医学の進歩はほんとうに私たちを幸せにするのか。 |
|
投稿者: | 投稿日時: 2009年03月29日 13:22 |
昨日、以前もご紹介した「今の医療、こんなんで委員会」シンポジウムが開かれました。
シンポジストストの一人、「医療サポーター養成所」代表であり“お母さん”でもある山根さんは、先日別のエントリーで私も取り上げた「妊娠の心得」を、会場で紹介されたそうです。
今日は、その中の1つの項目について、近年注目されて、ちょうど研究室でも話題になっていた「遺伝子診断」と絡めて考えてみたいと思います。
「妊娠の心得」についてはロハス・メディカル(2009年1月号)でも取り上げられていますが、私が気になったのは、
という項目です。まとめると、
赤ちゃんに異常がみつかるリスクは必ずあり、妊娠中に見つかることもある。そこで中絶をするかどうかは、夫婦で話し合い、自分たちの責任で決めましょう。しかし何より、「妊娠中に診断できる異常はごく一部です。中には幼児になってからわかる異常もあります。でも、この世に完全に正常な人間なんていません。どんな赤ちゃんが生まれても自分の子供として受け入れる、それが親になるということです」
という内容です。
たしかに今のところ、「妊娠中に診断できる異常はごく一部」ですが、それでも近年の遺伝子解析の手法をつかった出生前診断の進歩は、目覚しいものがあります。
現在、最も一般に普及しているのが、妊婦の子宮に長い注射針に似た針を刺して羊水を吸引(羊水穿刺)し、羊水に含まれる胎児細胞やその他の物質をもとに、染色体や遺伝子異常の有無を調べる羊水検査です。ごくまれに、絨毛を直接採取して検査する絨毛生検も行われます。
これらの検査は、国立成育医療センター研究所ホームページ)でも、「比較的安全性が高く、またDNA診断技術の精度はかなり高いものですから、多くの場合信頼性の高い診断結果を得ることができます」としています。遺伝子診断の技術は今後も向上を続けることでしょう。そして現在ではわからない遺伝病や先天性の異常がますます発見されていくことでしょう。
しかし一方、成育医療センター研究所では併せて、
「わが国では一部の障害者団体から『出生前診断で異常があった場合、胎児の抹殺につながるので、障害者の人権をふみにじるものである。』という指摘がなされ、出生前診断そのものに反対する声も少なくありません。」
と、中絶の助長の可能性から生じる倫理的な懸念にも触れています。これについては、「妊娠の心得」の原案を作成された宋美玄先生も、ご自身のブログで以下のような報告もされています。
「では、たとえばダウン症など命にはかかわらないけれど治療できない病気の場合はどうか。 ダウン症の子供は、特有の顔をしていてしばしば心臓や腸に病気があり、知恵遅れもありますが、比較的長生きできる人もいて、大学生や社会人になっている人たちもいます。 ただ、手術などの医療費や、福祉にお金がかかるのも事実です。 私がロンドンの病院やイタリアの学会で勉強したところ、イギリスやデンマークでは妊婦全員に説明と同意を得て妊娠初期からスクリーニングを行い、ダウン症の胎児を原則的に中絶しています。その結果生まれてくるダウン症の赤ちゃんは格段に減りました。 賛否両論あると思いますが、その国々ではこのクリアカットな価値観で社会が成り立っているわけです。 」
もし胎児に異常がみつかったらどうするのか、自分たち夫婦は何を考え、何を 決断するのか。以前、例えばの話として、私も考えたことがあります。しかし、「例えばの話」としてすぐに答えが出せるほど、簡単な問題ではありませんでした。「中には幼児になってからわかる異常もあります。でも、この世に完全に正常な人間なんていません。どんな赤ちゃんが生まれても自分の子供として受け入れる、それが親になるということです」という妊娠の心得は、非常に共感できる反面、その難しさを私に突きつけました。
異常が発見さ れた時点で、個人が中絶の決断をすることは、正直、理解できなくはありません。胎児が無事生まれても、その後の負担の大きさは、それをどう受け止めるかという主観は別としても、けっして小さいとはいえません。しかし、例えば胎内でダウン症と診断された時点で国として中絶を事実上強制するような政策をとることで、万が一(検査はどこまでいっても100%ということはありえません)生まれてきたダウン症児の生きる道は、今後ますます、とてつもなく厳しくなっていきます。人数 が減ればそれだけ社会的なサポート体制も縮小され、次第になくなっていくわけですから。そうなれば、「ダウン症とわかったうえで産む」という選択は、実質的にも不可能になります。そんな、ダウン症児に人権を認めないに等しい世の中は、本当によい世の中なのか・・・。その中で子供はどんな人間に育つのか。偏見を強めるだけではないのか・・・。
かといって、異常が発見されたのに「絶対産め」と 他人が夫婦に強いることも、どうも違います。異常が発見できるのに、検査を一律に禁じるのも、たぶん同様におかしな話です。
これからますます遺伝子診断の技術は進歩していくでしょう。それとともに、かつてはわかり得なかったことが、どんどんわかり得るようになっていきます。しかし本当にわかったほうがいいのか、わかっておくべきなのか、期待にそぐわない結果を受け入れる覚悟があるのか、そのあたりの議論が全然追いついていないように思います。それは中絶に関しても同様です。個人個人が考えるべきこと、国や立法・行政レベルで考えること、いろいろあります。それぞれに議論を深めつつ、両者の整合性を図り、何がどちらの裁量にゆだねられるのかまではっきりさせておく必要があるでしょう。
