医学生さんが見学に来てくれました①

投稿者: 熊田梨恵 | 投稿日時: 2011年09月16日 15:46

去る8月31日、わざわざ東京から医学部生さんが私の仕事を見てみたいと言って見学に来てくれました。

来訪してくれたのは、東京大学医学部5年生の二宮英樹君。彼はアメリカンフットボール部に在籍し、身長180センチ超。体力勝負の医師という仕事にはぴったりだなあという頼もしい風貌でした。

彼と出会ったのは、私が今年5月に順天堂大学で医学部生向けに講演をした時でした。

私の取材テーマである「医療にどこまで求めるか」という問題意識、またどうしてその問題意識に到達したのかという過程に興味を持ってくれて、様々な質問をしてくれました。

「自分がこの社会に対して何ができるか」ということを問いながら、様々な人や団体などに関わっていこうとする感性と行動力に、「こんな人が医師になってくれると頼もしいなあ」と思いながら話したのを覚えています。

そしてしばらくして彼から、私の仕事を見学したいと連絡が来ました。わざわざ東京から兵庫・尼崎まで、しかも医療者ではなく記者という私の仕事を見たいという関心の幅と行動力に感嘆し、来ていただくことになりました。


私は最近、「医療にどこまで求めるか」をテーマに、在宅医療現場の取材が多くなっています。そしてこれを考える時、介護は欠かせません。医療と介護は切れ目なくつながるものです。

取材現場を見てもらうなら、在宅医の往診現場への取材、そして介護者が集まって情報交換している「つどい場」も見てもらおうと思いました。

5年生である彼は、病院実習に入っています。卒後研修でも、病院にどっぷり浸かることになると思います。そうなった時、病院医療とつながっているのに、ほとんど接することのないであろう在宅医療や介護現場を知ってもらいたかったのです。医療と生活はつながっています。生活者である人間にとって、医療はナンバーワンではなく、ワンオブゼムであり、人の生活を豊かにするための素晴らしい「手段」なのだということを感じてもらいたいと思いました。


私は東京から来てもらう彼に、「在宅医療と『救児の人々』の共通点を考えてみてきてください」と伝えました。

頂いたレポートになるほどなと思い、私のところでとどめておくだけではもったいないと思ったので、転載させていただきます。


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今、関西に向かう新幹線の中にいる。今日から二日間、医療ジャーナリストの人の仕事を見学してくる。今年の始めくらいまでは小児救急(とその後)について取材を続けていて、今は在宅医療について取材をしている医療ジャーナリストだ。仕事に同行するにあたって、「超急性期の高度先進医療である小児救急と、慢性期であり終末期である在宅医療、それぞれにある問題やその裏に隠れた構造の共通点は何か?」という課題を出されたので、そのことに関しての考察をしてみる。

まずそれぞれにおける問題点をざっと列挙する。

小児救急
患者側の問題
・NICUの空きが無いため、救急搬送された妊婦の受け入れ先が見つからず、そのまま妊婦とお腹の中の子供が死んでしまうという事件が起きた。
・障害を持った子供が退院した後、その両親はずっと介護しなければいけないため、そのことに関する親の経済的・精神的負担が非常に大きい。
一方医療者側の問題としては、
・NICUの医師、看護師は絶対的に人でが足らず、非常に多忙である。(救児の人々に登場したNICUの医師の一月の平均勤務時間は300時間を越え、当直も一月6回程度だという。)
病院側の問題としては、
・NICUが赤字部門であり、NICUの病床を増やせば増やすほど赤字が増えていく。

