
夫はエリさんに、職場の人にも、しばらくは見舞いを控えてもらうように伝えていました。

入院三日目に出張から戻った足で、夫人を伴って見舞おうと訪ねてくれた上司夫妻も、
久野先生は病室の外で追い返してしまいました。

私は自分の病状について、
包み隠さず単刀直入に説明を受けたつもりでしたが、
実はそれ以上に事態は深刻だったようです。

当初、夫も母も病室に泊まりたいと申し出たそうですが、
久野先生に、
「家族が大袈裟に心配すると患者のストレスになる・・
急変すればすぐ知らせるから、家で待機してください」
と言われていたと後から聞きました。

母が来てくれたことにも安心し、
とにかく私は眠りました。

この数日間の状態を昏睡というのかどうかはわかりませんが、
あらゆるものから遮断された状態で、
枕の下に父の髪の毛を忍ばせて、
昏々と眠り続けました。

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