一病~リウマチ~息災徒然ノート22

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年09月08日 20:59

三度目の入院

子供が歩けるようになると、
自分より重い荷物を子供に背負わせました。

(見ていた人は、『虐待してる!』
と、思ったかもしれません)

子供が熱を出しても、
自分に移るのが怖いと
真剣に思っていました。

それ程、
子供のことよりも、
自分の体調に気を配っていたつもりなのに、

2000年2月に
ウイルス性髄膜炎
入院してしまいました。

インフルエンザだと思っていたら

抵抗力のない身体を、
ウイルスは容赦なく
狙い撃ちます。

無様な姿で外来に駆け込んだ私を見て、

「(そんなになるまでに、)
緊急外来に来ていたのに、
なぜ、
そのひとつも報告がなかったのか!!」

と、いつも温厚な住田先生が、
リウマチ・アレルギーグループの先生方に
雷のような罵声を飛ばすのを、
ただただ、
別人のようだと、
驚いて眺めました。

(住田先生は
私の容態云々よりは、
報告しない部下に
我慢できない様子でした)

ベッドの手配をしてくださったのは、
住田先生ですが、

(あぁ、怖い、、、
頭が割れそう、、、)

それしか考えられませんでした。

三度目の入院は、
病状の辛さ以上に、
今後のリウマチと歩む人生について
考える機会になりました。

仕事を続けることは、
リウマチを悪化させる原因にはならない、
自分を支える最も大事なこと、
気をつけながら無理をしなければ
こなせるはず、

そう、思い込んできたことは
過信だった、、、

証明するかのように、

三度目の入院中も、

リウマチ薬の服用を
全部止めても痛くならない、

つまり、

安静にしていれば薬を飲まなくても
リウマチは痛まない、

これはショックでした。

仕事、家事、育児で切り切り舞いの生活が、
リウマチに良くない
と認めざるを得ませんでした。

私が一ヶ月入院しても、
子供は寂しがることもなく
平然としていました。

病室に来たがることもありませんでした。

全てが当然の結末のように思えました。


それでも復帰後は、

研究所10周年記念式典行事の
企画準備に忙しい毎日でした。

10年経過し
開所当時のメンバーは、
施設課の男性と私だけでした。

ところが、
その日、2001年9月28日を目前にして、
9月11日に
米国同時多発テロ
が勃発しました。

人事採用や教育業務は凍結し、
何より米国在住社員の安否確認が
最優先業務になり、
出張は全てキャンセル、

未だかつて無い冗費の徹底節減、
大幅な予算削減、
米国本社のリストラ、
吸収&合併による連日のOrganization Change(組織変更)、
株価の低迷、

所長も3代目になり、
基礎研究に投資する方向とは逆転し、
名称も「筑波テクノロジーセンター」となり
開発部門だけになりました。

研究者は技術者として残る者以外は
大学や他企業研究所、
ベンチャー企業などに
転出していきました。

出社しても、
人気もなく電気も消え、
だだっ広く暗いパーティションの中で、
退社まで
時間が過ぎ去るのを待つ生活に
耐え難くなりました。


私は
求人情報に目を通すのが
日課になりました。

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