産後、何が、なぜ大変になるのか?⑫子どもの泣き声、私の心の傷

投稿者: 熊田梨恵 | 投稿日時: 2017年05月30日 14:43

私がどのようにして産後うつになっていったかは、以前に書いている。

産後、何が、なぜ大変になるのか?①初めての命
②産後うつ
③「抱っこしなければ」の奥底にあるもの
④幼少期の心の傷

産後は、身体、心、生活、周囲の状況などが一気に変化する。

特に初めての子どもだと、どう扱っていいのか分からず何をするにも右往左往してしまい、疲れた体がさらに疲れ果てるという人が多いと思う。

産後の女性の体は交通事故で重傷を負ったほどの状態だという例えもあるが、その状態から十分に回復できないまま睡眠もとれず、初めての授乳やおむつ替え、沐浴などのケアをしなければいけなくなる。

授乳もスムーズに進む母子の場合ならいいと思うが、私の場合はそうはいかなかった。

妊娠中に突然乳首が2倍以上に大きくなってしまい(そういう人もいるらしい)、生まれたての息子の小さい口に入らなかったのだ。息子が普通に乳首をくわえられるようになるまでひと月はかかった。

それまでの間、授乳時間になると乳首をくわえさせる練習をし、母乳を飲めたかどうか分からないので、前回搾乳(母乳を絞ること)して冷蔵庫に保存してある母乳を人肌に温めて哺乳瓶で飲ませる(この「人肌」というのがクセモノで、育児書などにはさらっと書いてあるが非常に面倒なのだ。母乳は生ものなので、電子レンジ等で温め過ぎると成分が壊れると助産師から聞いた。お湯でゆっくりと人肌の温度まで温めていくのがいいと。とにかく手間で面倒)。

その後、30分近くかけて両方のおっぱいを搾乳する。搾乳は力が必要だったし、絞る量も子どもが飲む量を考えながら調節する。ということを3時間ごとの授乳の度に繰り返してた。乳首をくわえさせる練習や、顔の下にあるおっぱいを目で見て搾乳するのを一日に8回もやっていると、相当肩や首が凝った(その後、もっと楽な搾乳の仕方を他の助産師から聞き、もっと早く教えてほしかったと泣きそうになった。恐らく助産師の中でも様々な情報や口伝があり、人によって知識もスキルも違うのだろう。助産師との出会いも運に左右されることが大きいと思う)。

授乳というと、母親が微笑みながら赤ちゃんを抱いて見詰め、赤ちゃんは気持ちよさそうにコクコクとおっぱいを飲む、という幸せな情景を浮かべるのだが、私の場合はハードワークの部活のようだった。授乳時間が近づくと「またか…」と思いつつも「よしやるぞ」と奮起しなければいけなかったし、終わった後はぐったりと疲れた。

落ち着いてゆっくりと授乳できるようになったのは2か月に入ったころで、その頃になったら搾乳も必要なくなり、授乳がかなり楽になった。

個人差はあるが、授乳一つとっても相当大変だし、母乳が出ているかどうかも子ども本人に聞けないし、見えないので分からないから悩む。

沐浴も、どの程度まで丁寧に洗っていいんだろうとか、力加減はどうなんだろうとか、いちいち悩む。

全部が初めてのことで、おまけに子どもの命に関わることなので、一つ一つをいちいち真剣に悩む。
 
 
「手を抜いたらいい」と周囲から何度言われただろう。

「じゃあ教えてよ、一体どこに手を抜いたらいいんだよ」と何度思っただろう。
 
 
「お母さんが必死だったり、余裕をなくしていたら子どもにその不安が伝わって子どもも泣くんだって。だからもっとゆったり構えた方がいいよ」と何度言われただろう。
 
「そうできる余裕があるぐらいだったら、こんなに困ってないわ!!」と何度思っただろう。
 
 
「子どもは泣くのが仕事だから」

「親はなくても子は育つから」
 
 
周囲から言われる言葉は独身時代に大体聞いていたし、そもそも私がそう思っていたことばかりだから、頭では分かっている。

頭では分かっているけど、そうできないから余計につらく苦しくなるのだ。

独身時代の私は、どうして産後の母親は目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまうのだろうということが、分かるようで本当には分かっていなかった。自分に子どもができて初めて、これほどまで余裕をなくし、パニックに陥りやすいものだということがよく分かった。

