小松秀樹先生より4

投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2007年12月11日 04:14

MRICより
また小松秀樹先生の論文が配信されてきました。
お読みください。

 
                         2007年12月11日発行
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 Medical Research Information Center (MRIC) メルマガ 臨時 vol 61

   ■□ 日本医師会の法リテラシー □■
              虎の門病院 泌尿器科 小松秀樹
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                    MRIC(エムリック)田中
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 筆者は、07年10月17日に発表された死因究明制度についての厚労省の第二次試案の問題点を「医療の内部に司法を持ち込むことのリスク」にまとめて07年10月25日に発表した。その後、短期間で状況が大きく動き、07年11月1日、自民党のヒアリングの場で、ほとんどの医師が知らないままに、日本医師会、病院団体、学会代表がこの案に賛成することを表明してしまった。このままでは第二次試案にしたがって法案が作成されるのではないかと危惧された。そこで、この問題をめぐる日本医師会(以下日医)の対応を批判して、「日本医師会の大罪」と題する文章を書き、07年11月17日、第107回九州医師会医学会で発表した。数日後に日医から、第二次試案についての誤解があるので、説明したいと連絡があった。広く議論すべき内容なので、意見を公表してほしいとお願いした。日医は誠実に対応され、日医ニュース第1110号(07年12月5日)に、木下勝之常務理事の「刑事訴追からの不安を取り除くための取り組み」(以下木下文書)と題する文章が発表された。木下文書では、07年4月に始まった「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」を、医師法21条改正、業務上過失致死傷の謙抑的適用、診療関連死の原因究明を行なう第三者機関の法制化、現実化を目指す場として位置づけた上で、「日医委員会提言」、「試案の問題点」、「刑事介入を避ける新しい仕組みの法制化」の3項目について解説している。以下、木下文書に対する批判を書くが、日本医師会の法リテラシーを評価するつもりで読んでいただきたい。


 木下文書を読むと、警察と刑事訴追への恐れが基調となっていることは分かるが、全体として論理が練られておらず、理解しづらい。分かりにくさの原因は、試案の文言を読み込んでいないことにある。さらに問題なのは、日医が抱く期待と第二次試案に明記された文言の意味の違いを認識できていないことである。本稿では、木下文書の不備、論理矛盾を、全て細かく指摘することはせずに、重要な部分についてのみ批判する。


【第二次試案では日医の甘い期待と異なり、警察への通報はなくならず、刑事訴追が増える可能性が高い】

 まず提言1で日医は医師法21条を改正して、医療関連死を異状死から外し、保健所への届出をもって代えられるようにすべきであるとしている。立法でこの問題を解決しようとするのは正しい。しかし、医師法21条は厚労省により解釈が変更され、それが最高裁の判決で確定した。これについて、厚労省が取り仕切っている会議で、警察・検察にやめてくれと頼むこと自体に無理がある。警察・検察には、法律の効力を停止する権限はない。


 第二次試案では、診療関連死の報告を受けた後、「必要な場合には警察に通報する」と記載されている。しかも、この通報の必要性を決定する立場に医療関係者のみならず、法律関係者、遺族の立場を代表する者が入っている。警察への通報の必要性の判断に結果責任追及や応報の要求が加わることになる。


 従来、検察が起訴をためらってきた大きな理由の一つは、医療についての判断が難しいところにあった。委員会を通して警察に通報すると、警察・検察に立件・起訴のお墨付きを与えることになる。さらに、この時点で報道が加わると、検察は起訴せざるをえなくなる。第二次試案は従来の刑事訴追の阻害要因を取り払い、刑事訴追をしやすくする可能性が高い。提言1の願いは、第二次試案では果たされず、逆になっている。


【日医の態度は、鞭で打つのを弱くしてくださいと哀願する奴隷に似ている】

 提言2では警察・検察に業務上過失致死傷事件の処理について、謙抑的姿勢の伝統の堅持を求めている。刑法の教科書を読むと分かるが、刑法は謙抑的に適用されるべきものと位置づけられている。検察は、業務上過失致死傷罪の構成要件が成立する事例の一部しか起訴していないことをもって、謙抑的に運用していると説明している。鞭を弱くしか打っていないといっている主人に、いままで同様、鞭の打ち方を弱くしてくださいと哀願している奴隷のような印象を受ける。あまりに情けなく、提言といえるような言説ではない。


