「相手の何を大事にして介護するのか」―認知症患者の介護家族の声④
■死は自然なもので、介護は過程
――終末期に過剰な医療が行われているケースもありますね。本人の意思が分からないまま、90歳以上の方に気管挿管したり、チューブだらけになって延命を受けているケースも聞きます。本当にそれを本人が望んだんだろうかと思います。普段本人をちゃんと見ていないことの言い訳に医療を使っていないかと。
その人らしさからかけ離れたものが行われている場合もありますよね。でも、そういう病院は雰囲気やスタッフや、感じていくと分かると思うんです。私たちも感受性を持たないといけないと思います。今は家族が「見捨てなかった」と言いたいからそうしているということもあるのかもしれません。
――栗栖さんは在宅看取りを終えて、死についてどう感じておられていますか。
義母が亡くなった後も、この家に義母の魂があるんだと、実際にそう思いました。私は、いつ介護が終わったかが分からないです。安堵とかは何もなくて、結局頑張ったのは義母で、よく私の介護に応えてくれたなと思います。今でも「これでよかったのかな」とか「結局お母さんに教えてもらったことばかりだな」と思いますね。今でも不思議なほど義母はどこに行ったのだろうと思います。よく火葬されてお骨になって出てきた時に「こんなになって」と泣き崩れる場面がありますけど、私は「お母さんはここにいないよ。大丈夫かな」と思っていました。例えば「死んだら別世界に行く」とか言われますが、魂はまだあるけども、肉体が滅びていく、それが死だと思います。魂を生かすために肉体を借りているのであって、脳も肉体の一部。でも魂は違います。私は姑を見送って、死は美しいものと思っています。消して悪いものではない。死に様は生き様だと思っています。亡くなってその人の人生は終わっても、その人が受け継ぐものは私にも受け継がれていきます。
――栗栖さんご自身は、在宅で看取りをしていくことの気持ちの準備はどんなふうにされていったのですか?
特に準備とは考えなかったのですが、在宅医やつどい場さくらちゃんの方たちや、そういう人との出会いや場面が、なんとなくそういう気持ちにさせてくれていったのだと思います。最初はとにかく必死で義母を介護しようと思っていましたし、私の介護に応えてくれる義母に一生懸命に尽くしました。最初は答えが出ていったから誰の力も借りようとしなかったけど、それも違うと感じた時期がありました。出会って助けてもらい、義母と向き合う私の姿を見て「在宅医が必要」と思ってくれた人がいました。すると「在宅医」という声が聞こえてきて、医師の名前も知ることができた。ちゃんとシナリオがあったのだと思います。最初は「もう信じられないことが起こった」と思っていたけど、意外に介護も、ほかのことも自分の望んでいるように歩んでいた気がするんです。今から思うと全部意味があったことで、出会うべくして出会ったと。
――介護者を一人にしない、出会いや情報の場は必ず要りますね。
介護はこうあるべきとか、絶対に在宅で見るとか思うのではなく、希望はこうだという信念は持っていて、後は天に任せるというぐらいの気持ちの方がよいのではと思います。なるようにしかならないので、できる範囲でいいと思います。でも自分がどうしたいかと考え、とにかくやってみるということが大事じゃないでしょうか。
――すると周りの人が見ていてくれて、支えてくれている。
やっぱり必死になると人の意見が聴けない時もあると思います。でもそれも自分でそういう状態だと分かっておけばいいと思うんです。でもそうしていたら一人で沈んでしまうので、そうなるぐらいなら恥ずかしがらないで、へこまないでぶつかっていったらいいと思います。周りの人も「聴けてないな」と思っても、一生懸命答えてあげたらいいと思います。
――まずは向き合う、一生懸命にやってみて、向き合う、というところからですね。目をそむけない。そうしたら、医療や介護、死や生というものを考えることになる。何が本人にとって大事で、大事じゃないか。何が必要で、要らないのか。
介護は、普通なら感じない自分の醜い自分を見るつらいことになります。だから「この人は自分につらい目に遭わせて」と思ってしまいます。誰もそんな自分は見たくないですからね。そういう自分の弱さも知りました。介護の仕方もその人の生き様だと思います。死に様が生き様なら、介護という究極のものもその人の生き様かなと。介護される「本人」の本当の気持ちは分かりません。でも分かろうとすることが大事ではないでしょうか。私は義母の表情を見て、嬉しそうにしていたらそれでいいかなと思いました。正しいとか正しくないとか、オムツを替える回数ではなくて表情を見て「これでいくぞ」と思いながらやっていました。自分の愚かさや未熟さも認識した上で、分かりたい、分かろうと思う。もしも私だったらどうしてほしいかと。そう考えながら、その人の寿命を人間らしく生きてもらえるようにしていけたら、と思います。
(この記事へのコメントはこちら)