福島県立大野病院事件・最終弁論公判(2) |
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投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2008年05月17日 06:58 |
福島は快晴。
最近の習慣として福島駅から裁判所まで歩く。
さわやかな初夏の趣で大変気分がよい。
凍えながら開廷を待った時期が二度あったなあ
初公判から1年以上経ったんだなあ、としみじみ感慨にふける。
法廷に入ってみると、S検事は残っていたものの、検察官の顔ぶれがまた変わっていた。
初公判の時からは総入れ替えされたことになる。
開廷前に平岩主任弁護士から検察側に弁論のプリントアウトが渡される。
全150ページ。他に経過資料。
その分厚さに検察官、苦笑い。
午前10時すぎ、開廷。
右陪席判事が女性から男性に交代していた。
裁判官も初公判の時から残っているのは左陪席の1人だけ。
淡々と進行され弁護側最終弁論。
結論は
「被告人は、業務上過失致死罪および医師法違反の罪のいずれについても無罪である」
業務上過失致死罪については
多くの証人に対する尋問が行われ、その模様もご報告してきた。
結局その繰り返しなので多くは語らない。
検察側に立証責任があるのだけれど全く立証できていないということ
重ねて、むしろ検察の立証は虚構というべき次元のものであることを
一つ一つ証拠を積み上げて完封勝利した感がある。
問題は医師法違反の方である。
検察のメンツを立てるため、こちらだけ形式的に有罪にするという判決は
法律家の相場的にはある話らしい。
しかし、そんな判例を作られてはたまらない。
その意味で、どんな主張をするのか興味津津だった。
実に堂々たる弁論で感銘を受けたので、少し丁寧にご報告したい。
「検察官は、被告人が死体に異状があると認めたにもかかわらず、24時間以内に所轄警察署に届出をしなかったとして医師法21条違反であると主張する。しかし、本件死体には客観的に異状が認められない。しかも被告人の医療行為には過失がないので、検察官の指摘する裁判例の基準、厚生省のリスクマネジメントマニュアル作成指針、大野病院の安全管理マニュアル、いずれによっても医師法21条の構成要件に該当しない。さらに主観的にも被告人には異状の認識がないので構成要件または故意を欠いている。
仮に該当したとしても、職責ある公務員である院長の被告人に対する指示を考慮すると、被告人が医師法21条に反しないと考えたことには正当な理由がある。そのような状況下で被告人に届出を期待することは不可能であるから、犯罪は成立しない。
さらに、そもそも医師法21条は憲法31条および憲法38条に反し、違憲無効である可能性が極めて高い。違憲無効の法律によって人を処罰することはできないのであるから、構成要件該当性や責任の有無を考慮するまでもなく、被告人は無罪である」
(中略)
「客観的に異状がないこと。医師法21条は検案死体に異状があることを前提にしている。検察官は本件死体に異状があることの立証責任を負っている。異状とは、検案すなわち死体の外表を検査した結果識別される状態であるにもかかわらず、死体外表の状態について検察官は何らの主張もしていない。そして検察官は、被告人の行為に過失があることをもって、異状があることを根拠づけようとする。
しかし既に詳細に述べた通り、被告人には過失がなく、検察官は被告人の過失について何ら立証をなしえていない。したがって、仮に異状の有無を過失の有無と同一に捉えたとしても、本件は客観的に異状があったとすることはできない。
検察官は東京地方裁判所八王子支部昭和44年3月27日判決を採り上げている。
この裁判例によれば、死体の異状とは単に死因についての病理学的な異状をいうのではなく死体に関する法医学的な異状と解すべきであり、死体事態からにんしきできる異状だけでなく、死体が発見されるに至ったいきさつ、死体発見場所、状況、身元、性別等諸般の事情を考慮して異状を求めた場合を含むものと言わねばならない、とされている。
この裁判例は、入院患者が屋外療法中に行方不明となり、2日後に山林の沢で死体となって発見された事案である。したがって、誰の目から見ても異状な死であることは明白であって、本件事例の先例となりうる事案ではない。仮に本件へのあてはめを行うとしても、本件死体の外観には異状がないことは明らかであり、さらに被告人の過失の痕跡が留められているわけではない。
また手術室での死亡であるから、『発見されるに至ったいきさつ、死体発見場所、状況、身元、性別等諸般の事情』という基準が適用される事例ではない。したがって、検察官の挙げた裁判例の基準に当てはめても、本件は異状死には該当しない」
(中略)
「違法性の意識の可能性がないこと。仮に構成要件に該当したとしても、被告人が、届出をしなくても医師法21条に反しないと考えていたことには正当な理由があるので、犯罪の成立が阻却される。
札幌高等裁判所昭和60年3月12日判決は、一般的な原則として、判例や所轄官庁の公式見解または職責ある公務員の公の言明などに従って行動した場合など、自己の行為が法的に許されたもので処罰されることはないと信じるについて相当の理由があるときは、例外的に犯罪の成立が否定されるとした。
死体検案後の警察への届出については、厚生省国立病院部が平成12年にリスクマネジメントマニュアル作成指針を出し、医療過誤による死亡もしくは傷害が発生した場合、疑いがある場合には、施設長が速やかに届出を行うべきとされている。被告人もこの内容を認識していた。大野病院も、この指針に基づいてマニュアルを作成しており、被告人もマニュアルの存在と内容を認識していた。これらの指針やマニュアルは、所轄官庁および所属組織の公式な取り扱いとして公にされていたものであり、学会のガイドラインとは意味するところが大きく異なり、被告人がそれに従って行動することには十分な理由がある。