 そもそも、人間は間違える存在である。エラーがあっても被害につながらないようにシステムを工夫するという考え方が一般的になって久しい。注意義務違反に対する懲罰を正当とする考え方が、近年のヒューマンファクター工学の考え方と矛盾していることを堂々と主張すべきであった。また、業務上過失致死傷罪が、医療以外の分野のシステム事故でも共通の問題であることを考えれば、医療だけに限定して議論すべきではなかった。医師法21条と同じく、警察・検察に業務上過失致死傷罪の規定を停止する権限はない。そもそも、厚労省の会議で議論できるような問題ではない。


【日医は報告を怠った場合のペナルティが軽微だとして、報告の義務化を安易に受け入れた】

 情けない話だが、ペナルティが「刑事罰ではなく、指導、勧告、命令、さらに悪質であれば行政処分などという内容を想定していることが、検討会の座長からも解説され」、(罰則が軽微だと)納得したとしている。検討会の前田雅英座長には、このようなことを決める権限はない。第二次試案に基づいて法律を制定する以上、第二次試案に文言として盛り込まれていないことは後に影響を与えない。将来、議論が紛糾したときには、検討会座長の過去の説明には何の拘束力もなく、第二次試案の文言しか意味をなさない。日医は、日本を人知国家であり、法治国家ではないと考えているようだ。


 そもそも、ペナルティの内容が問題なのではない。ペナルティで脅して報告させるような構図にすると、医療全体が疑心暗鬼に満ちた暗いものになり、関係者間の軋轢を大きくすることが問題なのである。


【診療関連死の範囲は日医の願望より広い】

 木下文書は診療関連死の届出範囲を狭くすることで合意を得たいとしているが、第二次試案では届出範囲を、医療事故情報収集等事業の「医療機関における事故等の範囲」を踏まえて定めるとしている。この情報収集等事業では、「誤った医療または管理を行ったことは明らかでないが、行った医療または管理に起因して、患者が死亡し、若しくは予期していたものを上回る処置その他の治療を要した事例」が報告すべき事例に含まれている。この定義自体あいまいであるが、非常に広い範囲を含むことは間違いない。日医の願望とは明らかに矛盾する。


【原因究明の目的は日医の主張する医療安全ではなく法的責任追及である】

 木下文書は「原因究明の目的は、医療安全に資するべき」としているが、第二次試案の総論部分では「診療行為に関連した予期しない死亡が発生した場合に、遺族の願いは、反省・謝罪、責任の追及、再発防止であると言われる。これらの全ての基礎になるものが、原因究明であり」と書かれており、原因究明を基礎に反省・謝罪、責任の追及、再発防止が行なわれると位置づけられている。第二次試案全体として、検討会の前田雅英氏座長が、筆者との讀賣新聞(07年8月14日)紙上での討論で主張したとおり、法的責任追及を行なうための制度になっている。


 第二次試案では、調査委員会本体のみならず、地方ブロック分科会の下に置かれる個別事例の評価及び報告書の原案作成を実施するチームにも、医療関係者だけでなく、法律関係者、遺族の立場を代表する者が参加するとしている。調査過程の早い段階から遺族の立場を代表する者が参加する。


 原因究明は、本来は、真理の探究という意味で、学問そのもの、つまり、医学そのものである。医学的調査とは、医学を基盤に、あらゆる予断なしに、また、規範や感情に一切束縛されることなく、厳密に認識するところに特徴がある。規範と事実認識を区別する能力は、科学を進歩させる上で不可欠であり、獲得するのに相応のトレーニングが必要である


 しかし、遺族は、悲しみゆえに結果責任と応報を求めがちであり、原因究明を責任追及(刑事も民事も)のための手続と考えるきらいがある。第二次試案では、報告書が民事や刑事責任追及に使用できるとされており、法的手続としての原因究明のニュアンスが強い。


 井上清成弁護士によると、刑事における真相究明とは、刑罰という法律効果を発生させるために、犯罪構成要件という法律要件に該当する事実の存否を確認しようとして、刑事訴訟特有の手続を進めていくことである。また、民事における真相究明も、損害賠償という法律効果を発生させるために、要件事実という法律要件に該当する事実の存否を確定しようとして、民事訴訟特有の手続を進めていくことである。原理的には、司法の認識は、法的規範と法的手続の上に乗ったものである。法的真相究明の手続は、対立を前提としており、医学的な原因究明のための調査とは大きく異なる。


