福島県立大野病院事件第12回公判(速報)

投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2008年01月25日 16:01

本日、私は別の取材があって福島へ参れませんでした。
周産期医療の崩壊をくいとめる会のM先生より
速報がありましたので、掲載いたします。
遺族の方の意見陳述があったようです。
早口だったのでメモに抜けが多いかもしれない、とのことです。

旦那さん
「被害者の夫です。このたびは、私のために貴重なお時間をさいていただいてありがとうございます。私の立場で心境について述べるのはありがたいことです。

妻の出産について、天国から地獄、そのとおりのことがあてはまる状況でした。

以前帝王切開で前置胎盤であるということで、早めの入院を勧められて入院しました。帝王切開について先生より説明があり、出血が多いと子宮をとること、輸血は1000ccと充分準備すること、何かあれば厚生病院の先生を呼ぶと万全の体制でのぞみますと説明を受け、私どもは、そこまでしていただけるの
か、なんて力強い、と思い、全てを先生に託しました。

手術の当日は安心して、子供の誕生を待ち、生まれたことがわかると、家族全員喜びました。しかし、いつまでたっても、妻が戻ってきません。病院の人にたずねてもあいまいな答えしか返ってきませんでした。

しばらくして、先生から説明があるとのことで、部屋に入ると、いきなり、申し訳ありません、亡くなりました、ただ今蘇生しています、と話されました。手術経過の説明をされましたが、とても納得できる内容ではありませんでした。

私は今、父親として、責任をもって二人の子を育てています。親として当然であります。今回、私がお話したいのは、責任についてです。手術を受ける患者は、手術中、自分の力ではどうしようもありません。信頼する先生に命を預けるのです。当然、先生には責任があると思います。加藤先生には、いいわけや責任転嫁をせず、何が欠けていたのか、正面から向き合ってほしいです。

加藤先生の手術の内容は、弁護側の先生からは誰でもする、特に問題がなかった、と言われました。何も問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。

人はそれぞれ異なります。それを、医学的に同一と言われ扱っても良いものでしょうか。

病院は、必要な安全のためのものが整っているところです。医師の機転や処置のとりかた、手術に間違いがなければ、なぜ妻は死んでしまったのでしょうか。

関係者は、来る日も来る日もつらい悲しい思いです。あの日以来、平安がなくなりました。こんな苦しさを一生になっていくのかと思うと真っ暗になります。

私もそうですが、誰でも自分がかわいい。しかし、自分のとった行動、言動には責任をもつことが、大人として当然だと思います。いいわけをせず、大人として責任をとっていただきたいです。子供と妻のために、責任を追及し、責任をとってもらいます。私も父親の責任として、子供を育てていきます。

私は社会生活は、あらゆる分野があつまって成り立っていると思います。医療は、これまで一般の人、素人が立ち入ることができない聖域だと考えられていました。今回、司法に介入され、閉鎖的であった医療が、国民の関心をよび、社会的にひらかれたと思っています。

真実はひとつだと思います。この裁判が、医療の実態の探究につながります。そして、妻の死の原因の解明につながり、私のような家族を再び生まないことにつながると思います。全国の女性の安心しておこなえる出産につながります。未熟なものなので、誤解があるかもしれない部分はお許しください」


お父さん
「今回の事件の被害者の父として心境を述べます。

娘から、今回の手術について、リスクが高いとは聞いていませんでした。2004年12月17日、当日仕事を終えてから病院に向かいました。娘に何と言おうかと思いながら、運転しました。18時前に病院につきました。病室について家内に娘の様子を尋ねると、まだ、と言いました。

私はナースステーションに行って尋ねましたが、ちょっとお待ち下さいという返答でした。私は連絡がすぐくると思っていました。私がステーションに行くと、ナースは足早に奥の方に入っていき、私が少し離れたところで振り返ると、ナース達は私の目線をさける。ナースステーションで、ナースが逃げ隠れするのを目の当たりにして、異様な雰囲気でしたが、そういう時間が30分続きました。私は娘がまさに命を落とす状況になっているとは知りませんでした。

ナースが私たちに、執刀医の説明があると、18時45分に案内されました。先生からは、突然、なくなりました、と、淡々と説明されました。直後からナースステーションは悲鳴の中にありました。21時前に、再度説明がありました。私は先生が淡々と話す姿に疑問がありました。

娘が私たちが来るのを待っていたかのような記録、くやしさの痕跡が残っていて、親として、これは何かがおかしいと感じ、事故の真相を解明したいと感じ、その場で、娘に最善をつくしたのか、ときき、カルテのコピーももらいました。

病院の裏玄関で、娘のなきがらを引き取る際、先生から病理解剖をしますか、ときかれて、しない、と即答しました。先生は、子宮はあずかっていると言われました。 この悔しさを記憶しながら、病院を出ました。

加藤先生の説明では、超音波検査で一週間に一回、みさせていただき、胎盤は子宮の後ろ側にあり、胎盤が子宮につきすぎ、剥がすと出血した。それほどひどい癒着ではないと思ったが、ひどい癒着だった。剥離も、はさみで切らないといけないほどの癒着だった。出血がとても多かった。剥離にかかった時間は15分で、15分の間に、5000mlも血を失ってしまって、血圧がさがってしまった。60、50と血圧が下がり、ショックをかえられなかった。子宮をおさえこんで、待機となった。いざすすめると、前置胎盤、癒着胎盤、予想もしない出血にみまわれた。その状態が長く続いた。2004年12月26日の病院の説明でした。

