一病~リウマチ~息災徒然ノート9

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年08月16日 23:13

最初の入院6

面会謝絶が解けて、
連日病室に通ってくれる同僚のエリさんと、
仕事の引き継ぎや相談ができるようになると、
私はじっくり養生するしかないと覚悟もでき、
気持ちのつっかえが取れました。


結局、最後まで大部屋に移らず、
テレビも借りず、
一日の大部分をベッドの上で、
夫が柏のLEC校に通って借りてくる授業のカセットと格闘していました。

疲れると復帰に備えて(?)ラジオの英語番組を聞き流す、、、
そんな入院生活でした。

リウマチ病棟に入院しながら全く外を見ない、
リウマチ患者と交流しなかったわけです。

これは後に、
患者会であるリウマチ友の会に入会するのを躊躇ってしまう大きな原因となります。

何といっても印象深いのは、

教授回診で、

まさにテレビドラマで見たのと同じ光景でした。

大名行列の如く、
狭い個室に入りきらない白衣に圧倒されました。

さらに、この教授回診の火曜日の朝ばかりは、
久野先生がいつになくピリピリされて、

「あと、数人だからベッドの上の本を片付けて横になっていて」

と先回りで指示があります。

息を殺す思いで布団をかぶって待っていても、

「具合はどうですか?
まだ、食べた生物(ナマモノ)思い出せない?」

ごとき教授の一言、二言で終わるのです。

列の後ろからついて回る人たちには、
教授の声も患者の顔も、全くわからない状況でした。

入院3週間目が終わる頃には点滴が外され、

「これで囚われの身からやっと開放ね」

と久野先生に言われました。

この頃になると、
看護師さんの夜中の定期巡回もぐっと減り、

朝と夜以外、
日中の医師回診もほとんどなくなりました。


清拭や身の回りのことも、ほぼ自分でできるようになりました。

ただ、ずっと寝ていたので、
最初はめまいが激しく、
立ち上がると地面がぐらぐら揺れている感覚に悩まされました。

シャワーの許可も出ました。

二週間官舎に滞在して、毎日病院に通ってくれた母も京都に戻っていました。

「病室から出てもいいですよ」

と久野先生に言われた日、

一階の売店に行って、
最初に買ったのが、

カントリーマアムのクッキー

甘いものが特に好物なわけでもないのに、
一袋(28枚入り)、一気に全部食べてしまいました。

当然のように、お腹をこわして、
ゴミ箱のクッキー空袋の山を見た看護師さんに、

「気持ちは、よくわかるわぁ」

と笑われ、

久野先生に整腸剤を処方してもらいました。

甘いものに限らず、ぐんぐん食欲がもどって、
毎日の給食献立表を楽しみにするころ、
週末は外泊許可が出るようになり、
入院から6週間で退院となりました。

世の中は師走に突入していました。

年末年始を京都の実家で過ごし、
つくばに戻って1996年1月末まで自宅静養しました。

入院から三ヶ月間、一度もリウマチ薬は服用しませんでした。

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