たかがマーク、されどマーク。

投稿者: | 投稿日時: 2009年10月19日 11:40

先日、このブログでマタニティーマークについての話を取り上げました(「問題はたぶん、マタニティーマークの有無じゃない」)。


●福祉ナビ:がん、内臓疾患など病気や障害を表すマークが増えています。
(毎日新聞 2009年10月15日)


やはりこういう動きはいろいろなところで出てきているんですね。あとは認知度と理解がついてくるかというところですが・・・。

記事にもあるように、確かに内臓疾患やがんの治療の副作用等でつらくても、公共の交通機関内で通りすがりの人に気づいてもらうのは難しそうです。薬や治療法等が進歩して、入院でなく外来通院での治療も幅がひろがってきました。それでも家の近所のクリニックで治療が受けられる人はそれなりに限られていますから、自家用車でなければ、たいていはバスや電車を乗り継いで病院に通うことになります。距離が長ければ毎回タクシーというわけにもいかないでしょうし・・・。しかし、そこまでの道のりを考えると、気が重くなるのは想像に難くありません。


一生のうちにがんにかかる人はいまや2人に1。また、【厚労省の調査では、身体障害者手帳を交付された内部障害者は107万人(06年)で、全身障者の3割を超える】とのこと。両者を合わせれば、電車やバスで乗り合わせることは、それほど珍しいことではないだろうとわかります。自分自身やかかってしまう可能性や家族、大切な人が当事者になることを考えれば、やはり他人事ではありません。


とはいえ、マタニティーマークのときにも書きましたが、気づかないことにはどうしようもありません。そして周囲の人にとってみれば、気づくことまでを課せられるのは、どうも違う気がします。ですから昨今の動きのように、自ら知ってもらうためのアピール方法を考えることはやはり必要なことだと思うのです。


そしてこれも繰り返しになりますが、問題はお互い、その先です。マークをつけている人の認識として、たとえば「マークをつけているから席を譲られて当然」、となってしまってはおかしいですよね。マークをつけているのは、防衛手段の一種ですし、あくまでマスへの一方的アピールでしかありません。他の個人の能動的アクションを強要し、期待するものではないのです。自分の事情は自分しか知らないように、周りの人の個々の事情はその人たちにしかわかりません。それを差し置いて、マークをつけているだけで優遇される存在であると勘違いしてはだめですよね。そもそもマークをつけていても、実際の体調は人それぞれ。「今日は体調がいい」「2駅先までだから立っていても大丈夫」など、そのときそのときで状況・事情も異なりますし、そこまで周りにはわからないわけですから。もちろん、周囲の人は、マークをつけている人がいる、調子が悪そうだ、と気づいたときに、自分はどう動くのかが問われるわけですが・・・。


そういったことを前提として、それでもマークはなかなかの妙案だと思います。本人にとっても、周りの人にとっても、アクションを起こすための潤滑油にはなる気がするのです。本人にしてみればお守り、見知らぬ人に声をかけてお願いをするのを勇気づける何かになるかもしれません。周りの人にしてみても、このマークに気づけばその人を気遣って見るきっかけになるかもしれません。この小さなアピールが方々で広まり、さらに本人が繰り返し声にしていくことで、ゆくゆくはそうした実際のアクションがあちらこちらで見られるようになり、普通の光景になっていけばと思います。


そしてそれこそが、認知度と理解を深める方法なんですよね。マタニティーマークのように、厚労省が先頭に立って交通機関などに協力を求め、妊婦さんたちにも指導をしていけば一定の認知度は上がるでしょう。しかし、認知度と理解とは、本当のところ別物です。理解というのは上からしろ、といわれてするものではありません。しようと思ってする、というものでも、本来ないような気がします。何事も理解しようという態度は大切ですが、あくまで入り口であって、理解できるかどうか、するかどうかは、意志とは別ですよね。簡単にいってしまえば、「習うより慣れよ」ということでしょうか。


声をかけることは、最初は抵抗があるかもしれませんが、繰り返すうちに「慣れる」ことでしょう。そして周囲もそうされることに「慣れて」いくことでしょう。ですからあくまでマークは「たかがマーク」なのですが、しかし人々が声を掛け合うことに「慣れ」ていない今、マークはやっぱり「されどマーク」なんだろうな、と思うのです。

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