加えて被告人は、マニュアル上届出義務者とされている院長に対して手術の経過を詳細に説明し、その上で院長から届出はしなくてよい旨、指示された。また院長はマニュアル上、判断を仰ぐべきとされている福島県病院局グループ参事との相談においても、過誤がないため届出はしないとの結論に達しており、被告人はその模様を見聞きしている。
このように被告人は所轄官庁である厚生省および大野病院の公式見解ならびに職責ある公務員である院長の指示に基づいて行動したのであるから、被告人が届出をしなくてもよいと考えたことには相当な理由があり、犯罪の成立が阻却されるというべきである。
検察官は、論告において、院長が産科専門医ではなく、かつ、その後事故調査委員会で示されたような胎盤剥離に器具を用いてはいけないという見解を当時知らなかったのであるから、誤った報告や説明を基礎として判断していたに過ぎず、それを根拠に違法性の意識の可能性や期待可能性がないとすることはできないとする。しかし、被告人は誤った報告や説明をしてはいないし、加えて、検察官は事故調査委員会報告書を証拠提出さえしておらず、事故調査委員会で語られたという胎盤剥離に器具を用いてはならないという見解が誤りであることは証拠上も明らかである。当時の院長の判断は誤った報告や説明を基礎としていたわけではない」
(中略)
さて、ここから、いよいよ医師法21条が違憲との主張である。
「そもそも医師法21条は、憲法31条により根拠づけられる罪刑法定主義、明確性の原則に反しており、違憲無効な法律であり、違憲無効な法律により人を処罰することはできないから、被告人は無罪である。
罪刑法定主義は、憲法31条に根拠づけられる刑事法上の大原則であり、その派生原則として明確性の原則を包含している。
明確性の原則の判断基準について、昭和50年9月10日徳島市公安条例事件最高裁判決は、『不明確のゆえに憲法31条に違反し無効であるとされるのは、その規定が通常の判断能力を有する一般人に対して、禁止される行為とそうでない行為とを識別するための基準を示すところがなく、そのため、その適用を受ける国民に対して刑罰の対象となる行為をあらかじめ告知する機能を果たさず、またその運用がこれを適用する国または地方公共団体の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生じるからである』としている。
これを医師法21条について見ると、同条には『異状』という以外、文言上、何ら解釈の手がかりがない。
法律の趣旨にさかのぼって考えるとしても、医師法は医師の身分法という基本的性格を有しており、通常の判断能力を有する一般人が直ちに医師法21条の立法趣旨を理解することはできない。
たしかに最高裁判決では、『交通秩序を維持すること』という医師法21条同様の曖昧な規定を合憲とした。しかし、それは徳島市公安条例が、デモ行進等の届出やその制限を立法趣旨としていることが明確である上、所轄警察署の道路使用許可条件で『蛇行、渦巻き行進』などの禁止事項が明記されていることから、『集団行動等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合に随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、ことさらな交通秩序の阻害をもたらすもの』が処罰の対象になるということを理解することも不可能ではないからである。
これに対し、医師法21条は、同条の立法趣旨が医師法の性格から直ちに明らかになるものでもないし、後で述べる通り、周辺団体や行政官庁の見解も混乱を来しており、規制対象である一医師が処罰の範囲を明確に理解することは、極めて困難である。
種々の団体や行政官庁が様々な解釈指針を公表しており、いずれもその内容が異なっているため、現場の医師に明確な規準を与えているとは言えないばかりか、かえって医師法21条の解釈の混乱に拍車をかけている。このようにガイドラインが複数存在すること自体、法律の解釈にあたり補充を必要とし、医師法21条が明確性を欠く証左である。
厚生省リスクマネジメントマニュアル作成指針では、医療過誤による死亡もしくは傷害が発生した場合、その疑いがある場合、施設長が速やかに届出を行うべきとされている。異状死を、医療過誤が発生した場合、その疑いがある場合に限定したが、逆に傷害が発生した場合にまで届出範囲を広げており、医師法21条の解釈の域を超えている。
日本外科学会ほか10団体は、平成14年の声明の中で、重大な医療過誤が強く疑われ、または医療過誤の存在が明らかであり、それによって死亡または重大な傷害が生じた場合、診療に従事した医師が速やかに届出を行うべきとした。これは日本法医学会ガイドラインへの批判を前提としたものである。届出対象を重大な医療過誤に限定したが、届出義務者を検案した医師ではなく診療に従事した医師としている点では、医師法21条の解釈の域を超えている。
日本法医学会が平成6年に発表した異状死ガイドラインは、異状死の概念を拡張解釈する姿勢を明確にしている。しかし、刑罰法規の拡張解釈は慎重になされなければならないのであって、国民一般にとって予測可能な範囲を逸脱するような拡張解釈は許されない。
そもそも日本法医学会がガイドラインを定めた意図は、先進国の中で我が国の剖検率が際立って低く、監察医制度が著しく未整備であるという情況を改善しようという点にある。本来は立法府として明確に定めるべき異状死の定義を一民間団体である法医学会が、法的な整合性や一貫性を十分に検討しないままに提示したものと評価せざるを得ない。これを立法府や司法府が無批判に受け入れることは本来あってはならないことである。
被告人の逮捕後に開かれた第164回国会参議院厚生労働委員会において『警察庁は、この異状死体というものをどういう風にお考えになっているのでしょうか』という質問に対し、警察庁刑事局長が『医師法21条の規定に基づく届出を行うべきものか否かにつきましては、これはもう個別にいろいろ判断される事項でありますので、なかなか難しいものだろうと、こういう風に思っております』と答弁している。
また『医師法21条の改正もしくはその解釈も含めた検討を早急にやっていただきたいと思いますが、いかがでございますでしょうか』との質問に対し、厚生労働大臣は『異状死の範囲を国が具体的に示すことができるかということになるとなかなか難しい課題だ』と答弁している。