加藤先生の法廷での説明は、当時私のきいた説明をかなりちがうので、何故変わったのか不思議な気持ちです。

翌日から病院に相談しようか、警察はとりあげないだろう、自問自答し、家族の苦悩はつづきました。娘の死以来、眠れない日が肉親に続きました。家内は、先生を信じていたのにと落胆して口をとじてしまっています。

娘がなくなってから半年過ぎると、早くも示談の話が病院からきました。私は何故事故がおきたのか、納得できず、研究報告書等を入手していたことから、示談は時期尚早と考えて、質問を病院に送ったところ、中断したままです。

何一つ、真実がひきだせず、苦悩がつづいていました。ただ時間が経過していました。

病院関係者から、娘の死にあたっては、他の病院、十分設備も整った他の病院であれば良かった、安全対策をしなかったという内容がわかりました。肉親にとっては、大学病院の調査報告と報道と同じ内容でした。大野病院でなければ、娘を亡くさずにすんだと、強く感じました。これで何故事故が起きたのか、真相を究明できると感謝しました。

1年がすぎ、加藤医師が逮捕されました。癒着胎盤が極めて稀で、1万分の1、とか、2万分 の1とか、難易度が高いとか、大出血は稀だとか、亡くなったのは娘のせいだとか、言われました。これらは、娘に対する人権侵害、誹謗であり、遺族は逆境の中にいます。医学の真実を集めていない書き込みや、誤解のないようにしてくださることをお願いします。

事前に、術前に、病院内外に色々意見があったのに、私たちにインフォームドコンセントや、セカンドオピニオンがなかったのは、何故なの、と、先生にしつこく訊いたであろう、娘の言葉の代弁です。長男はクリスマスに、お母さん、起きて、と泣きました。やさしいお母さんを返して、というのが、長男の言葉、今回生まれた孫の代弁です。

肉親は、術前診断から癒着胎盤の疑いがあったにもかかわらず、関係者からのアドバイスを無視し、暴走し、手術中の数々の警鐘にかかわらず、命を奪った、加藤先生の行為が許せません。経験のない先生とわかっていたら、娘を預けませんでした。

事故がなぜおきたのかの原因、病院の安全を強化して、二度と娘におこったような悲劇がおこらないように、してほしいです。

医師不足と今回の事件とは、別の問題です。患者に安心安全を与える医療のために、邁進していただきたいと思います。これで肉親の心境を終わります」


お弟さん
「今回の被害者の弟として、心境を述べます。

女の子だったら、一緒にお料理したりかわいい服をいっぱい着せたい、と生前言っていた姉の夢を思い出します。姉は明るく元気で社交的でした。近くでイベントがあれば、家族を誘い、楽しく過ごしました。姉が亡くなり、3年たった今も、元気だった姉がどこかで生きている気がして現実をうけとめられません。

2004年12月17日の、赤ちゃん誕生の喜びを祝いあうはずだったのに、一瞬にして、悪夢のはじまりとなりました。

手術当日、生まれた赤ちゃんに、姉の夢がかなったね、と胸がいっぱいになりました。保育器の赤ちゃんをみながら、長い時間、姉を待っていました。しかし、待てども待てども出てくる気配がありません。看護師から、病室で待つように指示され、待機していました。看護師の行動が、家族との接点を拒んでいるようで、あきらかにおかしい状態でした。父が来て、看護師らに問いかけした様子でした。その後しばらくして、ナースステーションの奥に移動して、重い空気が流れました。

時間がたって、父が戻って、親戚を前につぶやきました。ダメだった、娘がダメだった、亡くなった。親戚は、泣き叫ぶ声、悲鳴、怒鳴り声、地獄と化しました。

2004年12月17日、長時間、手術で最善をつくしていたのか、もしつくしていてくれたなら、待機していた家族に、一報をいれる配慮があったはずです。病院に緊急の体制があれば、納得のいく対応があったはずです。

医師から、亡くなりました、と言われ、納得がいくわけもなく、本当に最善をつくしたのか、不信感を持つのは当然です。姉が息をひきとる前、わずかな間、赤ちゃんと対面し、ちっちゃい手だね、と言ったことを聞いて、喜ぶ姉の顔が浮かびました。それなのにどうしてこうなったのか。私も、一生懸命に生きた姉が、無念な思いでこの世を去った姉が、不憫で悔しくて、許せません。

事実をうけとめながら、明るく元気な姉、お母さんである姉に会いたいと思っています。

2004年12月17日から、肉親家族の中で、くやしさにくれる日々の中、残された二人の孫をひきとり、両親は二人の子を不幸にしたくない思いで育ててきました。病気に勝てず二人の子は入院もしましたが、高齢をおして徹夜で看病した両親によって、大きく成長した子供に、真実をつたえるため、姉の分も両親に
は長生きして欲しいと思います。

病院から、姉がなぜ死ななければならなかったのか、説明がなく、真実が解明できず、苦悩していた両親に、光をさしのべてくれた、警察、検察に、感謝しています。

姉は1ヶ月前から病院に長期入院していたのにもかかわらず、このような事故がおきて残念です。何故おきたのか検討し、再び事故のおきない体制にするため、監視を強化し、二度と事故がおきないことを祈っています。これを天国の姉の代弁とします」
(M先生より微修正が届きましたので反映しました-1月26日午前2時)

