(気を取り直して)史跡今昔

投稿者: 加藤大基 | 投稿日時: 2007年08月15日 00:50


さてさて、そんな暑い中、つい先日、東大病院そばの旧岩崎邸へ行ってきました。
(これこそ本題に入れそうな導入部の雰囲気!)。

旧岩崎邸は、私が学生時代の1990年代は司法研修所の敷地となっており、敷地内にすら立ち入りできなかったのですが、2001年頃から敷地内には入れるようになっていていました。
その後、2003年からは洋館内への立ち入りもできるようになっています。
洋館内に入れるようになってからは、まだ行ったことがなかったので、今回行ってみることにしました。

なぜ改めて岩崎邸に行ったかというと、ここのところ主要な病院近辺の史跡などについて改めて調べて、時代を超えた様々な思いをまとめて書きおろすことに取り組んでいるからです。

それとは別に、古今東西の死生観や病の歴史についても調べてまとめる作業も行っており、当然のことながら医学の勉強もしなければいけない私の部屋は、本や資料や論文が散乱しており、とんでもない状況になっています。

史跡はしばらく行かないと、以前の立ち入り禁止区域に入れるようになっていたり、逆に立ち入りできなくなっているケースもあったり、復元された建物が再建築されていたりと、間を空けて行くと改めて得るところがあったりします。

先日、東大放射線科の中川先生と、古今の死生観・切腹の歴史や武士道の変遷について話をしているとき、中川先生が熊本城へ最近行かれたときの話が出ました。
その中で、熊本城の宇土櫓に登ったとのお話をお聞きしました。

熊本城は、西南戦争の戦いの直前に失火にて、大天守・小天守が失われ、宇土櫓などを残すのみとなっています(現在、築城400年ということで、本丸御殿などを復元中)。
江戸時代の多くの建造物が失われた熊本城において、築城当時の雰囲気を残す宇土櫓は、重要文化財にも指定されており、非常に貴重なものなのです。
私が幼少期に熊本城へ行った時は、たしか宇土櫓には登れなかったと記憶していたので(記憶が若干曖昧ですが…)、登ることができた中川先生を、少し羨ましく思いました。

東大病院界隈に関して言えば、無縁坂側に鉄門が復活したりと、小さいとところでも変化があったりします。
また、学生時代に草野球の試合を行った上野公園内にあるフェンスに囲まれたとても狭い球場は、正岡子規の野球殿堂入り後、最近「正岡子規記念球場」と新たに命名されました。

因みに数年前、子規のふるさと松山に球場が新設されるとき、球場名を一般公募した結果、
「ぼっちゃんスタジアム」
と命名されることになりました
(「マドンナスタジアム」も隣接してあるそうです)。

小説「坊ちゃん」の舞台(漱石は松山と言明していませんが、おそらく松山のことと思われる)として、漱石にこき下ろされているにもかかわらず、松山出身の子規に関連する名前ではなく、松山にわずか1年しか住まなかった漱石に関連する名前をつけるところは、伊予人の人のよさの表れなのではないかと思ったりします。
伊予の国は、東予・中予 南予と、それぞれに風土が違うようですが、そのいずれも温暖な気候に育まれた鷹揚な気質があるのではとも思います。
また、隣の土佐のように、長宗我部侍と山内侍の厳しい身分制度がなかったことも伊予人の気質に影響しているのかもしれません。

因みに時に誤解されることがありますが、「ベースボール」に「野球」の訳語を当てたのは正岡子規ではなく、一高野球部の中馬庚です。
子規の幼少名・昇(のぼる → の・ボール → 野・球 → 野球)から、「野球」の号を用いていたのですが、ベースボールの訳語としては使っていなかったようです。

正岡子規記念球場がある上野の山を、維新後の明治政府は当初、大学病院建設予定地としていました。
しかし、ボードワン博士が明治政府に進言して、上野の山は公園として残ることになりました。
ボードワンがいなければ、今頃東大病院は、上野の山にあったのかもしれません。

現在の上野公園には、上野公園生みの親のボードワン博士の胸像があります。
つい最近まではひげもじゃの胸像だったのですが、実はこれは博士の弟をモデルに造られたもので、誤りであることが以前より指摘されていました。

昨年になってようやく博士本人の胸像を新たに作製し、取り替えられたとのことを新聞で知りました。
先日、上野公園に行った時に、新しい胸像を見てきました。
以前のものに比べてスマートになっており(チョビヒゲのみ)、全然別人であることが一目瞭然でした。

