編集の怖さ

投稿者: | 投稿日時: 2009年07月14日 11:15

週末から昨日にかけて、本当に暑い日が続きました(今日も暑くなってきましたね)。テレビや新聞はやはり東京都議選の話題で持ちきりでしたが、同時に、いくつも気になるニュースがありました。

週末には舛添厚労大臣が、新型インフルエンザ対策のために「現在の感染症法の体系全体を見直す作業が必要」と発言し、権限を大臣から知事へ移す意向を表明。そして都議選明けの昨日は、「脳死は人の死」を前提とした臓器移植法改正A案が参議院で可決され、また厚労省は、今年4月から新基準となった要介護認定で「介護不要」と判断される新規申請者の割合が旧基準時と比べ倍増したことを公表しました。


インパクトとしては確かに大小違いがありますが、いずれも近い将来・遠い将来を考えれば、決して他人事ではない問題ですよね。


さて、こうしたニュースの陰に隠れてもうひとつ、週末にひっそりと朝日新聞の謝罪文がホームページに掲載された、という話を人づてに教えていただきました。宮崎の医療崩壊に関する取材記事に問題があったとのこと。私も読んでみました。


前回、「次は健康食品の広告の話」といったことを書いてしまいましたが、次に回させていただき、今日はこれについて考えてみたいと思います。

その文章はこちらから。


読んでみると、謝罪文というより、紛争当事者の間に入った「朝日新聞社報道と人権委員会」の調査報告書ですね。要するに、宮崎の医師不足をリポートする記事の中で、取材を受けた研修医が取材時に自らの主張としては明言していないことまでを自身の発言として編集され、掲載されたことに抗議。これに対して同委員会が調査し、その結果にもとづいて社側が謝罪に至ったということで、4つの論点について両者の主張と同委員会の判断・見解が説明されています。


各論点については皆さんにも上の報告書を読んでいただくとして、私がまず感じたことは、編集というものの怖さでした。現在の編集のシステムの中では、こうした問題は常に起こる可能性があることを、非常に具体的に思い起こさせてくれたからです。現在の編集システムというより、編集という作業そのものに本質的に内在する危険というべきですね。


取材相手の発言を一言一句正確に伝える議事録等と違い、ニュース記事は膨大な取材のなかからその要素を編集者の判断で切り取り、圧縮する作業の繰り返しです。もちろん「」を使って取材相手の発言を引用する場合、その中身は一言一句正確であるべきですが、それでも、たくさんしゃべった中のごく一部だけ切り抜かれてしまうため、その前後関係、文脈がどこまで正確に伝わるかは記者の判断と責任になります。それによっては本来強調されるべきでない反対の意見さえ、取材を受けた当人の意見として掲載されかねません。最終稿の取材相手チェックが必須のルールではない以上、取材を受けた側には最終的にはどうすることもできないのです。


今回の場合はそもそも、「」の中身が取材者とその指導者の意図に基づいて、編集されてしまっていたようです。ですから非常に初歩的な問題であり、委員会はこれを「誤報」と認めていますが、取材を受けて発言した本人からすれば、これは「捏造」ととっても決して大げさではないと思います。まして委員会も理解を示しているように、医師の世界は現実問題として、良くも悪くもタテヨコのつながりが非常に強い世界であることは、継続的に取材をしてきた記者なら分かっていて当然です。であれば取材を受ける方としても自身の住む世界に対し否定的な“発言”を行えばその人生にまで影響することは想像に難くないはずで、それをふまえて取材時から気を遣っていたことは、取材メモ全体を見返せば分かったはずです。さらにそれを記者の判断で「微妙な問題」に該当しないと、実名等で報道してしまったことは、結果的にも取材を受けた側の信頼を裏切る行為となり、それにより医療側が今後ますます取材に対して萎縮し、拒絶反応を示すようになっていく可能性さえあるのではないでしょうか。


何より恐ろしいのは、これを取材した記者も、そしておそらくその指導役の先輩記者も、自分たちの意図に沿って記事が少しずつゆがめられていくのを「記事が良くなった」と感じてしまっていることです。これは普段から編集作業を、いかに読者をひきつけるかという観点から、ルーティーンとしてこなしている結果、編集のあるべき本質からちょっとずつズレてきてしまっているんでしょうね。内部の論理に縛られ、自分たちがあくまで間に立つ伝達者である自覚が薄まり、しなくてよいこと、すべきでないことまで「よかれ」と思ってやってしまう・・・。それは自分たちでも意識していないある種の驕りと言ってしまってもよいかもしれません。