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コメント

ご家族の無念の思いは分かるのですが・・・
夫「特に問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。
人はそれぞれ異なります。それを、医学的に同一と言われ扱っても良いものでしょうか。分娩室に入るときには、病院は、必要な安全のためのものが整っているところです。医師の機転や処置のとりかた、手術に間違いがなければ、なんで妻は死んでしまったのでしょうか。」の証言が非常に矛盾している事にお気づきなのでしょうか。人はそれぞれ同一ではないからこそ、間違いのない手術をやっても死亡に至ることがあるのですが。
 父上の発言でも医師の書き込みが誹謗中傷だとおっしゃいますが、後壁の癒着胎盤が非常にまれなのも母体死亡が起きる可能性があるのも事実なので、これを「医学的真実ではない」といわれる根拠が理解できませんね。
名古屋の産科でも母体死亡で刑事事件になり、医師が無罪を獲得したときの遺族の言葉が「過失がないならなんで亡くなる」でしたが、過失が亡くても人は死ぬことがあるのだと言うことを、このご遺族も分かっていらっしゃらないように思います。

 発言から、極めて強い被害感情のあることがわかります。

 おそらく、どのような判決が出ても、この被害感情から遺族の皆さんが自力で抜け出すことは困難でしょう。

もはやご遺族には同情する気持ちにもなれません。読んでいて非常に不愉快になりました。

患者さんは非常に気の毒なわけだが

結局判決で病死であることが明らかになった場合
(日本の臨床医の殆どは病死と判断していると思うが)
この遺族はここまで加藤医師を責め続けて
どう接するつもりなんだろうか?
加藤医師に医療ミスなどなく
故人の救命に必死に尽力した医師を
それでも憎み続けるのだろうか?

おれは精神科医ではないが
遺族の精神状態も心配だ
家族の死を受け入れられないが故に
正常な判断ができなくなっていると思う

いつか遺族が加藤医師に謝罪する日が来るのだろうか・・・

ご遺族の考え・気持ちがよくわかりました。私も医師として、この裁判に注目していましたが、ご遺族の意見についても聞きたいと思っておりました。公平な掲載に感謝いたします。

私は加藤先生に刑事責任はないと考えておりますが、ご遺族のこの強い被害感情を、どうすれば少しでも和らげることができたのか・・ここを真摯に反省したいと思います。

記事を読ませていただきました。
ご遺族のご心痛には、深く同情いたします。

ただ、やるせないのは、
「臨床医学では、処置が十分であっても、重大な結果に到ることが多々ある」
という厳然たる事実を、ご遺族が理解(というか納得)していないことを確認できたことでした。

やり場のない怒りを抱かれるのは十分にわかります。
しかし、その矛先がK医師に向かうべきではないと思います。

産科の先生方に、この情動の暴風から逃散するなと言うのは無理です。生死を扱う臨床科の医師にも、同じことが言えます。

このままでは医療の崩壊は進む一方です(私の周囲でも昨年より顕著です)。この不幸の連鎖を断ち切るには、今の厚労省の施策はあまりに???です。

 大昔に大学の教養課程で読んだ心理学の教科書に書かれていたところによると、ひとたび対立的人間関係が形成されてしまうと、敵対側から提供される情報が素直に受容されることはありません。

 遺族の証言からは非常に教科書的な状況が容易に納得できます。

 客観的科学的な情報が提供されても、専門家による意図的な不正が疑われ、権威者の発言に対しては庇い合いが強く疑われます。

 対して、自分に味方する側からの情報提供に対しては、よくその内容を吟味することが行われません。

…2000年前、ローマのカエサルは「人は自分の聞きたいことしか聞こうとしない」と看破しましたが、訴訟という対立関係は、客観性と納得の機会を奪い取ります。

 また、複数の遺族の証言内容で、事実関係はもちろん、感情についての内容に差違がほとんど認められません。これは異なる年齢層、立場、社会的経験を持つ人間達の認知モデルが酷似しているという意味で異常ですが、MBAコースの学生が読まされる集団心理学の教科書に書かれている同調化現象に他ならないと考えます。しかも表層的なレベルに留まらず、信念の域に達しています。

 こちらも、非常に教科書的です。

 発言に期待していたのは、遺族を訴訟による解決というスキームに閉じこめたのがどのようなファクターであったのかわかるのではないか、ということでしたが、残念ながら難しいようです。

 これだけ強い被害感情が幾許かは緩和されて、ことの経緯が心理学的分析の対象となり、事実関係が明確になるのは何十年先になるのか分かりません。

 これらの不幸なスキームの形成過程に寄与する要素については、早急且つ徹底的にこの社会の中から排除する必要があると考えていますが、残念ながら他のケースから類推していく作業が必要になるように思います。

何とも言えない嫌な気持ちになります。この家族は一生涯社会を恨んで生きていくのかと思うと暗澹たる気持ちです。家族を失っただけでなく、みじめで辛い人生を送らなければならないのがお気の毒です。

こうした凝り固まった発想になってしまう例は多いようです。言葉は悪いですが、民事によく関わっている「訴訟屋」のような団体が入ってくると、患者サイドはたいていこういう発想になります。まったくステレオタイプの反応です。

医療の限界を受容し現実と和解することが、遺族のためになるのですが、「訴訟屋」たちにはそういう視点はありません。結局遺族の心を癒す力はないのです。

今回の裁判では、公権力が「訴訟屋」の役割を買って出ました。これはたいへん重大な問題です。検察の暴走、刑事事件のねつ造をこれ以上許さない、公正な判決が出ることを願ってやみません。