このように届出を受ける警察庁の最高幹部や所管官庁の責任者自らが医師法21条について明確な解釈ができないことを認めているのであるから、ましてや現場の一医師に明確な解釈を求めることには無理があるし、捜査機関の責任者でさえ適切な解釈ができない状況では現場の捜査官の恣意的な判断により医師法21条が運用される恐れを排除することができない。
裁判所も明確な解釈を示していない。
平成16年4月13日の都立広尾病院事件最高裁判決では、医師法21条の憲法38条への適合性が争われたが、当該事案が点滴薬剤の取り違えという明白な過失を扱うものであったことにより、結果的には異状死の定義には触れないまま、異状があったことを当然の前提として有罪判決を下したため、異状死の定義は不明確なまま積み残しとなってしまった」
(中略)
「さらに医師法21条は、憲法38条に根拠づけられる黙秘権を侵害する違憲無効な法律であり、違憲無効な法律により処罰することはできないから、被告人は無罪である。
都立広尾病院事件最高裁判決は①医師法21条に基づく届出義務が、単に犯罪発見の端緒を得る目的のみでなく、被害の拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図る目的の行政手続上の義務である点②届出の対象が、死体に異状があると認めたことのみであって、届出人との関わりなど犯罪構成要件に関わる事項ではない点③医師免許は人の生命を左右する診療行為を行う資格を付与するのであるから、それに付随する社会的責務としての合理的負担も甘受せねばならない点④公益上の高度の必要性がある点、を理由に、医師法21条が黙秘権を侵害せず、憲法38条に反するものではない、とした。
しかし後述の通り、本判決が根拠とする①から④の事由はいずれも妥当性を欠いている上、特殊な事例に対する事例判決というべきものであり、本判決を本件に適用することは適当ではない。
本判決は、医師法21条には社会防衛を図る目的を有する行政手続上の義務という側面、医師たる職業に内在する制約が存在するから、黙秘権を侵害することにはならないとする。
しかし、憲法38条が保障する黙秘権は基本的人権の根幹に関わる必須の権利であって、公益性を根拠にこれが安易に制限されるとすれば、憲法が保障する基本的人権の保障は画餅に帰す。
そもそも医師法21条は明治時代に制定された医師法施行規則9条をそのまま引き継ぐ規定であり、もとは内務省の所管法令であった。内務省は、警察事務のほか、現在の厚生労働省が所管する事務も所管していたため自然なことであった。
しかし内務省が廃止され、内務省が所管していた事項は、警察事務は警察庁および都道府県警察へ、衛生上の事務は厚生省へと移管された。これに伴い、『感染症の予防および感染症の患者に対する医療に関する法律』などが厚生省の所管法令として制定され、社会防衛のための医師の届出義務などは同法12条などで処理されることになり、医師法21条が有していた社会防衛を目的とする側面は大きく後退することとなった。
今や医師法21条は、主として犯罪発見の端緒を得る目的のために存在するものとなっており、本判決が述べるような衛生確保など行政手続上の目的は、副次的なものに過ぎず、このような副次的な目的を根拠に憲法38条に違反しないと結論づけられることはできない。
また、仮に衛生確保等の行政上の目的があるとしても、医師法21条による異状死体の届出により、捜査機関は犯罪捜査の直接の端緒を得ることになるし、その報告内容には単に異状死体が存在することに留まらず、死亡に至った経緯等の説明を求められることは必然であり、これらの業務と黙秘権により保障された権利が鋭く対立し、相容れないことは自明のことである。
本判決は、届出事項が犯罪構成要件を含まないので黙秘権を侵害しないとしている。しかし、医師法21条は届出内容を規定していない。従って、所轄警察署の運用次第では、診療医師や診療経緯を聴取される危険があるから、届出事項が犯罪構成要件を含まないとは言い切れない。
そもそも今日の医師法21条は主として犯罪発見の端緒を得る目的で届出をさせている以上、犯罪構成要件に該当する事項を聴取しようとするのが通常であり、届出自体に犯罪構成要件が含まれなくても、必然的に犯罪構成要件に該当する事項の聴取を招来するので、届出事項の内容を理由にすることは形式論理である。医師法21条の届出を行えば、捜査機関から死体検案書ないし死亡届の提出を求められることは容易に想像できる。本件でも被告人の過失を裏付ける証拠として、検案結果を記載した死亡届が提出されていることからも、医師法21条の届出が医療過誤の犯罪捜査に直結することは明らかである。
本判決は、医師が人の生命を左右する診療行為を行う資格を有するがゆえに、その代償として黙秘権の放棄を伴う社会的責務を負うべきとする。
しかし、応召義務を前提として、今日の医療現場における医師の過重な負担を見るにつけ、逆に医師が人の生命を左右せざるを得ないことが、医師の社会的責務とさえいえる。責務の代償に責務を負わせることはできないのであって、本判決の論理は現実を理解しない空論である。
また仮に医師が本判決の指摘するような特権を有しているとしても、特権を有しているからといって、基本的人権である黙秘権を奪われる理由にならないことは言うまでもない。
本判決は、医師法21条の届出に公益上の高度の必要性があることを合憲の理由としている。しかし、公益上の高度の必要性等という抽象的な理由によって、黙秘権という重要な基本的人権を軽視することはできない。
以上の通り、都立広尾病院事件最高裁判決が医師法21条を合憲であるとした判断には重大な誤りがあり、受け入れることができないものである。
そもそも本判決の事案は、看護師が点滴薬剤を取り違え、血液凝固防止剤を投与すべきところ誤って消毒液を投与したという明白かつ初歩的な医療過誤に関するものである。
さらにこの事件は、病院長について医師法21条違反の有無が問われた事件であったが、病院長にとっての黙秘権の重要性は、二重の意味で希薄化されている事案であった。