【日医は調査報告書を個人の責任追及に用いることに賛成した】

 世界的に、航空運輸の分野では事故をシステムの問題と捉え、将来の安全向上のために調査を行う。航空運輸は国際的な分野であり、国際民間航空条約(ICAO条約)の第13付属書に、事故調査についての取り決めが記載されている。付属書は「調査の唯一の目的は、将来の事故又は重大なインシデントの防止である。罪や責任を科するのが調査活動の目的ではない」とする。また「罪や責任を科するためのいかなる司法上又は行政上の手続も、本付属書の規定に基づく調査とは分離されるべきである」と明記している。日本学術会議も同様の趣旨の主張を05年6月23日「事故調査体制の在り方に関する提言」としてまとめている。


 木下文書は「調査報告書を遺族と病院へ戻した後に、これが、民事あるいは他の法的手続きに用いられることがあるとしても、国民の合意に基づく制度である以上、このことを、否定することはできない」として、民事や刑事訴追に報告書が用いられることを認めている。第二次試案はシステム事故調査についての、世界の潮流に逆行するものである。木下文書はこれを安易に認めている。


 第二次試案が実施されると、院内事故調査委員会での議論が大きく変化する。院内の調査が個人の処罰に直結するとすれば、証言は極めて慎重なものにならざるをえない。日本国憲法38条には「何人も自己に不利益な供述を強要されない」と書かれている。現在、病院は医療事故について患者に率直に真実を語るようになった。第二次試案が現実化するとこれが一変し、率直な議論がやりにくくなる。事実が表に出にくくなるだけでなく、病院の管理者と現場に疑心暗鬼が生まれる。


 処罰を前提にした調査は、科学的調査と異なり、対立構造を生む可能性が高い。ちょっとした働きかけで、簡単に遺族の憎悪を引き出すことが可能になる。医事紛争そのものを誘発する可能性が高い。


【第二次試案は、日医の主張とは異なり、診療関連死での刑事司法の介入を避ける新たな仕組みを法制化することを目的としていない】

 木下文書は「診療関連死の場合に、原則として刑事司法の介入を避ける、新たな仕組みを法制化することがこの試案の最も基本的な目的である」としている。第二次試案のどこを読んでもこのように受け取れる記載はない。第二次試案の基本姿勢は法的責任追及であり、全く逆である。


【日医は患者や遺族の感情への配慮をしていない】

 人は必ず死ぬものである。しかも、多くの診療行為は身体へのダメージを伴うと共に、その結果は確率的に分散する。このため、医療は本質的に不確実である。治療が奏効せず、期待に反して不幸な結果に陥る可能性は常にある。


 現場にいる医師として、置かれた条件の中で自分にできうる限りの努力を尽くしても、結果が悪かった場合に、死や後遺症に苦しむ患者とその家族の様子を見て心痛まぬことはない。しかしながら、目には目をと応報要求を振りかざされても、それは見当違いと感じるしかない。そもそも医師−患者関係は対立関係にはない。


 近年、メディエーション技法をはじめとする方法論によって、不幸な結果による医師−患者関係の悪化を防止し、互いの感情に寄り添うことによって死や後遺症を受容して患者や遺族の応報要求を防止し、積極的に新たな人生への出発を支援することが可能であることが知られるようになった。


 患者に寄り添う医師や医療者の団体として、日医は第二次試案に欠落したこれらの視点を提案し、むしろ刑事司法の謙抑性が発揮されやすい環境作りに寄与することができたはずである。本当の意味で患者やその遺族の感情への配慮に欠けていることが、表出される結果となった。