在宅医療(在宅介護の問題もセットなので、以下には含めている)
患者側の問題
・核家族化や地域のつながりの希薄化により、夫や妻、あるいは親を一人で在宅介護する人が増えており、介護者への負担が非常に大きい。
・胃ろうの患者がどんどん増えているが、胃ろうをすることにより嚥下機能の低下した患者の命が延び、その分介護者や医療機関への負担は増えている。そもそも、胃ろうをして、全身チューブでつながれた意識の無い状態で生き続ける必要があるのか?
・1泊1000円で要介護者をひどい部屋に泊まらせるような悪徳介護ビジネス業者がでてきたり、免疫療法といって大量のお金をぼったくる医師がいる。
医療者側の問題
・在宅医療は24時間体制を作らなければ行えないため、それができるだけの規模が必要であったり、あるいは医師や看護師への負担が非常に大きくなる。
・基本的に在宅医療はコストがかかり、赤字になることが多い。

以上、それぞれの問題を簡単に列挙した。その上で、これらの問題に共通することを見ていく。

まず、熊田さんが最も問題視している共通構造としては、国民や医療者がどこまで医療をするべきなのか、限られた医療資源をどこに投入すべきなのかを考えず、そのことから目をそらし続けたが故に、様々な問題が起きているということがある。例えば、NICUに入院した子供は1日約50万円程の医療費がかかり、NICUにだいたい2週間程滞在するので、一人あたり約800万円の医療費がかかる(救児の人々に書かれていた試算より)。そしてその費用は全て国と地方自治体から出るのだ。患者及びその家族にとって医療が無料である以上、NICUの子供の親は自分の子供にどのような医療を施すべきなのか、ほとんど考えることが無いということだ。もちろん、NICUに入るくらいなので考える時間もさほどないということもあるのだが。医療が発展すればするほど医療費は膨大になっていくのだが、そういったコスト意識が全くないまま新生児医療は発達してきており、医療費がますます限られていく今後において、大きな問題になってくる。

これは在宅医療においても同じようなことが言える。昔の医療であれば、病気を治すとか、治療成績のデータの向上を目標として医療を発展させているだけで良かった。しかし、先ほどの問題でも挙げられた通り、胃ろうをして全身チューブにつながれ、意識もない老人を、限られた医療費を使って延命させていいのだろうか?そもそも、そのような状態にして人を生かすべきなのだろうか?これは結局、国民が、死をタブー視して、死生観やどう生きるかということについて、思考を放棄したからである。あるいは、家族、親族間の関係が希薄になり、意識のない老人の考えが全く分からなかったり、あるいはそれまであまり関わってこなかったことへの罪悪感から、ひたすら延命しているのかもしれない。また医療者側はというと、医療訴訟が増え委縮医療を行うようになり、昔であればある程度していた選択(何としてでも生かすか、それとも自然の経過に任せるか)を放棄し、ひたすら延命させる方向に流れていったのであろう。

このことを受けて、熊田さんが医療ジャーナリストとして成し遂げたいことは、今起きている医療問題について深く掘り下げてその背景まで調べ、それを国民に問題提起し、みんながもっと考え始めることで、世の中を良くしていくということである。

さて、上記の他にも小児救急と在宅介護の共通点はあるので、これから述べていきたいと思う。

小児救急も、子どもが障害を持ってしまった場合退院後は基本的に両親が介護することになり、両者は“介護”という大きな共通点を持っている。そのため、どちらも医療と介護の関係やバランスが非常に大事になってくる。小児救急であれば、NICUを出て障害を持った子供は、一生その障害と付き合いながら生きていくのだが、そちらの方に対する世間の関心が低い。妊婦が救急でたらいまわしにするのは問題だからNICUの病床数を増やそうとかそういった方向に世の中は進んでいくが、NICUを出た後の社会的なサポートの話はあまり出てこない。NICUを出た子供の一定数が障害を持ってしまう以上、NICUとその後のサポートはセットで議論され、策を講じていくべきなのだ。医師が必死で新生児の命を救い、「良かったですね」と笑顔で語ってくるが、その後子供の面倒を見る大変さゆえに、「救ってくれない方が良かった」と思い、それを誰にも言えない親がいるのだ。

在宅医療も、医療と介護を上手く連携させなければいけない。しかし現状としては、医療を担当する医師と、介護を担当するケアマネージャーの関係はお世辞にも上手く行ってるとは言えず、上手く連携がとれていない。