まず過失行為を行ったのは看護師であるから、検案医師でもある主治医は監督過失を負うに過ぎず、主治医の監督過失は立件すらされていない。次に医師法21条違反の直接行為者は検案医師である主治医であるから、病院長は共謀共同正犯の限度で関与するに過ぎないうえ、主治医は医師法21条違反を認めていた。
つまり都立広尾病院事件では、問題となっているのが病院長の黙秘権ではなく、看護師と主治医の黙秘権であるに過ぎないうえ、病院長は主治医との共謀について医師法21条の責任が問われているに過ぎなかったのである。
このように本判決は、特殊な事例についての事例判決というべきものである。
これに対し本件は過失の有無が激しく争われている事案であるうえ、被告人は主治医かつ検案医師として業務上過失致死罪および医師法21条違反双方で起訴されており、黙秘権の重要性が激しく問われる事案である。このような事案の相違を無視して、安易に本件に都立広尾病院事件判決を適用することはできない。
憲法38条は、国民に対し黙秘権または自己負罪拒否特権を保障し、国民は刑事手続きにおいて自己に不利益な供述を強要されない権利を有する。しかるに、医師法21条は、必然的に罪状の有無のみならず犯罪構成要件に該当する事実の供述を強いる結果となる場合が多い。このような検案医師の不利益は、行政届出上の義務であるという理由や、医師の社会的責務、公益上の必要性によって排斥される性質のものではない。従って、医師に一義的に医師法21条の義務を課すことは黙秘権を保障した憲法38条に反して違憲である。
たしかに病院に運び込まれた他殺死体を検案するような検案医師の黙秘権が問題とならないようなケースがあるとしても、少なくとも医師が自ら主治医として診療した患者が死亡した場合で、同じ医師が検案を行うときに医師法21条を適用することは、当該適用の限りにおいて検案医師の黙秘権を侵害することになり、憲法38上に反し違憲と言える。
異状の通り、医師法21条は憲法31条および38条に反して違憲無効である上、仮に有効であるとしても、被告人の行為は医師法21条の構成要件に該当せず、かつ、犯罪の成立を阻却する事由があるから、医師法21条違反の点についても被告人は無罪である」
繰り返すが、難題に真正面から正々堂々と挑んだ実に立派な弁論だと思う。
弁論の間、弁護人が声を張り上げる度にニヤニヤしていた検事も
このくだりは真剣な顔をして聞いていた。
この弁論を聞いてしまうと
厚生労働省事故調設置の検討会で盛んに聞かれた
「医師法21条だけ改正するのは国民感情が許さない」という意見が
いかにも薄っぺらくご都合主義のように思えてくる。
第三次試案もこの点には向き合っていないし、それより何より
医師法21条をこのように宙ぶらりんの状態で放置した立法府の責任もまた重い
こう言わざるを得ない。
「医療現場の危機打開と再生をめざす議員連盟」の鈴木寛・幹事長が
午後から傍聴していて、この弁論を聴いていたので
何らかの動きがあることを期待したい。
最後に総括。
「本件起訴が、産科だけでなく、我が国の医療界全体に大きな衝撃を与えたことは公知の事実である。産科医は減少し、病院の産科診療科目の閉鎖、産科診療所の閉鎖は後を絶たず、産む場所を失った妊婦についてはお産難民という言葉さえ生まれている実態がある。
産科だけではない。危険な手術を行う外科医療の分野では萎縮医療の弊害が叫ばれ、その悪影響は救急医療にまで及んでいる。
医師会をはじめ、医学会、医会、全国医学部長・病院長会議等100に近い団体が本件事件に交ぎする声明等を出している。医師の業務上過失致死事件について、各種医療団体から多数の抗議声明等が出されたことは、我が国の刑事裁判史上かつてないことである。
このような事態が生じたのは、検察官が公訴事実において、我が国の臨床医学の実践における医療水準に反する注意義務を医師である被告人に課したからに他ならない。
検察官が、本件裁判において度々言及しながら遂に証拠請求すらしなかった県立大野病院医療事故調査委員会作成の報告書は、起訴前から広く医療界に知られていた。抗議声明等を出した医療団体は、被告人が術前には癒着胎盤の認識を持っていなかったこと、胎盤剥離中に癒着を認識したこと、剥離を継続して完了させたが止血ができず患者が死に至ったことを知ったうえで、それを前提に抗議声明等を出しているのである。
検察官は論告において、『胎盤の剥離を開始した後、癒着胎盤を認めた場合には止血捜査に努めると同時にただちに子宮を摘出するという知見は、基本的な産婦人科関係の教科書、基礎的文献に記載されている産婦人科における基礎的知見』と主張する。証拠となっていないものも含め、胎盤剥離開始後に剥離を中止して子宮を摘出するという記述はない。
また前述の通り、本件で証拠となったすべての癒着胎盤の症例で、胎盤の用手剥離を開始した場合には、胎盤剥離を完了していることが立証されている。これが我が国における医療の実践である。胎盤剥離を開始して、途中で中止し、子宮を摘出するという医療が、我が国の臨床医学の実践における医療水準や標準医療でないことは証拠上明らかである。
(中略)
被告人は、厳しい労働環境に耐えて、地域の産婦人科医療に貢献してきた優秀な産婦人科医である。
懸命の努力にもかかわらず、担当した患者を死なせてしまった被告人の無念さと悲しみは、当公判廷で被告人が供述する通りである。
被告人は真摯に本件患者の死を悼み、度々本件患者の親族に頭を下げ、本件逮捕に至るまで月1度の墓参を欠かしたことはなかった。このような事実は、被告人の医師としての誠実な態度と真摯な姿勢とを如実に表すものである。
本件患者が亡くなったことは重い事実ではあるが、被告人は、我が国の臨床医学の実践における医療水準に即して、可能な限りの医療を尽くしたのであるから、本件に関しては、被告人を無罪とすることが法的正義にかなうというべきである」
この後、前エントリーに記した加藤克彦医師の陳述があり結審。
判決公判は、8月20日午前10時から。
(了)
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コメント