そして皮肉なのは、記者はそれ以前に、膨大な取材をこなしてきているということです。その努力がかえって、今回の問題を導くことになってしまったのだと思います。例えば複数の取材先で得られた「宮崎大は合宿所」といった意味の発言が記者の心象を大きく支配し、先入観を作っていきました。確かにこのフレーズはインパクトがあり、指導役の先輩記者も含め、できればこれを記事に盛り込みたいと考えた気持ちはわからなくもありません。とはいえ今回の記事は、記者のほうで得た宮崎大への否定的印象に沿って全体の論旨が強引に統一され、しかも記者の方で誘導的に聞き出した一般論についての回答と、取材の受け手の主張の境目が、紙面上では失われてしまっており、編集過程がお粗末に過ぎることは明らかです。


時間に追われて取材をしていると、ついこうした取材・編集を強行してしまい、それが当たり前となって何も感じなくなってしまうのかもしれません。しかし、本来は記者としての正義感から取材を敢行し、世の中に問題提起したいと考えていたとしても、結局は誰も望まない記事が出てきたのでは全てが無駄であるばかりか、害悪となってしまうのですね。とくに、実名を出した特定個人の信頼や名誉を図らずも傷つけてしまったとなれば、その完全な回復は記者の事後的な努力によってかなうものではなく、取り返しのつかないものと考えておくべきでしょう。


そうしたことは、頭では分かっているつもりでも、自覚のないところで起きてしまう、起こしてしまうものなのかもしれません。そのことが、今回の報告書の具体的な内容(両者の意見の食い違い等)を読み比べて、とても生々しく感じられました。私も肝に銘じなければと気持ちが引き締まるばかりです。

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コメント

本件では、当事者双方とも、「宮崎大は合宿所」という発言はなされていないことを確認していると、引用されている文書では明記されています。

これに対して、

>>「」の中身が取材者とその指導者の意図に基づいて、編集されてしまっていたようです。(中略) これは「捏造」ととっても決して大げさではないと思います。

と評しておられますが、発言者が行っていない発言をカギ括弧の中身に入れて表記すること自体は、「編集」の範囲内であり「捏造」にはあたらないということでしょうか? また、この場で書かれているということは、ロハス・メディカルの「報道」においても同様の「編集」はなされうると理解してよろしいのでしょうか?

自分で言ったことを相手の言葉として書くのは捏造だと思います。
でも新聞記者になってすぐにやらされる警察取材では、それで書いてもいいようなことを教えられます。
警察官じゃない相手にも応用してしまったという意味で、新聞社の記者教育の構造的な問題が出たと思います。

それって「警察」相手の取材なら「捏造」してもいいって現場で教えているってことですか?松本サリン事件の教訓が全然生かされていないような気がしますが。
警察が「証拠」はないが「警察の印象」としてA氏が被疑者と考えていると暗示されたら「新聞」はA氏が重要参考人だと書くんでしょうか?恐ろしくありませんか?

部外者から見ると理解不能だと思いますが
話さない相手から情報を引きだして書くことになってます。
「Aが容疑者ですよね」
「それは言えない」
で、「被疑者浮上」という見出しの記事を書くみたいな感じです。
かなりの特殊技能ですし、トンデモ記事が出現することもあります。
考えてみると不思議な世界です。


記者 「サヨナラ、凄かったね。アウトコース低めのカーブ、最初から狙ってた?」

高校生 「そっすね」

記者 「ピッチャーの島田くん、好投してたから、助けてあげようと思ってたんだよね」

高校生 「うぃっす!」

「アウトコース低めのカーブを狙っていました。先発の島田が好投していたので、自分のバットで助けてやりたいと思いました」

(こんなこともありました。。)

明らかな捏造でしょう。言ってもいないことを発言したように書かれることが捏造以外のなんだというのでしょうか。さらにこの宮崎研修医捏造記事事件では、記事内容の確認と言った約束事も守られていません。取材時に研修医の勤務先の広報が同席しており、抗議も直ちに行ったことで、「朝日新聞社報道と人権委員会」の調査報告書が出る事態となった訳ですが、これが個人レベルであったら抗議にまともに取り合うことも無いでしょう。(個人的な体験から断言できます。)

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