最近では、日本史の教科書でおなじみの神護寺の源頼朝や、足利尊氏、武田信玄の肖像画も別人との説が有力になっていたり、今までの我々のイメージは何だったのだろうかと考えさせられることも少なくありません。

病院界隈の史跡に関して、知っていることを頭の中でこねくり返していても、上記のように、以前訪れた時と状況が変わっていることもあるので、結局、暑い中自分で歩き回って調べるしかないのだと改めて悟っている次第です。
とはいえ、この暑さの中、なかなか積極的に歩き回る気がしなくて…

因みに…
岩崎邸は冷房がないので、蒸し風呂のようでした。
近代画家では、個人的に図抜けて好きな横山大観の邸宅は、日本家屋でしたがクーラー効きまくりでした。
(旅行好きと自称しつつ、大観ゆかりの茨城の五浦にも島根の足立美術館にも行ったことがありません。これからのお楽しみ(?)です)。

暑い中の史跡巡りは結構つらく、以前、岡山県の備中松山城という標高430mの山城に梅雨明けの蒸し蒸しの暑さの中、一人で山道を登ったとき、あまりの暑さにバテバテになって、年をとってからはこんなところには絶対に来られないだろうなと感じました。
江戸時代から残存している天守は全国に12基あり、備中松山城はその中の1つなので、何としてでも登りたかったので、そのときは根性で登りました。

話が脱線しまくって、何の話やらさっぱり分からなくなってしまいました。

史跡も間をあけて行くと、いろいろと状況が変わっていることがあり、新たな発見がありますが、暑い中の史跡めぐりはあまりお勧めできないのかもしれませんね、
もう少し涼しくなってからのほうがいいかもしれませんね、
ということが、言いたかったのでした(苦笑)。

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コメント

加藤先生はじめまして。
実は以前、江川文庫の調査でご一緒したことがあるので、正確には「はじめまして」ではないのですが、私は美術工芸班だったので、ほんの少ししかお話しできませんでしたから、もう覚えていらっしゃらないと思います。
御著書のことは、朝日新聞の夕刊で知りました。それはもうビックリしまして、湯之上先生にもすぐに連絡致しました。早速購入して拝読しましたが、最近父に肺ガンの疑いがかかり、再度熟読したところです。
まだ疑いというだけですが、いざとなると、頭が真っ白になりました。しかし、予め先生の本を読んでいたことによって、不必要に動揺することなく、心の準備が出来たと思います。本当にありがとうございました。
史跡巡りも再開されているご様子に安堵いたしております。病の歴史などについてもまとめておられるということで、そちらもとても楽しみです。どうぞお体にはお気をつけて、充実した研究をおすすめ下さい。
(何らかの形でお礼を申し上げたく、取り急ぎ、ブログに書き込んでみました。)

永田様

コメントいただき、ありがとうございます。
最近、ブログのチェックを怠っていたため、コメント頂いていたことに本日気付きました。

江川文庫の調査で、日本美術に関する興味深いお話を聞かせてもらったことは、よく覚えております。
あの時は、村田さんと3人でお話をしたんでしたっけ。

最近の江川文庫での調査は、美術系が縮小されてしまったので、その後は美術系の方にお会いする機会がなくなってしまいました。

昨年でしたか、承天閣美術館で伊藤若冲展があったときには、村田さんに久々に会えるかと考え、行きたいと思っていました。しかし日程的に都合がつかず、結局行くことが出来なくて、村田さんにもお会いできずとても残念でした。
また、永田さんのご連絡先もお聞きしていなかったので、その後ご無沙汰することになってしまいました。

拙著をお読みくださったとのこと、ありがとうございます。
お父様に肺癌の疑いがあるとのこと、とても心配されていることと思いますが、精査の結果がよいことを祈っております。

江川文庫の調査は、その後も何回か同行せてもらったのですが、最近は文書も明治以降の近代の調査になっているようで、足が遠のいています。
また、何かの機会に、お会いしてお話ができればと思います。

加藤先生

ご返信ありがとうございました。
私も書き込んでから、ブログのチェックをせずにいたものですから、本日ご返事頂いていることに気が付きました。
覚えて頂いていたとはビックリです。村田くんは元気です。若冲展も素晴らしかったですよ。
現在は先生がお好きな、横山大観の展覧会も開催中ですね。またそんなことなども、機会があればお話ししたいです。(メールアドレスを付しておきます。)
寒い日が続きますが、お体にお気をつけて。

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