いつもながら、ご報告大変感謝しております。
さて、実に興味深い弁護を聞かせていただきました。全くその通りだと思います。
医師法21条は、本来「犯罪の疑いのある」事例を公にするための公民としての義務以外の何ものでもなく、どう読んでもそれ以外の意味にはとれません。それを指針という通達のみで医療過誤まで範囲拡大した事が問題だと考えております。
本来、新しい概念を統制する場合、法律を改正ないし制定するべきなのに手抜きをした姿勢が後を引いているものだと考えます。
これは起訴を決めた検察官達の出世とメンツがかかっていますし、遺族の加罰要求には厳しいものがありますから、たとえ無罪となっても最高裁まで行くであろうと思います。
遺族も検察官も、無罪判決が出たとしても反省などしないことは言うまでもありません。
また、有罪となった場合、被告医師に資力が続く限りは無罪を求めてやはり裁判が続くであろうと思います。
10年かかります。
そういう先の長さを考えると、8月の判決は一里塚に過ぎません。
医学については医師は検察官、警察、患者よりも遙かに正確で正しい知識を有しており、その判断はどう考えても医師の方が正しいのですが、世の中ではそれは医師の勝手な屁理屈にすぎないというのが世論です。我々から見たら我々の理論は理屈であり、素人判断は屁理屈なのですが、仮に検察や家族の理論が正しいとしましょう。その場合、最善の医療とは、リスクのある医療をしないことであり、その理論から言うと今回の場合も当然患者の命を救えなかったでしょう(医療をしないのが最前の医療なので当然です)。勿論、今後も患者たちを救うことは不可能でしょう。それでも良いというのであれば検察の言うことは正しいといえるでしょう。検察の方は自分たちの理論が正しいとおっしゃるのであれば医療を受けないで頂きたい。それがメンツというものでしょう。そして、それなら我々も納得できます。バシバシ医師を有罪にしてください。それが彼らにとって正しいのですから。
しかし、その結果、医療難民を生んでしまう日本に文句を言わないでください(すでに難民が出始めているのは報道で明らかですが)。自分たちの選んだ道なのですから。
そうなりたくないのであれば、もっと医学の限界というものを勉強してください。この理論から導かれるのは検察や裁判官の勉強不足です。現実逃避です。
遺族は素人ですからある程度感情論、屁理屈をかざすのは仕方ないといえます。でも、検察や裁判官の判断は社会的影響を与えます。それにおごることなく、何が正しい道なのかちゃんと見極めて欲しい。そう思います。
もし、裁判が10年も続くとしたら、残酷なことです。誰を幸せにするというのでしょう。
裁判を早期に終わらせるには、どうすればいいのですか。一市民としてできることがあるとしたら、どのようなことでしょうか。教えてくださいませんか?
私は大野病院事件を「えん罪事件」と考えています。
一市民 さん、こんにちは。
裁判、特に刑事裁判を早期に終わらせるとしたら、被告が諦めるしか方法がありません。有罪を認め、刑に服するのです。
そして、たとえ被告が勝ったとしても、失われた歳月や訴訟費用の大半を取り戻す方法はありません。
検察は組織であり、国家であり、関与する検察官は入れ替わり立ち替わり国民の税金を使って永く争うことができます。
刑事訴訟に限らず、国家が裁判を戦うとき、誰の目にも國の間違いが明らかであったとしても、途中で降りるということはほとんどありません。
また、最近、医療訴訟を経験した患者さんやその家族に、相手方の医療者や医療機関の態度が訴訟の結果によってどう変わったのか、聞くようにしています。
まだあまりたくさん聞いて歩けているわけではありませんが、裁判が始まったときに、あるいはその途中で態度が変わることはあっても、医療の素人である裁判官の判断によって、自分たちの考え方を変える医療者はいないようです。
判決によって「反省」は得られない構造になっているのです。
たとえ医療者が獄に繋がれることになっても、それは変わらないことでしょう。
訴訟は患者さんの側にも多大な負担を強いるものですが、期待するものの大半は得られません。
医療訴訟の持つもう一つの限界です。
中村様
残念なことに中村様のおっしゃることが、真実なのでしょうね。田中森一氏の著作などに書かれていました。
ロハスの公判内容をいつも読ませていただいていますが「大野病院事件」は、加藤先生のどこに過失があったのかわかりません。あるとしたら、お一人で激務をこなされていたことでしょうか?
もし、医療裁判(刑事)に「えん罪」があるとしたら、それは悲劇とかいいようがありません。なぜなら、ご遺族がいらっしゃるからです。ご遺族が「被害者」なのです。他の事件のように「日本国民教護会」や「犯罪被害者の会」などの支援を受ける事は不可能ではないでしょうか。
また、無罪を勝ち取ったとしても「志布志事件」のように加藤先生が、堂々と記者会見をなさるでしょうか。お墓の前で、自然な気持ちで土下座するような、こころやさしい加藤先生がそのようなことをなさるでしょうか。先生の名誉の回復は困難でしょうし、こころの傷は癒されることはないでしょう。
一市民の私にできることは、裁判の行方を見守ることしかないのでしょうか。
非常に残念です。くやしくてたまりません。
私は、加藤先生のようにやさしく、勤勉で優秀な国民を悲しませるような国を「法治国家」と言っていいものなのか、疑問です。
中村様、私の質問に丁寧に回答してくださり、ありがとうございました。
これからも、質問をさせていただくことがあるかもしれません。どうかよろしくお願いいたします。
長くなってしまい、ごめんなさい。
いつもながら、貴重なお仕事をしてくださり、ありがとうございます。
実は今週、NPO法人地域医療を育てる会の活動に興味をもたれた議員さんたちが福島県のいわき市からいらっしゃる予定です。
福島県の医師不足問題は、この大野病院の県を避けて通ることは出来ないと思っております。
この裁判の記録を、議員さんたちに読んでいただいて、
何を思うか、議員として何が出来るのかを考えていただこうと思うのですが、資料にさせていただいてもよろしいでしょうか?