憎しみは何かを解決するでしょうか。ひとを憎むことは、同じ大きさの憎しみを相手に作り出してしまうのではないでしょうか。

最近の若い医師たちが、ときに患者に対して強い憎しみの感情を表すのに途惑うことがあります。未受診妊婦を「野良妊婦」と呼ぶようなあれです。われわれの社会が医者を激しく憎み、われわれ医者はそれと同じ大きさの憎しみを社会に対して抱いている。おそろしい関係のように思えます。

ここ10年ほどの間に医師になった若手は、何か病的な印象を受けるほど、医師であることの疎外感を感じています。従来の医師・患者関係が崩壊して、それに代わる関係モデルがないなかで起こっている一時的な現象なのでしょうか。

生死の現場にとどまらず、すべての医療現場で、医師と患者との対話と和解が成立してくれないと、この国の将来の医療に展望はひらけないでしょう。

あちこちの病院で当直をしてきましたが,緊急事態になると病室から家族を追い出し,密室で治療を行い,生死いずれかの結果が確定したところで初めて説明をする,という習慣になっているところが多かったように思います.
これが紛争の原因,すなわち,家族が経過に納得がいかない原因を作っているのです.

緊急事態になった時点でADRが始まります.
生から死へと刻々と変化していく状況を見ていなければちょっと前まで元気だった人が死体となれば殺されたと短絡的に考えるのは普通の感覚だと思います.

いずれにせよ,ご家族の主張からは,民事事件として説明義務が果たされたかどうかなどを争点として裁判が起こされる可能性はあっても(だからこそ,示談の話が持ちかけられたのだと思います)神の領域である人の運命や死がなぜ『刑事事件』として争われるのか理解に苦しみます.

長寿大国ボケ日本では,いつから人は殺されない限り死なないことになってしまったのでしょうか.

医学的な判断は専門医の先生方にお任せします。

この家族と似たような状況でお亡くなりになる患者さんもいらっしゃいます。
しかしこの家族は刑事告発し、他の家族は刑事告発も民事訴訟にも訴えない。
違いはなにか・・考え方の違いです。価値観の違い、人生観の違いとも言い換えることもできます。

自分の身に起きたでき事を避けられない運命として受け止めていけるかどうか、に尽きます。
命が失われたことを忘れることはできないが、それも運命だと思い、前をむいて歩いていけるかどうか、です。
受けとめられない人は、他人がどんなに(医学的に)正しい意見を述べても、受け入れることはできません。
そして、人をうらみ続けて一生を送ることになります。
この患者さんの夫、父親、弟、みなさん惨めな人生ですね。
彼らの主張からは医学的な進歩も安全性の確保も、なにも生まれません。
単に恨みでしかないからです。

わたしも親を手遅れで無くしていますが、それも運命と受け止めています。
だから他人を責め続けることなくことなく、生活しています。

おそらく、地裁での裁判で医師が無罪になり最高裁まで行っても無罪になったとき、この家族はどう対処するのでしょうか?
魂の救済の不可能な方たちです。

国や制度のような抽象的なものではなく、手の届く具体的な個人を恨み続けることによって、心の平穏を得ようとすることは、心理学的な事象として、よくあることです。しかし、事件から4年もたっているのに、父、夫、弟ともに同じ心理次元になっています。軽率で、強権の検察よりも、患者の家族にはもはや悪意こそ感じても、同情を感じることができません。『ミスがないのなら、なぜ娘が死んだのだ?』と、事件当日から思考が止まったようなコメントを子や孫や隣人に言い続けることができるのでしょうか。家族が死亡したなら何を言ってもいいはずがありません。奈良の事件にしても、名古屋の事件にしても、踏み込みにくいこの課題についての徹底的な言及が、こういう訴訟に関しての双方の解決に不可欠に思えてならないのです。

医者・医療従事者と患者・家族の歩む寄りは裁判化(民事=ほとんどの先進国、刑事事件化=日本独特)を避けて調停で和解するために必要だと言われていますね。
最近では、法律家が間に入いるADRの導入も言われています。

この裁判は、どちらも一歩も引かずに最高裁まで進む泥沼化が充分に予想されます。
ADRの制度があれば、それは避けられたでしょうね。

法律的なことは一先ず置いといて、アメリカの主だった病院には医療従事者の専門資格を持たない一般人がボランティアとして、あるいは病院職員として、医者と患者・家族の間に立って、和解を勧めるそうです。コーディネーターの一種です。
この際、医者は医学的な見地を述べずに患者・家族の話を黙って聞くようにコーディネーターから指導されます。
どんなに患者家族側が感情的になっても、医学的な見地を述べずに話を聞く。
最期に、「患者の家族を救えず申し訳ありませんでした」と一言述べる。
それだけで、裁判化が避けられるそうです。
そして、患者家族も避けられなかった運命として、状況を受け止める心の準備ができるそうですよ。

患者家族の声明を読んで気がついたのですが、刑事告発するまでに半年以上の経過があります。
この間、医者側・病院側がどういう対応だったのかわかりません。
はじめは家族を失ったショックで動転している家族も、医者側から丁寧な説明を受けると態度が変った可能性も否定できません。
お亡くなりになって1カ月くらいたってから、1回だけでなく何度も家族に説明をしていれば、最初は頑なだった家族も、気持ちを和らげて刑事事件化は避けられたかもしれません。
あくまで、推測に過ぎませんが。

