医療マネジメント学会~京都の思い出(6)

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2006年08月15日 21:12

後日談その1: 
M元医師は現在、北海道の医療機関でお仕事をなさっています。医師免許は未だ復活していません。
米国同時多発テロ直後の医道審であったことも、M医師の処分を厳しくした原因と聞いています。

後日談その2: 
救急入院後、不幸にも亡くなられた女性の遺族(ご主人とお嬢様)は、当初、憤り怒りおさまらず裁判で争う姿勢でしたが、病院での検査や治療に全く問題がなかったこと、対応した当直医と副院長、さらに看護部長と院長の長時間、再三におよぶ話し合いと説明の結果、半年以上の年月を経て納得されました。

後日談その3: 

この京都行きから戻って数日後、私は

「邪魔にしかならない」
ケトウかぶれしたテンガロン(『アメリカかぶれしたテンガローハットをかぶったような』を短くするとこうなる)は病院で何の役にも立たない」
と罵倒され、総務人事課に異動となりました。

『院長秘書』として採用されたはずが、わずか三ヶ月で院長室をクビになったのです。
「院長室出入り禁止」とまで言われて、まさに追放でした。
精一杯気張ったつもりが、自分がカルチャーショックを感じた以上に、院長が烈火のごとく怒り狂うほどのストレスを与えていたことに、そしてそれに全く気がつかなかったことに、私は猛烈な落ち込みと悔しさを感じました。

このときから、院長室に復帰するまでの1年半、病院の総務、人事採用、医事業務、そして地域医療連携室の立ち上げにかかわり、病院管理部門のさわりの仕事をいちから学ぶことになるのです。

この間やることなすこと癇に触るようで、早朝深夜にかかわらず、院長から呼び出しをうけて叱責されました。それはまるで地雷を踏むかのような剣幕でした。

あの,,,

ここでの話、自慢じゃありませんが、一発花火をあげるような事は決してできないけれど、従順な優等生ぶりっ子(のつもり)できた私は、それまで上司にだって親にだって、これほどケンモホロロな扱いをうけたことありませんでした。

それがまあ、二度目の成人式を迎えようかという年齢になって、鞭で打つがごとくサディスティックになぶられ続けました。(院長風にいうと「調教してやった」ですが・・・)
病院内の冷ややかな視線にあらがいながら、どうして辞めなかったのか?
「ちっきしょ~」って、あまのじゃくな気持ちが芽生えただけ・・でしょうか。

そんなこんなお話はまたおいおいと・・・・

『医療マネジメント学会~京都の思い出』連載は今回で終わりです。

拙文にお付き合いくださった皆様、さらにコメントやメールをくださった方、本当にありがとうございました。

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