>一内科医先生
コメントありがとうございます。
社会保障に関することは
どんな些細なことでも面倒でも王道を行かないと
辻褄が合わなくなった時に回復不能な被害を生じる
ということだと思います。
誰かに任せたい、楽したい
そんな気持ちを戒めないと、と思います。
>中村利仁先生、一市民様
コメントありがとうございます。
通用しないかもしれないけれど
声を上げなかったら「異常なし」にされてしまうので
愚直に「控訴すんな」と自分にできることを働きかけるしかないと考えています。
>藤本晴枝様
コメントありがとうございます。
お役に立つなら幸いです。
どうぞご自由にお使いください。
以前、皆様にたたかれた「読者より」です。
なぜここは、加藤先生の味方ばかりなのでしょうか。
私は、事実関係は報道程度しか知りません。大半の皆さんも同じでしょう。なぜ、半年もたってから、裁判になったのでしょうか。本当に加藤先生は良心的な対応だったのでしょうか。検察官の最終弁論からは違う印象です。
中村先生のご説明は、いつも丁寧で、分かりやすいことばで、よく分かります。
しかし、人それぞれに、考え方は違います。
この訴訟で医療崩壊が進んだのは事実かもしれませんが、だからといって、それが、裁判に影響するのはおかしいと思います。
以前、川口さんが、ひとこと、もらした、掛け違いが、発端なのでしょうか。
川口様
ありがとうございます
結果は、またご報告させていただきますね。
読者より 様
まずはじめに、報道は一般的に情報を流す側の恣意的な姿勢が組み込まれているということがあります。
今回の場合、遺族・警察・検察側の情報しか流れていません。したがって報道ではいまだに「・・・失血死させたとされている・・・」などという文言となっています。残念ながらマスコミは実に不勉強で一方的な解釈しかしていないことが多いです。星新一の父親が設立した星製薬の盛衰を著した「明治父アメリカ」という小説をお読みいただくと納得するものがあります。
加藤先生に手落ちがあるか? おそらく加藤先生はご自身で、あのときああすれば、こうすればといまだに思っておられるはずです。自分が主治医だった患者さんの容態が変化したとき、それが避けられないことであったとしても主治医は後々まで、おそらく一生考え続けているものです。ですから、これは本人より周囲の方が客観的に見ることが出来るものと思います。
そして医学は、科学を根底にしていますから、一般的におかしなところがあれば露見してしまいます。産科的経過や手術経過にしても、おおよそ医師同士であれば理解可能な経過というのがあります。
ですから「人それぞれに、考え方は違います・・」ということはありえないのです。
ここで客観的にという事実に相当するところですが、現在の医学レベルに照らし合わせて正しかったかどうかと言う点が問題になります。ところが極論すれば、家の隣に総合病院があるのと砂漠の一軒家に住んでいるのとではかなりちがいます。昔は「田舎に住んでいたから長男は助からなかった」とか「救急車が来る前に息を引き取った」とか当たり前のことでしたが、今は全てが公平を求められます。
現代日本人にとって「死」が縁遠くなりすぎたことも一因かと思います。ところが医師にとっては死は身近なものです。この辺のギャップが患者と医者をさらに隔てている原因かもしれませんね。
> 読者より 様
人それぞれ考えることが違っていても、安心して医療を受けたいというのは皆さん一緒ですよね。でも、安心=絶対に助かる、と言うことではありません。そこには医学の限界があります。
そして、考えれば誰でも解ることですが、医療従事者が安心して医療ができるからこそ患者は安心して医療を受けられるのです。もし、医師が不安がっていたら患者は安心して医療を受けられますか?いまこうしたことが医療現場で実際に起きているのです。そして産科難民、救急難民など、実際に社会現象として起きてしまいました。
マスコミはこんな簡単なことも考えられないのかとは思いますが、これは現実に起きていることです。
もう一つ、良心的な対応かどうか疑問に思ったということですが、少なくとも我々は報道(これだって患者側に有利なように着色されていると考えて良いでしょう)から見てもごく当たり前の行動をとっているとしか見えませんでした。まあ、そこはとらえ方の違いでしょうが・・・。遺族に謝りに行き、毎年のように墓参りを欠かさない・・・(これが良心的な対応ではないというのであれば人間的な心の欠落と考えます)。そしていつも自責の念に駆られている(断っておきますが、自責の念があると言うこと=ミスがあった、と言うことではありません。これは医学を学んだものであれば当たり前のことなのです)
ということは、医師の良心的行動というよりも、これからの医療をどうするべきか、と言うことを我々は考えます。この考えこそ医師以外の人たちに欠落した概念だと思うのです。この考えなくしては医療は良くなりません。こう考えれば我々が訴えていることがよくわかると思います。
さらに、検察は有罪に持って行くためにあらゆる言葉を駆使します。一方、我々だって有罪になりたくない(申し訳ない結果になってしまったが、医学的に悪いことはしていないのだから当たり前ですよね。今回の件に関しては、少なくとも検察の主張をどう聞いても医学的に医師は悪くない)。だからこちらは悪いことをやっていないと言い張るしかない。それが医学が解らない人たちから見れば「悪いことをやっているのになぜ言い訳ばかりするんだ」ということになります(でも、これは明らかに間違った主張なのですが)。こういうことが医療側の印象を悪くするのかもしれません。
さらに、医療崩壊が裁判の結果に離京を与えるべきではないということですが、もし読者より様が「医療崩壊が進んでもかまわない」「別に一生医療なんて受けなくても良い」「レベルの低い医療でもかまわない」とおっしゃるのであればそれは正しい論法になるでしょう。しかし、残念ながら裁判の影響は医療と密接に関わります。もし、自分が現在ある最良の医療を受けたいのであれば裁判は影響を受けるべきではないなんて言葉は出ないでしょう。
医療というのはこうすれば絶対助かるという理論はありません。常にオプションが沢山あって、どちらを選ぶのか迷います。そして一方を選んでしまったが故に不幸な結果に陥ることもあります。あるいはどちらを選んでも不幸な結果をたどることもあります。それは神のみぞ知る領域です。でも、その失敗の積み重ねが今後の医療に影響を与えるのです。教科書に載っていない部分が解るのです。失敗したと言うことは(ご遺族には大変失礼な言い方かもしれませんが、事実なので書かせていただきます)成功の元になるのです。こうした貴重な経験をお持ちの医師を社会から抹殺することは果たして正しいことでしょうか?