もしかしたら、裁判に至る前にK先生側と患者家族サイドの間の話し合いの機会がほとんどなかったか、あっても1回くらいだったのかもしれません。

ご家族を失った方の落胆は十分理解できますが、どうしても命を奪ったk先生というくだりが許せません。 一医師先生から患者に強い憎しみを持つ医師とのコメントがありましたが、このように人殺し呼ばわりされることが日常なら、憎しみしか抱けません。
K先生には是非無罪を勝ち取り名誉毀損訴訟を起こしていただき、一般の人の目を覚まして欲しいと願っています。 

>皆様
コメントありがとうございます。
周産期医療の崩壊をくいとめる会に
傍聴録詳細がアップされました。
http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=FrontPage

 病院勤務内科医様、前回の公判でK医師自身の証言から、家族が墓前に土下座を強要したと述べられています。(天漢日常というブログでも取り上げられていますし、周産期医療の崩壊を食い止める会の前回公判記事でも確認できると思います)
 また、民事については家族の方から交渉を蹴って中断と聞いた覚えもあります。なので、繰り返し会談の場はもうけられたが、そこで何かあって余計こじれた可能性もあります。

・お産というものはそもそも命がけの行為であること。

・お産だけではなく、医療行為には限界があること。

この2点を受け入れ時に患者さんに徹底すべきだと思います。
また、お産に伴うリスクを具体的数字で(確率何%とか)事前に説明し、納得してもらうことも必要だと思います。

ため息がでます。
真っ当な対応をした医師がここまで恨まれなければならないのでしょうか。
我々は一体どうすればよいのでしょうか。

「当然、先生には責任があると思います。加藤先生には、いいわけや責任転嫁をせず、何が欠けていたのか、正面から向き合ってほしいです。」
「加藤先生の手術の内容は、弁護側の先生からは誰でもする、特に問題がなかった、と言われました。何も問題がなければ、なぜ、妻は死んでしまったのか、とても疑問です。」
「人はそれぞれ異なります。それを、医学的に同一と言われ扱っても良いものでしょうか。」
「病院は、必要な安全のためのものが整っているところです。医師の機転や処置のとりかた、手術に間違いがなければ、なぜ妻は死んでしまったのでしょうか。」

周りに客観的な意見を述べてくれる人はいなかったのでしょうか。
いいわけや責任転嫁をしているわけではないし、手術に問題がなくても結果がよくないことはあります。人がそれぞれ異なっているから大変なわけですし、病院にいれば絶対に助かるというのは幻想でしかない。
一体医療に何を求めているのでしょうか。

「経験のない先生とわかっていたら、娘を預けませんでした。」
癒着胎盤を経験している医師ならば助けられたのでしょうか。

事件から2年近く経ってこのような感情しか持てないのであれば、これ以上医療サイドと分かり合うのは難しいのかもしれません。

僕の伯母も僕のいとこを出産したときに大量出血で亡くなりました。30年以上前のことです。輸血のために近くの大学生を何人も集めた話などを両親から聞かされました。
手を尽くしても助からないことはあるわけで、その事実は30年前も今も変わらないでしょう。

帝王切開ができない時代だったらどうでしょうか。前置胎盤の母親は全例亡くなっていたのではないでしょうか・・・。

 家族の認識は、患者さんは病気で死んだのではなく、医者に殺されたのだという点で一致しています。

 どのようにしてこの認知フレームが形成されたのかが、極めて重要な問題であると考えます。

山口(産婦人科医)先生。
その記事、わたしも読みました。

家族の頭に血が上ったまま、一度も冷静になることもなく月日が流れているのでしょうね。
彼らは単に個人的な恨みで裁判を起こしていますから、少し上に書き込んだように裁判から医学的な教訓が得られることはありません。
もし教訓があるとすれば、福島県で中等度以上のリスクのある産科患者はすべて福島県立医大病院あるいは隣接する東北大病院へ送るべき、ということです。
患者と家族に有無を言わせずに。
あるいは福島県からすべての産科医を撤退させるかです。

わたしは、この家族は特殊な境遇で育った人たちなのではないかと思います。
口に出しては言えませんが、ひがみ、うらみ、そねみで凝り固まったグループが日本国民にいますよね(想像がつくかと思います)。
差別意識が強くて、一般の市民では考えられない過剰な反応をするグループです。
わたしが今まで勤務してきた病院でも、社会経済学的に同じグループに所属する人たちがトラブルを起こしています。

悪いのはすべて人のせいにして、自分は絶対に間違っていない言う信条の人たちです。

この裁判で、医師側が無罪になり、おそらく最高裁まで行くでしょうが、そこでも無罪になったら、この家族はどう対処するのでしょうか。
そのときは、医者ではなくて、自分たちを差別した日本の社会が悪いと、八つ当たりすると思います。

要するに、この家族は誰がどういっても救いようの無い家族なのです。
法律でも、カウンセリングでも救えないと思います。
彼らが、価値観と人生観を改めない限りは(それも、不可能でしょう)。
まともに医療を続けている医者・医療従事者がこういうおろかな家族・グループに振り回されることのないように、医療上の法律を変える必要があります。

>病院勤務医内科医先生
コメントありがとうございます。
ご遺族も明らかに気の毒な立場にあります。
弱者と弱者とが憎しみをぶつけ合うと
真の問題点が見えなくなります。
どうぞ冷静にお願いいたします。