【日医は第二次試案が厚労省による徹底した統制医療をもたらすことに気づいていない】

 近年、日本医師会の弱体化により、診療報酬決定過程で厚労省の力が高まった。第二次試案では、厚労省に所属する委員会が、責任追及を目的に医療事故を調査し、その調査結果を用いて、やはり厚労省に所属する医道審議会での行政処分を拡充するとしている。厚労省が医療を経済的に支配するのみならず、医療事故を調査し、医療従事者を処分することになる。日医は、刑事訴追を恐れるあまり、刑事訴追を残したまま、司法、遺族の立場を代表する者を医療の内部に組み入れ、厚労省が医療全体を統制するという枠組みを受け入れた。医療提供者以外の立場からの病院への批判は当然必要だが、システムを壊さないようにするためには、あくまでシステムの外部からの批判とすべきである。第二次試案の示す制度は、自民党総務会の過半数を民主党関係者、市民団体が占めるようなものである。これでは、病院は破壊され、医療サービス提供に支障をきたす。


 第二次試案どおりに、厚労省が、調査権限と処分権限を手にすると、医療従事者は厚労省の意向を伺い、常に処分を恐れつつ医療を行なうことになる。現在でも、厚労省の規則を全て遵守できている病院はない。病院はいつでもバッシングの対象とされる可能性がある。厚労省はいつでも正義の味方としての自分の立場を演出できる。現場にもたらした結果からのフィードバックで、厚労省の責任を問うようなシステムを構築することなしに、厚労省の監督権限を限界まで強化すると、現場と乖離した規範がまかり通り、適切な医療提供体制を壊す。


 ニクラス・ルーマンは1975年「世界社会」と題する論文で「望ましいこと、規範的なことを普遍的に要求する可能性が大きく、その可能性が徹底的に利用されるときは、現実と乖離した社会構造がもたらされる」と述べた。


 06年に成立した改正建築基準法が07年6月20日に施行されたが、この日以降建築確認申請が滞ったままの異常な状態が続き、住宅着工が激減した。これも、現実と乖離した規範が暴走したものである。


 旧ソビエト連邦では、国民は法令違反をしないと生きていけない状況に置かれていた。これを政府は熟知しており、政治犯は政治犯罪のために逮捕されるのではなく、破廉恥罪を理由に逮捕された。


 第二次試案は、実質的に「正しい医療」を厚労省が決めることを意味する。「正しい医療」は、本来、「医学と医師の良心」に基づいて専門家が提示すべきものである。これを社会が批判することでさらに適切なものになっていく。厚労省は「医学と医師の良心」によって動いているわけではない。法令に従わなければならず、原則として政治の支配を受ける。メディアの影響も当然受ける。行政は、医療における正しさというような価値まで扱うべきではない。明らかに行政の分を超えている。


 日本では20世紀初頭よりハンセン病患者の生涯隔離政策が実施されてきた。しかし、ヒトからヒトへの感染の可能性が極めて低いことが明らかになったこと、治癒可能な病気であることがはっきりしてきたことから、1950年代後半には医学的正当性を失っていた。1958年に東京で開かれた第7回国際らい学会で、強制隔離政策を全面的に破棄することが提案された。にもかかわらず、隔離政策は、1996年に至るまで、大衆の差別感情と制度の惰性のために継続された。


 90年に及ぶ日本のハンセン病隔離政策の歴史で、何人かの医師は身を挺してこの政策に異議を唱えた。いくつかの大学では、患者を隔離施設に送らず、外来で診療していた。これらの医師は、科学と、良心に基づいて行動した。公務員は政治と現行法に従わねばならず、このような国家的不祥事に抵抗することが難しい。この故に、医療における正しさを国が決めることは危うい。


 第二次試案は厚労省医政局の一部の医系技官が推進している。多くの医系技官は、医師としてのキャリアがないに等しい。医療現場を知らないし、医療そのものを知らない。一方で法律知識も聞きかじりの生半可なものである。彼らからは、国家や法制度の歴史と成り立ちについての深い洞察が感じられない。筆者は、第二次試案をめぐる騒動を一部の医系技官による社会思想史的不祥事と認識する。厚労省全体として、彼らの行動を是認しているのであろうか。一部の医系技官が、無茶な制度を作ろうしていることを、厚労省に所属する法学部出身者は、どのように考えているのであろうか。


 国が学問や表現の価値を決めるのは異様なことであり、現代の立憲主義国家体制では考えられない。天皇機関説事件は国のありようをゆがめた。統制医療は、全体主義国家で実証されたように、医療の自律性を破壊し、医療の進歩を阻む。国民への適切な医療提供を阻む。

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