それでもきっと、答えを出すのは容易ではありません。ただし、最終的な答えを出すのは個人、親となる夫婦であってほしいと思います。例えば、高齢出産等を考慮して、国がある程度の条件を提示して検査を課すのは理解できますが、同時に、それによって背負うものも事前に明示して、受ける・受けないの判断を自分たちで下せるかたちであってほしいです。そして、検査・中絶、どんな決断を下すにしても、よく悩み、考え抜いたうえで、責任ある決断を下すべきなのだろうと思います。
<<前の記事:やはり社会が病んでいる 選択授業:次の記事>>
コメント
障害があることがわかって、中絶したとしても、社会の障害者の受け入れ不備を思うと仕方が無いと思う反面、そこのところをしっかり理解している健常者がどれくらいいるのかは不明ですよね。
障害者と接した事が無い人が多いと思いますので(私も親になるまではその一人だったと思う)。
障害者(ダウン症ではない)の親をやってみた感想は、けっこう楽しい、でも将来を考えると不安というところでしょうか。親亡き後のことは、やはり社会でみてもらうしかないわけですから障害者が暮らしやすい国になること。国のコストという面から見れば、産まれてきてほしくない存在なのでしょうが。
診断への同意(診断を受けることを受容すること)
診断すること
診断を受容すること(生む決意をすること)
出産すること
育てること
成長後も介助を続けること
社会として支援すること
全ての段階で親にも、医療者にも、社会にも十分な理解と覚悟が必要です。単に「診断技術が確立したからやってみよう」という態度では本来いけないのです。診断を受け入れて生む決心をしても、落ち込んだり後悔したりするタイミングが必ずあるでしょうし、喜びを感じるタイミングも必ずあります。
たとえどのように事前に説明されていても、将来を具体的に予想し、それに対して絶対揺るがない決意をする人間などいるはずがありません。言い換えれば、気持ちが揺るぎそうなタイミングを見計らって、親となるべき人の決断を第3者が自分の価値観で誘導してはならないと思います。
最もいけないことは「自己責任」という掛け声で、或いはもっとストレートに「社会資源の有効活用」という名のもとに障害者を切り捨てる社会にしてしまうことです。弱者を支えようとする姿こそが全ての面で安心できる良い社会をつくるキーポイントだと思います。
辛さを支えあい、喜びを分かち合える社会にするべきだと思います。
今回の提言は出生前診断についてでしたが、実は全ての医学技術について、さらには全ての科学技術について、考えるべきことだと思います。
>ともハハさん
>障害者(ダウン症ではない)の親をやってみた感想は、けっこう楽しい、でも将来を考えると不安というところでしょうか。
ブログも拝見しました。困難な出来事をいくつも乗り越えながらも、ともハハさんが「けっこう楽しい」とお書きになっているそのままの様子が伝わってきて、その前向きで肩肘張らない姿勢に感銘を受けました。
それでも、「将来を考えると不安」ということについても、想像に難くありません。しかも、「社会的弱者」と呼ばれる人々は、障害者に限られず、また実は多くの人がいつそう呼ばれる立場になるかわからないものでもあります。そうした自覚を各自が(エライ人たちも)きちんと持てば、弱者を簡単に切り捨てるような考えは生まれてこないはずですよね。「そんな国に住みたいか」と聞かれても、答えはおのずと決まってくるはずです。
>障害者と接した事が無い人が多いと思いますので
確かにそうです。だから頭にないし、自覚もない。隔離や切捨てからは何も生まれないということだと思います。私の子供の保育園のクラスメイトに、障害(の兆候)を持ったお子さんがいます。誤解を恐れずに書けば、私の子供にとってはとても良い環境だと思っています。保育園の先生方はすこし負担が増えるかもしれません。完全な民営でないからできることかもしれません。民間でないからこそ、いろいろな意味での効率ばかりを重視しなくて済むのでしょう。逆に、国や地方公共団体が外見上の効率だけに走るようになってしまったら(そのために中絶を誘導したりするのなら)、私はかなり途方にくれると思います。
>ふじたんさん
>たとえどのように事前に説明されていても、将来を具体的に予想し、それに対して絶対揺るがない決意をする人間などいるはずがありません。言い換えれば、気持ちが揺るぎそうなタイミングを見計らって、親となるべき人の決断を第3者が自分の価値観で誘導してはならないと思います。
ほんとうにそう思います。決断しても気持ちが揺らぐことは必ずあり、そういうときにこそ、周囲がそれを支えられる体制であってほしいです。
>実は全ての医学技術について、さらには全ての科学技術について、考えるべきことだと思います。
そうですね。ダイナマイトの発明が図らずも戦争をより悲惨なものにしてしまったように、科学技術の進歩と同時に、それを活用する世の中の心構えや倫理観が伴っていないと、結局は不幸な結果につながりかねません。まして(ともハハさんへの返信コメントにも書かせていただきましたが)、効率重視に偏向している世の中で、すべてがその価値観で論じられ、断じられることがあってはならないと思います。