それほどに、生まれたての命と向き合うとは重たいことなのだとよく分かった。

だから、アドバイスではなくて、ただ「大変だね、頑張ってるね」と言ってもらいたかったし、それだけでよかった。

当時の私は、周囲からアドバイスめいたものを言われても、「そうじゃなくて」というのも面倒で、「そうだよね」と笑って頷いていた。相手が私を気遣って言ってくれているのも分かっていたし、そもそも反論する気力も体力もなかった。
 
 
 
何よりつらかったのは、子どもに泣かれることだ。

息子の場合は、2~5か月ぐらいは非常によく泣いた。

抱っこしていたのをちょっと置くとすぐに、ぎゃーん。

家で泣かれるとマンションの壁に反響して余計に泣き声が大きく感じられ、自分が追い詰められるように感じるので、外に連れ出すと静かになったりする。

でも外に行くと私が疲れる、ということを繰り返していた。

子どもの泣き声が母親の動物的本能としてつらい、ということはあると思う。

私は子どもが泣くと、自動の操り人形のように子どもに引き寄せられ、抱っこしてしまうのだった。

抱っこしないとか、放っておくという選択肢はそもそもなかった。

冷静な頭の中にはあった。

しかし、できるだけその選択はしたくなかったし、いざやろうとすると相当の勇気と覚悟が要った。

一度「子どもの泣き声ぐらいで自分のことができないなんて困る」と思い、泣く子を置いたまま(安全は確保した状態で)シャワーを浴びたことがあるが、そんな思いは一分ももたなかった。その時の罪悪感たるや、心が搔きむしられるようで、体から血の気が引くようで、「ああもうごめん、放ったままシャワーなんて浴びてごめん。もう一刻も早く出るから、抱っこするから!!!」ととにかく早く体を洗い、髪を洗い、濡れた体を拭くのもそこそこに子どものところに駆け寄って抱っこしたことがあった。
 
 
 
今思えば、私は子どもの泣き声を別の言葉に変換して聞いていたと思う。
 
 
抱っこしてよ。ほっとかないでよ。寂しいよ。僕よりそっちの方が大事なの? 僕よりも掃除? 僕よりも料理? 僕よりもスマホ? 僕を大事にしてよ。僕を大切にしてよ。僕を愛してよ。

だんだんその声は大きくなってくる。

もっと僕を大切にしてよ。ねえ、なんで抱っこできるのにしてくれないの? 僕のことなんてどうでもいいんじゃないの?僕のこと愛してないんじゃないの?

私は子どもが泣くとこう言われているような、自分が責められているような感覚になり、抱っこせずにいられなかったのだと思う。
 
 
そして「私は愛されない」という私の信念体系が、さらに別の言葉に変換していた。
 
 
子どもが泣いているのに抱っこしないなんて、母親失格なんじゃないの? 

母親なんだから、もっとしっかりしてよ。

ちゃんとしなさいよ。

きちんとしなさいよ。

もっと、頑張ってよ。

本当は、抱っこできるのにしていないだけなんでしょ?

できるのに、サボってるだけなんでしょ?

頑張れるのに、頑張るのをサボってるだけなんでしょ?

本当はもっと頑張れるんだよね?

もっと頑張ってよ。

もっともっともっと、頑張って。

もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、頑張ってよ。
 
 
 