もしわかりにくい部分があればその都度説明いたします。
医師は過重労働を事故の原因として免責されようなどとは思っていません。そんな医者がいたら恥さらし者です。
逆に言わないが故に事故は増えているかもしれません。過重労働を争議の対象にして安全を勝ち取った航空乗務員組合とは雲泥の差です。
ただ、「もう1人医者がいてくれたらなあ」と思うことはあります。これは休みたいが為ではなく、治療可能な幅が広がるからです。大抵の医師はこのように自分の身については除外して考えていると思います。
今回、この裁判の経過で安全確保の点から産科が撤退してきたのは自然な成り行きなのでしょう。
自分の生命を守るためには、市民を含めた事業者側が医師を心配してやったほうがよいのかもしれません。なぜなら医師が労働環境を自分で発言することは少ないですから。
「読者より」様
私の経験を書き込ませて頂いてよろしいでしょうか。
私は亡くなった患者さんと同じ、前置胎盤による大量出血で緊急帝王切開手術を経験いたしました。産まれたこどもは1000g以下でした。
ご遺族は「説明が足りない 死の真実が知りたい」とおっしゃっていましたね。私もせめて、急変する過程で、なにがしかの説明があればよかったのではないかと思います。元気な姿で手術室に入っていかれたのですから、なおさらです。
ですが、そのようなことが当時、大野病院で可能だったのでしょうか。
私の場合、手術の途中で大量に出血したため、執刀医が手術室から出てきて、非常に危険な状態であると、家族につげたそうです。なぜ、そのような説明ができたのかといえば、手術室には、約20名のスタッフがいたからです。加藤先生にはそのような余裕があったのでしょうか。
私と亡くなった患者さんの違い、それは加藤先生の責任ではなく、圧倒的なマンパワーの違いによるものなのかもしれません。つきつめていけば、ただ単に私が東京在住だったからかもしれません。
また、私は今でも恥じていることがあります。それは、自分がそのような状態になるまで、今の時代でも出産には命の危険が伴うということを知りませんでした。もし、ハイリスクになるとわかっていたら、こどもを望まなかったと思います。同じ道は怖くて、二度と通りたくありません。
公判記録を読むと、その時の様々な記憶がよみがえります。加藤先生は最善のことをなさったと思います。ただ、ショックのあまり、言葉を発する事ができなかったのでしょう。
「読者より」様、加藤先生は故意で患者さんを死なせたわけではありません。どうかそのことだけでも、ご理解いただけたらと思います。
川口様 中村利仁先生
この世には、経験した者でないと、わからないことがあるのでしょうか。加藤先生が最善をつくされたことを、国民の皆様に理解していただくのは難しいのでしょうか。昨年から、私なりに活動をはじめてみましたが、思うようにすすみません。
おそらく、今では私とこどもの救命はできないでしょう。今はその事実だけが重くのしかかります。
読者より様へ。
この事件において、患者さんの容態の変化や加藤先生が取った処置に関しての医学的見地からの議論は、医療系ブログや最終弁論で語りつくされています。
医療系ブログには医療従事者でなければ閲覧できないものもあるので、読者さまが一般人であると仮定して、新聞の報道以上のものをご覧になっていなければ、医学的な根拠で殆どの医師が加藤先生の味方についていることをご理解いただくのは難しいと思います。
そこで、わたしはボタンの掛け違いということで述べてみようと思います。
お亡くなりになった患者さんが、元気に手術室にお入りになった、そして加藤先生が患者さんのご家族にお話になったときには、患者さんは亡くなられていた。
そのギャップを患者さんのご遺族の方は、未だに埋めることができないのだと思います。
両者の話し合いの機会は充分にもたれたようですが、結局は患者さんのご家族の理解を得ることはできなかったようです。
今までの裁判での経過のなかで、特に弁護側の最終弁論を聞かれて、もしかしたら患者さんの死は医療が介入しても避けられないものだったと、やっとご理解していただけたかもしれません。なんとも言えませんが。
そうあってほしいと思います。
しかし、頭で理解してはいても、心では許すことはできない、というのは家族をなくされたご遺族の方に共通のことだと思います。
だからこそ、刑事事件化して厳罰を要求しているのでしょう。
スウェーデンなどの北欧諸国やフランス(ごく最近から)やニュージーランドは医療事故の刑事事件化や民事事件化をシャットアウトしています。
法律で、患者サイドから裁判を起こせないようにしています。
長く裁判が続いても、患者さんの納得のいく結果が得られないことも多いからです。
そのかわり、医療側と患者側が第三者を交えて話し合い、和解して、その結果、過失があってもなくても患者側に保障金が支払われます。
これらの国では公的医療や福祉が充実しているので、支払われる保証金は多くはありません。
無用に裁判を起こして不毛の論争を続けるよりは、このほううが将来の医療安全につながるからです。
yama2様、一内科医様、一市民様
丁寧なご説明ありがとうございました。
今後、患者にとっても、医療者にとっても、よりよい医療の体制へとなっていくといいですが。
一市民様。
>昨年から、私なりに活動をはじめてみましたが、思うようにすすみません。
ご存知かもしれませんが。
周産期医療の崩壊をくい止める会
(事務局)
東京大学医科学研究所探索医療ヒューマンネットワークシステム部門 上昌弘先生
http://plaza.umin.ac.jp/~perinate/cgi-bin/wiki/
メールアドレスはこちら↓
perinate-admin@umin.ac.jp
ご連絡をとってみたらいかがでしょうか、一市民様のように生死を分けるようなご経験をされたかたなら、きっと産科医療のお役にたっていただけると思います。
読者より 様
このような書き込みをすることは、匿名であっても勇気にいることです。ですので、お礼の言葉をいただき嬉しく思いました。
対話の積み重ねはとても大切なのですね。こちらこそ、ありがとうございました。
hot cardiologist 様
お声をかけていただき、嬉しく思います。またがんばってみようと思いました。
今回のことで、実を結ばなかったのは、私の中途半端な正義感と覚悟のせいだと反省いたしました。
加藤先生だけでなく、ご家族の生活もあります。ご家族の精神的・経済的な負担は、そろそろ限界ではないでしょうか。私にできることがありましたら、お手伝いさせていただきたいと思います。
中村利仁先生
私は以下のように考えますが、甘い期待でしょうか?