ご遺族の方、さぞや無念なことでしょう。気持ちもよくわかります。遺族としてこの感情は当然のことなのかもしれません。そして亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

しかし、以下厳しい意見ですが、事実なので言わせていただきます。こんなことズケズケという医師は信じられない!という患者さんもいるかもしれませんが、それこそ感情論であり、感情論が世の中を支配したらみな自分のやりたい放題になり、世の中めちゃくちゃになるという事実を知っておく必要があります。
よくよく遺族のコメントをみれば矛盾だらけの感情論に過ぎないことに気づきます。つまり、遺族のコメントには理論的な根拠は何もなく、ただ、自分の感想に過ぎません。それは申し訳ないけど、小学生レベルの感想文と同じでしかないのです。少なくとも我々医療の専門家にとってはそのようにしか感じません。司法に何ら影響が無いべきと言うことです(ここで遺族の感情に配慮した判決を司法が下せば、我々医療者はもはや司法を信じなくなるでしょう)。
つまり、気持ちはわかるが、判決には左右されない、あくまでも一個人の意見、ということです。

まず、医学的事実というのは医学の不確実性から時間がたてば変わります。つまり新事実がわかればそのたびに意見が変わるのです。こんなの科学としては当たり前のことなんです。ましてや医学のように不確実なもので、理論体系も完璧でない学問ではなおさらのことです。
第二に、医療というのは普通にやっていても事故はつきものです。これがなかなか一般の人には理解しにくい。つまり、自動車では交通規則を守っていれば事故に遭うことはほとんど無いけど、医療の場合は普通に医療をやっていてもその事故の可能性は高率で発生します。
医療事故の本質とはそういうもので、残念ながら事故をなくすことは今後も不可能です。

また、冷静に対応できなければ(つまりいつまでも感情移入していれば)医療者として正しい対応はできません。これは我々も身近に遭遇します。訓練してきたことも忘れてしまうほどです。冷静に対応できる医師ほど優秀なのです。
それに医師の目から見ても明らかにおかしい、と思うものに対して被告をかばうと言うことは医療者でもほとんど無いと思ってください。我々がなぜ被告をかばうかというと、今回の事故は起きても全く不思議ではない、でも、起こるべくして起きたのではなく、偶発症であり、起きえるけど、考えにくいことであり、予測も不可能であったということです。

あと、亡くなった患者を侮辱しているという発言がありますが、加藤先生は専門家からみても優秀な医師であるといえそうです。私は専門外でよくわかりませんが、少なくとも多くの医師たちの証言でそれは明らかです。それならば、経験のない医師と加藤先生を呼ぶのはそれこそ侮辱ではないでしょうか?患者を侮辱してはいけませんが、医師を侮辱するのは良いのでしょうか?人間らしい発言とはとても思えません。
それに私には加藤先生の発言が患者への侮辱には思えません。それは真実を淡々と述べているだけでなく、少なくとも自分の行動を弁解しているだけではないからです。弁解するな!というのであれば、素直に罪を認めてしまえということなのでしょうか?それであれば医師は治療なんてできません。それに日本全国の臨床医んも大半は犯罪者になってしまうでしょう。
医師がいないか犯罪者だらけの医師になる・・・そういう世の中を遺族の方が望んでいるのなら良いですが、医師という職業が必要なものだと認識しているのであればこの発言は非常に矛盾に満ちたものになります。

次に、これが有罪になったと仮定しましょう。
一般の診療所ではもはや投薬もやめ、相談だけ受け付けるようになります。そして全ての患者は高次医療センターに運ばなければなりません。これでは患者は何日も待たされ、救急対応は結果として対応できなくなると言う矛盾をはらむことになるでしょう。もし、医師不足が関係ないと言うのであれば、国民の少なくとも10人に1人は医師で、日本にくまなく三次救急センターが無ければなりません。こんなこと人材的にも予算的にも不可能です。
また、これはすでに起こり始めていることですが、侵襲的な治療を医師がやらなくなります。どんなに優秀な医師でも事故を起こさないように100%治療できるなんて医師はいません。

医師の責任とは起こってしまったことに対して真実を認め、どうすれば二度と起きないようにできるかと言うことを考えることであって(もちろん、素直に認めることは大切であるけど、加藤先生はそれをやっておられるではないですか?)、刑罰を受けることでは無いです。
もちろん、故意の殺人やリピータ、あるいはプロフェッショナルらしい行動に欠けている(すべきことをしなかった等)ときなどは刑事罰を受けるべきでしょう。少なくとも加藤先生は医師としてやるべきことはやっています。

ここまで書いてきたことに納得できない場合は医療というものをしっかり勉強しているか、カウンセリングを受けるべきでしょう。今回の事故に関して医師側に反省すべきことがあるとすれば、遺族への感情的対応と事故の原因を探り、どうすれば二度と起きないか考えることでしょう。
でも、感情的対応は知りませんが、少なくとも後者は加藤先生は対応しています。そして、その感情対応には精神カウンセリングも含みます。被害妄想による神経症は意外と怖いのです。適切な治療がなければ一生治らないかもしれません。心を癒してあげ、治療することは必要です。

以上、厳しい意見ですが、これで「遺族への配慮をしていない」というのであれば、それは間違っています。少なくとも私は非難はすれども中傷(つまり悪口)はしていません。事実を語っているだけです。事実を語ることを禁止というのであれば、それはもはや自由で正しい意見を言うことが禁止されると言うことです。もう、医師という職業は世の中に必要なく、変わりに必要なのはお坊さんとカウンセラーと言うことになるでしょう。

