一病~リウマチ~息災徒然ノート27

投稿者: 真木魔愛 | 投稿日時: 2007年09月16日 20:49

生物学的製剤の登場1

治験薬FK506がどんなに良い薬でも、
CRP(炎症反応)は、
1.5~2.0の値から
下がることはありませんでした。

FK506以外に、
ロキソニン1日3錠、
プレドニン1日5㎎

も手放せない状況で
仕事をしていました。


2005年春、
治験修了に伴って、

後藤先生が
承認されたばかりの

生物学的製剤

導入を勧めてくださいました。

「真木さんが、
80歳なら今のままの治療でいいと思います。

でも、残り半分の人生、
自分の関節で、
できるだけ長く
不自由がこないようにするためにも、
新しい治療を始めたほうがいい、

今のままでは、
まだ燃えている関節があるわけだから、
必ず近い将来不具合が生じる、

早いうちに火を消しきることが一番だと思います」

この後藤先生の言葉に、

私は迷いなく、

「仕事を離れて、新しい治療に専念したい」

と自分から申し出ました。

後藤先生は、
一瞬意外な表情を浮かべた後、

静かに、

「そうですか、、、
それは何よりです。
そのほうがいい。


もう

もう、
十分にがんばったと僕は思いますよ」


ちょっとだけ安堵が滲む言葉に、
私は不覚にも目頭が熱くなりました。

今まで一度も、
後藤先生は私に

仕事を辞めたほうがいい、
治療に専念したほうがいい、

と言われたことはありませんでした。

どんなときも
私の希望と痛みをとることを、
最優先に考えてくださいました。

それは
住田先生も村田先生も同じでした。

私は、
たとえ新しい治療の効果がなくても、
後悔しないと思いました。

でも、
せっかく新しいお薬を試すなら、
その効果が上がるような環境を整えたいと、
心から願っていました。

この頃、
転職してから
ゆっくり話をする時間がなかった
エリさんと
久しぶりに再会しました。

エリさんは、
職場の健康診断の結果、
精密検査を受けに
私の勤務する病院に
来院したのです。


9年前に私が妊娠したとき、
最初にエリさんに告げた日のことを
思い出していました。

その頃エリさんは、
パートナーとの結婚や子供を切望していたのですが、

それが非常に困難な状況にあり、

深い困惑の中で、何日も悩んだ後、


「私は真木さんに素直に
“おめでとう”と、
どうしても言えない。

でもよくよく考えて、
真木さんが幸せになるのだから、
それは私もとても嬉しい。

またご一緒にお仕事できるのを、
待ってますから、
元気な赤ちゃんを産んで、
きっとまた戻ってきてください」


この言葉通りに
エリさんが支え続けてくれたから、
産後、職場復帰できたのです。


「(病院を)辞めるかもしれない、、、

もう、(仕事を続けることが)限界みたい、、、」


「そうですか、、、
よほどのことなのだと思う。
お仕事をしている真木さんは
誰よりも生き生きとしていて好きだった、

だからとても残念です。

でも真木さんが
ご自分で決めたことだから、


それが一番なのですね、、、」


健康優良で病知らずだったエリさんが
初めて二次検査を受ける日に、

元気の出るニュースを伝えられない事、
エリさんの気持ちに報えない
不甲斐無さを痛感しました。

そして夫は、

一言だけ

世間の人は、それでも辞めない

と言いました。


つまり、

『経済的自立を主張し、
そのための犠牲も強いてきたのに、
お前は甘いのだ、、、』

言いたかったのだと思います。

食わせていかねばならぬ人は、
たとえ治療が必要でも
踏ん張らざるを得ないと、、、


仕事に関して意見したことがない、
けれども
公私ともの状況を百も承知で
吐いた
夫の最初で最後のコメントでした。


頑迷で面倒くさい、
その上、暴走気味の私を相手に
協働生活が破綻しなかったは、

堅実で冷静なバランスが
夫によって保たれ、
それに
私が一方的に甘んじて、
その綱の上を渡ってきたからです。


思い上がりかもしれませんが、
彼のある種の期待に近い気持ちを裏切った決断に、
一抹の失望を感じさせたことに
忸怩たる思いでした。

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