判決:無罪
検察:控訴せず、確定
理由:元検弁護士のつぶやき
2006年10月 4日のブログによれば
”どうも、あの事件は、福島地検の次席と検事正が(つまり検事正がということになると思いますが)、上級庁(つまり仙台高検)と何の相談もなく逮捕しちゃったらしいです。 あの事件の逮捕が不当逮捕である、つまり逮捕の必要性がなかったという点では、検察庁の多数意見だろうと思います。
また、事件の社会的影響を考えれば、当然上級庁に対して少なくとも事前報告をすべき事件だったと思います。
つまり、当時の検事正のできが悪かったのが最大の問題と言えるかも知れません。”
また、医療法務弁護士グループ代表 井上清成氏は
”小松秀樹氏の著書『医療の限界』(新潮社)によれば
「06年9月13日、但木敬一検事総長は、・検察長官会同で、犯罪に対する厳罰化を訴えました。
報道されませんでしたが、『医療過誤・飛行機事故などはこれまで被害者の利益を考えて刑事責任の追及を行ってきたが、国民や社会全体の利益の観点に立って、原因追究や事故防止のためにどういう枠組みがいいのか検討すべき時期にきている』という趣旨の発言もあったと伝えられています。これが本当だとすれば(97ぺ一ジ)」、医療界の一致団結した声が警察\\\'検察を動かし始めたと評価できるであろう。
そして今、裁判の行方が注目されているが、もしも裁判所がその方向を誤れば、さらなる医療界からの抗議・批判にさらされ、まさしく司法の危機を招来しかねない。” と述べておられます。
コメントが偏っているので、あえて指摘させていただきます。日本の裁判においては、いまだ自白至上主義的傾向が強く、K医師にとって非常に不利な材料が揃っています。公判での医師証言なども、皆さんの想像に反し、むしろ裁判官の心象を悪くしている可能性があります。また求刑の軽さをして、検察側の「弱気」を指摘する方が多いですが、そもそも業務上過失致死の法定刑は最長五年であり、他の罪状との比較からすると求刑一年は妥当ともいえます(やや軽いなといったところでしょうか)。また裁判官と検察にはある種の馴れ合いがあり、検察の顔を立てるケースはよく見られます。問題がこじれた場合、上級審に預けてしまえという裁判官心理が働くことも多い。判決がどのようなものになるのかはわかりませんが、皆さんが考えているよりも状況は厳しいと思われます。なんらかの量刑は科されるのではないかという印象を持っております。
知人に確認を取ってきたので追記します。彼の口から真っ先に出てきたのはやはり99年に起きた都立広尾病院事件でした。この件でも医師法21条と、憲法38条との関連がひとつの争点になりましたが、知人いわく、下級審において医師法21条と憲法38条を持ち出すのは、むしろ問題を複雑化させる可能性があるとのことでした。すわなちこのようなことに関する判例を下級審が下すことは難しく、であるならば曖昧な判決で上級審へ送ってしまえという裁判官心理を刺激してしまう可能性があり、弁護士にとっては非常に魅力的な筋論ではあるけれど、裁判そのものには不利に働く可能性があるとのこと。また各種学会のガイドライン作成の経緯、および現状での運用を考えると、医師法21条は広義に運用されているようなので(この点に関しては知人も古い情報しか持っていませんでした。実際はどうなのでしょうか?)、それに従うならば広く取るべきであろうとのことでした。さきほど軽く調べてみましたが、いくつかの大学で医師法21条に関するシンポジウムが開かれているようですが、そこでも同様の文言が散見されました。これが実態であるならば、いかほど立派な弁論であろうと、逆効果になった可能性もありえます。またk医師はマニュアルに沿って行動し、主体となる院長が報告する必要がないと判断したがゆえ、k医師に非がないとする論理展開も、この時点でk医師が虚偽の報告をした可能性を、当然検察側、裁判官側も考えるはずで、これをもって是とするのはいささか安易です。論として粗さを感じる。
あえて苦言を呈するようなまねをするのは、特に医師が集まる掲示板において、理由なき楽観論が場を支配しているように感じるからです。わたしは一学生として興味深く眺めているだけですが、その一学生の立場からしても、あまりに見方が甘いのではないかと。わたしのような若輩が、こんなことを述べるのは失礼かもしれませんが……。
法の場を支配するのは、極論するならば理ではなく、理と思われるものの積み重ねです。法律の文言自体は現場を支配しません。そのような感覚から見たとき(おそらくこの感覚は他分野の方には理解しにくいことだと思いますが)、楽観はやはりできないのではないでしょうか。
>法学生様
コメントありがとうございます。
非常にシンプルな原理ですが、法は社会に優先しません。
社会が必ず先に存在します。
この裁判で問われているのは
もはや法というサブシステムの論理ではなく
この国の司法というサブシステムが
社会というメインシステムと折り合いをつけられるかどうかということであり
もしサブシステム内の論理の整合性に固執し
メインシステムを壊すのであれば
強制的に変革を迫られるであろうということです。
かつて医療というサブシステムも変革を迫られました。
それと同様のことが起きており
そのことに司法も立法も気づいていると思います。
川口様のコメント、まことにそのとおりであると思います。法とは、社会を円滑にするための道具であり、まさしくサブシステムでしょう。しかしながら法廷という場においては、法は社会を超越します(そうでないケースもあるのが残念ですが)。そしてそのような論理に照らしたとき、必ずしも理想的な判断が下されるわけではないのです。それはひとつの儀式であり、ゲームです。検察とは有罪というエンディングを迎えるためのシナリオライターでもあるのです。ひとたび起訴されれば、99パーセントの確率で有罪判決が下されるのが現状です。ただ川口様が指摘したように、いくらかの変革は起きているようで、その兆候はわたしの耳にも届いています。それは別のゆがみを生んでもいるのですが・・・。べき論はもちろん大切ですし、わたしも無視するつもりはありませんが、なぜ高等教育を受けたみなさんが、こうも安易に楽観論に支配されているのか、とても不思議に感じます。なにかしらの情報を得てのことなのでしょうか。
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