もし、遺族が医師が世の中に必要だと認識しているのであれば、彼らのコメントは明らかに非理論的な感情論に過ぎないと言うことがわかるでしょう。

川口様。
私の言い方が厳しかったかもしれませんね。
たしかにK医師にとっても、この患者家族にしても、コメントしている人は所詮は他人の無責任な発言と取るでしょうでしょう。
経験の豊かな産科専門医でもないのに、この症例はあ~だこ~だと言ったとしたら、K医師を”ひいきの引き倒し”状態にしてしまうかもしれないし、患者家族にとっては感情を逆なですることにもなりかねませんから。
一般のかたも見られる掲示板ではなく、医師だけclocedな掲示板でのコメントなら医者サイドに立った発言は許させるかもしれません。

この事例からの教訓うんうんと書きましたが、医学的な判断は専門医にお任せして、こういう形で身内を亡くした家族の心のケアの体制ができていないことは一番問題だと思います。
医者は身内に何かあっても、医学知識に基づいて起こった結果を冷静に受け止めることができますが、一般人にそれを期待するのは難しいと思います。
悲しみを癒すすべが無い、宗教に走ることもできない、かといって、医療サイドから心のケアを提供させるわけでもない。
悶々と毎日を過ごすだけ。結果として裁判に訴えざるを得ない、と言ったところでしょうか。
憎しみの真っ只中にあるのでしょう。

たとえが違いますが・・・
末期の癌になった患者が主治医から予後の厳しさを説明されて打ちのめされてしまうことがあります。
医者は、淡々と医学的事実を述べているだけかもしれませんが、患者には絶望的な宣言として取られてしまいます。
臨床心理士などが間に入って、心のケアをすると気持ちが前向きになることがあります。
このご家族もどこかで、そういうケアがあったら状況が変わったのかな、いや変わらなかったのかぁ、と感じました。

>病院勤務医内科医先生
恐れ入ります。
須田君の受け売りになってしまいますが
https://lohasmedical.jp/blog/2008/01/post_1047.php#more
部外者が当事者のマイナスの感情を刺激するのは
建設的でないと思うのです。

 川口さん、こんにちは。

 そう、確かに建設的でもなければ、好ましくもありません。

 万一、遺族が読んだとしたら、ここの書き込みの全ては、おそらく内容を吟味されることなく、ただただ遺族を批判・非難しているという部分だけが認知されて不快感だけを呼び起こすことでしょう。

 他方、遺族からの具体的反応の有無を問わず、書き込まれた方のほとんどは、遺族がそのようにしか受け取らないだろう事もわかっているはずです。

 それでも、ここには登場しない第三者がいて、彼等こそがこの事態を招いた責任者でありながら、あたかも遺族の心情の最大の理解者であるが如く振る舞って事態の更なる悪化を招いている可能性があります。

 しかも、今後も同様の振る舞いによって、国民の医療を受ける権利を根こぞぎ奪ってしまう可能性は極めて大です。

 彼等に対して、進行している事態が医療者側にどのように評価されているのか、その一端を専門職として表明することは必要でもあり、国民に対しての社会的義務ですらあると考えます。

 議論の舵取りをお願いします。

私も遺族に精神科受診か、カウンセリングは必要だと思います。ただ、それを国が支援するでしょうか?おそらく遺族は「病院が悪いんだから病院が金出せ」というでしょう。しかし、理論的に病院は悪くないのだからお金を出す必然性もありません。それに、病院が金を出せば悪徳患者が増えてしまうかもしれません。
遺族のコメントは明らかに間違っていますが、気持ちはわかります。概して知ろうとは自分の理解できない高次元なことは理解を示すことが能力的に不可能なのです。つまり、もし医師がこの世の中に必要だという認識の元で理論を展開するならば明らかに遺族の主張は間違っているのです。しかし、医療について幅広く理解できない故に、患者が亡くなった事実と遺族が理解できるわずかな情報を元に遺族はコメントをしているのです。つまり、遺族にとってはそれは理論的な正しいコメントなのです。もちろん社会的には弊害をもたらすだけであり、とても理論的とはいえないでしょう。
しかし、少なくとも精神的なフォローができていれば憎しみは和らぎ、医師側のより正しい意見も理解できたかもしれません。このようなコメントを出さなかったかもしれません。遺族の精神的フォローアップも大切であると思います。ただ、それは国が何とかしなければならない問題ではないでしょうか?
アプローチとしては事故調査委員会が過失の有無を調査し、明らかに過失があった場合は病院の責任とし、そうでない場合は自己負担か国が支援する必要があると思いますが、皆様はいかがお考えでしょうか?