 
子どもが3,4か月頃のある日の夕方、私は子どもがこれぐらいの時間になったら泣き出すだろうなと思って、色々泣き止ませるための準備をしていた。

人形やおもちゃや絵本、泣き止ませ動画。また多少泣かれても大丈夫、というぐらいに思おうとも思っていた(これはいつもそう思って、失敗するのだが)。

やはり息子は泣き出し、私はひたすら抱っこした。

抱っこすると心地よさそうにしているが、抱っこに疲れて少し置くと、泣く。

再び抱く。

を繰り返していたが、だんだん私も疲れてきた。

寝かせておもちゃや動画を見せたりしてあやしてみるが、少しは泣き止むものの、今にも泣きだしそうだ。

やっぱり泣き止まないな、疲れる・・・。
 
 
私はあやすのをあきらめて自分のベッドに息子を置いて寝かせ、その隣に自分も寝転んだ。

そしてはーと息をついて、天井を見る。

疲れた。

頑張るの、疲れた。
 
 
息子はじわじわと泣き始め、ふぎゃーーーと泣き始めた。

私はぼーっとした頭で、しばらくその泣き声を聞いていた。

規則的に息を吸って吐くとともに声を押し出し、吸いながらも声を出し、たまにヒックヒックとしゃくったりしながら、大きな声が押し出される。

その泣き声が、頭の中で反響するのを感じる。

「抱っこしてよ、抱っこしてよ」
 
 
泣き声が響いて耳の鼓膜がクンと、動かされるのを感じる。

「ねえ、なんで僕を置いたままにしてるの? 僕のことが大切じゃないの? 僕のこと愛してないの?」
 
 
そして頭の中の隅々にふぎゃー、ふぎゃーという泣き声が響き渡る。

「ねえ、僕のことが大切なんでしょ? だったらもっと頑張ってよ。母親なんでしょ、さっきは抱っこしてくれたじゃない。やればできるんだから、もっと頑張ってよ!! サボってるだけなんでしょ? 頑張ってよ!!!」
 
 
その時に、私の心臓の奥の方が、ぐっと押さえつけられるように締め付けられるように重たくなった。その重みは黒く渦巻いていて、心臓の奥から腕に広がり、お腹に広がり、太ももにも広がっていく。皮膚の上を虫が這うような気持ち悪さが、全身に広がる。

その瞬間に、私はいてもたってもいられなくなる。

ああ、もう嫌だ、聞いていられない。嫌だ、もう嫌だ、頼むから私を責めないでくれ、もうこれ以上頑張るのはしんどい。私は十分に頑張ったじゃない、一生懸命に頑張ったじゃない、あれだけ抱っこしたじゃない、疲れてクタクタになるまで抱っこしたじゃない!!!

湧き上がる私の思いに覆いかぶさるように、息子の泣き声が響き渡る。
 
 
ふぎゃーー、ふぎゃーー。

「よくそんなことが言えるね。本当は自分が疲れたからサボってるだけなんでしょ? もっと頑張れるのに、頑張ってないだけでしょ。ねえ、もっと頑張ってよ、僕を愛してよ。母親なんだから」
 
 
やめてくれ。

私は自分の耳の穴に指を突っ込んで耳栓をする。

遠くで息子の泣き声が聞こえる。

ふぎゃー、ふぎゃー。

「このサボり魔、もっと頑張れよ!!」
 
 
ああ、うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!

息子の泣き声はやまない。

「僕のことを愛してくれないんだ。これが僕の心の傷になったらどうするの? お母さんは僕を愛してくれなかったって。僕が助けを求めても、助けてくれなかったって。僕がその傷を一生抱えて生きていくことになったら、お母さんはどうしてくれる? どう責任を取ってくれるの?」
 
 
私は全身が総毛立ち、先ほど私の心臓を抑え込んできたどす黒いものが渦巻きながら膨れ上がって大きくなっていくのを感じる。

ダメだ、もうダメだ、これ以上聞いていられない。

やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ・・・!!!
 
 
どす黒い渦巻はさらに膨張して心臓を突き破り、首に腕に顔に胴に脚に、体中を通り抜けて膨張しながら私と一体化していく。

ふぎゃー、ふぎゃー。

「お前が苦しんで生きてきたのと同じように、僕も傷を抱えたまま、一生生きていくんだ!」
 
 
やめろおおおー!!!!

その瞬間、私自身になったどす黒い渦巻がさらに膨張して、外に向けて破裂する。
 
 
 
私はベッドから勢いよく起き上がり、寝ていた息子を乱暴に抱き上げ、抱きかかえたまま狭い部屋の中を走り回った。

部屋の中をぐるぐると何周も何周も、息子を抱えたまま全力で走り回った。

傍から見ていたら狂人の沙汰だったろう。
 
 
私は走りながら泣いていた。

もう嫌だ、お願いだから泣くな、私を責めるな、これ以上頑張れと言うな、もう頑張れない、私は無理だ、十分に頑張ったのに、これでもダメなのか、これでもダメなのか、まだまだまだまだダメなのか。