現在の“介護”が抱える問題として、社会的背景に制度が追いついていないということが挙げられる。今の介護保険制度や障害児をサポートするシステムというのは、夫が働き妻は専業主婦であるという前提の下で作られている。現在では共働きの家庭が増えており、女性にもキャリアを積んでいくという人はどんどん増えている。しかし、自分の子供が障害を持ったり、親の介護をしなければならなくなったら、仕事を捨てて24時間体制でその面倒を見なければならないのだ。結婚をしない人やシングルマザーも増えているので、そういう人が介護をする場合は全く収入がなくなってしまうのだ。

以上で考察は終わり。ぼちぼち大阪に着くや。

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コメント

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神戸市で在宅療養支援病院で病院に勤務しながら在宅医療を行っているものです。長尾先生にもよくいろいろとお教えいただいております。熊田さんの記事もいつも興味深く拝見させていただいております。

上記の内容に一つだけ追加させてください。

>胃ろうをして全身チューブにつながれ、意識もない老人を、限られた医療費を使って延命させていいのだろうか?そもそも、そのような状態にして人を生かすべきなのだろうか?これは結局、国民が、死をタブー視して、死生観やどう生きるかということについて、思考を放棄したからである。あるいは、家族、親族間の関係が希薄になり、意識のない老人の考えが全く分からなかったり、あるいはそれまであまり関わってこなかったことへの罪悪感から、ひたすら延命しているのかもしれない。

と書かれておられます。全くその通りであると思いますが、一つ抜けているように思います。それは、格差社会が急速に進行している日本において、その胃瘻を入れられて生きながらえている老人の年金(あるいは生活保護費)で暮らしている人たちが確実に存在する、ということです。

ワーキングプアの人の親が病気になった場合に、できるだけ患者さんに長く生存してもらうことで家族の手に入るお金があります。また、生き残っても施設に入れるお金がないため在宅へ戻るしか選択肢がなく、そのためにかかるコストと家族の生活費をその患者さんの年金から賄っているという家庭もたくさんあります。

それが良いとか悪いと言うことではなく、そういう理由で不条理とは知りつつも胃瘻を選択する家庭・家族もあるのだ、ということを知っていただければと思い、コメントさせていただきました。

今後とも熊田さんの記事を楽しみにしております。

いい視点だと思います。ただ、NICUに入る児の数に対して、重度身体障害児として卒業する児の比率はかなり低いものです。介護は改善を期待しにくい。そのあたり、どうリソースを振り分けていくかですね。

みどり病院 清水様

お返事が大変遅くなって申し訳ございませんでした。
いつも記事をご覧くださり、本当にありがとうございます。

>その胃瘻を入れられて生きながらえている老人の年金(あるいは生活保護費)で暮らしている人たちが確実に存在する

コメント、ありがとうございます。
私が取材させていただいている中でも、そうしたケースの方からお話を聞く時がございます。
その際には、ご家族の背景や社会事情などさまざまなことに思いを巡らせますし、一筋縄ではいかない問題があると感じております。

私もこれからまだまだ取材を深めていかねばなりません。
どうぞ、これからもご指導くださいませ。
よろしくお願い申し上げます。


>産婦人科医師様

コメントありがとうございます。

>NICUに入る児の数に対して、重度身体障害児として卒業する児の比率はかなり低いものです。

拙著の中でも書いておりますが、ほとんどのお子さんがその後に外来のフォローも要らなくなるぐらいに元気に育っておられると感じます。
重心施設に入るようなお子さんはほんの一握りの割合ですけども、どうしても一定の割合でそうした重度の医療ケアや介護が必要になられる方がおられます。
そのようなお子さんやご家族が安心して暮らせるような在宅医療や介護サービスは潤沢にあってもらいたいと思っております。
配分の話は本当に難しいですが、医療と介護の両輪のバランスは取ってもらいたいと感じます。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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