他の科、特に治療により死亡または重篤な後遺症が残るリスクの高い患者を見る医者なら、今回の事例から得るものがあります。
それは、急変時のバックアップの体制が揃った病院でなければ、高リスクや中等度リスクの患者の治療は行うべきでなく、もしもリスクの高い患者がいたら治療前に紹介するべき、と言うことでしょうか。
今回の患者さんは出血性ショックが原因でお亡くなりになっています。
その場合、すぐに大量の輸血が可能で、場合によっては心肺機能を補助するPCPSが回せるような(この患者さんには適応があったかどうかは、?です)スタッフがすぐに揃うような病院でなければ急変時の対応は難しいでしょう。
救命センターや循環器科や外科などのスタッフがそろった病院になりますね。

スタッフや設備がそろっているような病院でもそう入っても、マンパワー不足で全ての高リスク患者を受け入れることができないのが現状でしょう。
大都市部なら可能でも(あるいは大都市であっても)、大都市を一歩離れると、少ない医師とスタッフと設備で高リスクあるいは中等度リスクの患者を受け入れざるを得ない状況なんでしょう。

この事件以来、福島県では低リスクの妊婦さんでも福島県立医大での出産を希望する方が増えたそうです。
地元の医療機関から福島医大に紹介され、地元での出産でもOKだよ、と勧められても患者さんと家族の方が医大病院での出産を強く希望され、やむを得ず受け入れるケースもあるとのこと。
新聞記事で読みました。
患者側の防衛策ですかね。

 病院勤務内科医 先生、こんにちは。

 失礼ながら事実関係について見当違いなご指摘であろうと思います。

 公判でも分娩の専門医から指摘されたように、この患者さんは設備が整い、人員が充足して準備血液量が充分な状況であったとしても救命は困難であったと考えられています。

 であるからこそ、この訴訟が起こされたこと自体が問題視されてきたのです。

中村利仁さま。

わたしの言葉が足らなかったので、すこし誤解があるようです。

この患者がスタッフと設備のそろった病院で治療を受けたら死亡しなかっただろう、と言いたいのではなくて、高リスクの患者は大学病院クラスや高度先進医療センターや大規模病院クラスに紹介して送ったほうが、中規模や小規模の病院の医師が結果だけで訴訟を起される可能性は減るだろうと言う事です。

ご家族のかたは産科専門医1名の病院だから助けられなかったと仰って刑事告発されています。
スタッフと設備のそろった大規模総合病院において、担当医から死亡するリスクを充分にインフォームド・コンセントされて、その上でやれるだけの治療をやっても助からなかったのならご遺族の方は納得されたかもしれません。
やはり訴えられたかもしれません。
どちらとも言えませんが。

今回の症例ではどこに行っても助からなかった可能性が大ですから、中規模・小規模病院が医者側の善意だけでわざわざ高リスク患者を受け入れて、規模や専門医数を理由にした訴訟のリスクを背負う必要はありません。
そこに勤務する医者の身のためです。
この事例から得た教訓とはそういう意味なのです。

すごいですね、医師の皆さんのコメント、背筋が凍りつきます。
遺族の意見陳述、被害者感情丸出しですか、ご不快ですか、パンピーには理解できません。
自分は医療を受ける側の一般人ですが、医師の皆さんの我々とはかけ離れた思考回路に、絶対に埋まらない溝を感じます。
一般人的意見を言わせてもらえば、遺族の方は死に方に疑問があるわけですよね?前述の病院勤務内科医さんがおっしゃる様に、術前に死亡のリスクを十分説明されていたら、手術中の危険を経過説明されていたら、死亡の事実を納得できたのではないですかね。納得できれば訴訟を起こす理由もないと思いますが。
自分が福島医大で手術を受けた際は事細かに手術のリスクを説明されたように記憶していますが、大野病院ではそれほど重大なリスクとは説明しなかったようですよね?患者は絶対に助かる医療を求めているわけではなく、納得できる医療を求めているんだと思いますが・・・
最後にこれが医師不足の元凶だ、と言われるのはあまりにもせつないですね。自分はこの事件にまったく関係ないですが、患者は医療に納得できない場合、訴訟する権利さえ奪われるのでしょうか。訴訟した場合、あんたが訴訟なんか起こすから医師のなり手がなくなるんだ、と言われるのでしょうか。患者は沈黙しろということですかね。
一般人の素人意見ですので、言葉足らずのところは平にご容赦を。

旦那さん「私は今、父親として、責任をもって二人の子を育てています。親として当然であります。」
お弟さん「残された二人の孫をひきとり、両親は二人の子を不幸にしたくない思いで育ててきました。」

???? 二人のお子さんはどちらの家が育てているのでしょう?

>通りすがり一般人さんへ
今回の訴訟に関しては、お医者さんに過失はなかったと一般人でも思うんですが、http://www.geocities.jp/vin_suzu/iryou0.htm
このサイトなんか読んでみてください。

患者さんが訴訟するのは、今回のような容体が急変してしまったケースではなくて、切る場所間違えたとか、ガーゼを体に残したとか、薬間違えたとか言う場合が適切ではないかと思うんです。人間は、病気や出産で死んでしまうことがあります。昔は死産、もしくは母親が死んでしまうことはよくありました。そういうケースでもむやみやたらに訴えてたら、お医者さんになりたい人がいなくなるんじゃないかということです。お医者さんだって人間です。しかも、30時間ぶっとおしで働くような方も多いです。頑張っても報われないことも多い仕事なのに、なんでもかんでも死んだら訴訟では、みんな逃げ出すんじゃないですか?

他の方のコメントを読むと、やみくもに訴訟されたら、リスクのある患者は小さい病院では受け入れることが難しくなるとは言ってますが、患者さんが訴えるなとは言ってませんよね?

あと、新聞・テレビの報道は偏ってます。こういう報道は、ネットも複数のソースをあたることお勧めします。正反対のことが書いてあることが多いです。

今回の訴訟では、最初に警察が介入して、加藤氏を逮捕しちゃったため、遺族としたら、「やっぱ奴が悪いんだ」という印象を持ったんではないでしょうか?だとしたら、警察は罪作りですね。

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