そして私は息苦しくなり、はあはあと息をついて、立ち止まる。

突然抱っこされて走り回られた息子は、しばらく腕の中でおとなしくしていたが、私が止まったのに気付くと、再び泣き始めた。

ふぎゃー、ふぎゃー。

「ほら、抱っこできたじゃないか! おまけにそんなに走れたじゃないか! まだまだまだまだ力が残ってる! それなのにお前はサボってたんだな、やっぱりお前は無能なサボり魔だ!! お前のせいで、僕は傷を抱えて一生生きるんだ! そうさせたくないなら、ほら、もっともっともっともっと、頑張れよ! 頑張れよ!!!」
 
 
その瞬間、私の頭の中で何かが切れた。

泣いている息子より、さらに大きな声で私自身が泣き始めた。

私はきっと近所に聞こえいてただろう大きな声を出して叫んだ。

「うわあああああーーーーーーーー!!!!」

そして涙をぼろぼろとこぼしながら叫び続けた。

「誰か助けて、誰か助けて、誰か助けて、お願いだから、誰か助けて、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、死んでしまうううううーーーー!!!!」

息が切れたところで叫ぶのをやめると、そこに息子の泣き声がかぶさる。

「頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 母親だろ、もっと頑張れ!!」
 
 
私はその息子の泣き声を打ち消したくて、さらに叫んだ。
「もうやめて、お願いだからやめて、もう泣かないで、お願いだから泣かないでーーー!!! うわあああああーーーーーーーー!!!!」
 
 
あんなに叫んだのは、一体いつぶりだっただろうと思うほど、腹の底から叫んでいた。

私はもうダメだ、と思った。

このままだと、私は気が狂う。

もしかしたら子どもを殺してしまうかもしれない。

一緒に死のうとしてしまうかもしれない。

いや、もう、気が狂った方が楽かもしれない。

苦し過ぎる。

つら過ぎる。

この時、私は過呼吸を起こしていた。
 
 
私は誰かに助けを求めようと思った。父と母を思った。しかしそれぞれに認知症とパーキンソン病を患う両親は、こんな状態で電話したところで心配させるだけだろう。「娘が困っているのに何もしてやれない」と、母のことだから自分を責めるに決まっているのだ。それはもっと嫌だった。父と母は駄目だ。

夫は駄目だ。既に何度も会社から呼び出していて、彼の仕事の足手まといになってしまっている。これ以上迷惑をかけてはいけない。

友人を思った。しかしその時間は夕飯時であり、帰宅時間だった。こんな忙しい時間帯に電話したらみんな自分のことがあるのに困るに決まってる。相手もこのパニック状態の私に困惑するだろうし、「何もしてあげられない」と思って困るかもしれない。それに今から来ると言ってくれた友人がいたとしても、それはそれで迷惑をかける。駄目だ。

119番か。いや来てもらっても体が動かなくて鍵を開ける余裕がない。そしたら窓を壊される可能性がある(部屋に閉じ込められている人を緊急で救出する時に窓の鍵を壊して入ったという話を取材で聞いたことがあった)。賃貸なのに壊されたら修理費用に一体いくらかかるんだ。

私はこれだけのパニック状態を起こしているというのに、ぐるぐると考えまくっていた。

そう、私は人に頼ったり甘えたりするのがものすごく下手なのだ。

そんなこと、小さい頃からしたことがなかったから、やり方が分からない。

そして当時、私がよく育児の相談に乗ってもらっていた相談支援専門職の女性に電話をした。その方はどんな時間帯でも電話を受けてくださったので、かけようと思えた。

そして電話をかけて、先方の声が聞こえてきた辺りから、私の記憶がない。
 
 
 
私は部屋でどのくらいの時間か分からないが、倒れていた。

夫が会社から帰宅して倒れている私に気付き、大丈夫かと声をかけられて、気が付いた。

なぜか子どもはゆりかごの中に寝かされていた。

記憶がないながらも、子どもに何かあってはと私がゆりかごに置いたのだろうか。私しかいないからそうとしか思えないが、記憶をなくす状況の中でよくそんな冷静なことができたものだ。

夫に起こされてからのことも、あまり覚えていない。

過呼吸のせいで頭がぼーっとして手足が冷たかったことは覚えている。

ただ、夫が帰ってきてくれた助かった、よかった、と思っていた。

そのことだけを覚えている。
 
 
 
つづく

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