後期研修班会議4(2) |
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投稿者: 川口恭 | 投稿日時: 2008年11月21日 20:40 |
逐語報告しなきゃいけないものが溜まりすぎて
(ついでに本業も大渋滞)
何が何だか分からなくなってきた今日この頃だが
週末を利用して、少しでも「負債」整理に励みたい。
まずは、これ。(その1)
外山
「日本の脳外科が幅広いのは承知しており米国と一緒にやれというつもりはない。卒後研修と専門医との問題の共通項を見直さないといかん。手術症例をたくさん経験している医師をつくれば、さらにもっと良くなるんでないか」
嘉山
「私は2000例と有数の症例数を経験しているが、10年目までは1例もやらしてもらえず、そこから一気に増えた。そこに来るまでに淘汰されるのだが、みんなで診ている中でセレクトは曖昧にされる。でないと術後管理をやってくれる人がいなくなっちゃう。この日本の風土は患者にとってはよいことだと思う」
土屋
「淘汰された残りの方はどこへ行ったのか」
嘉山
「易しい手術をやっている。神経リハビリに回った方もるし、神経麻酔科医になっている人もいる。手術にしても外傷とか急性期とか色々あるから。とんでもない難しいのはセレクトされた人間だけがやっている」
海野
「脳外科にしても心臓外科にしても、米国に比べても人数割が多いのは私から見れば一緒。小川先生が指摘された地方の問題に関して、ひとつのアイデアとして家庭医・総合診療医というのが助けになるんじゃないかということと、もう一つ地域の基幹病院に対する大学病院の派遣機能が削がれている現状をどうするのかという二つの考えることがあると思う。地域にそういう病院が絶対に必要であること、それは動かない。そこで小川先生に伺いたいのは、産科とか小児科とかが少ない診療科間の偏在については、どのような解決策があるとお考えだろうか」
小川
「これは難しい。特効策は基本的にない。一つはインセンティブ。インカムもあるだろうが、しかし今はインカムだけでは全然ダメ。正常な生活を営めることが大きなファクター。田舎の公的な病院で小児科を標榜しているようなところで医師3人だとすると、3人いれば多い方だけれど、外来が終わって当直に入って1時に1人、3時に1人、5時に1人患者がやって来て、8時になったら250人待っている、それが終わってもまた同じこと、こんなのが3日に1度回ってくる。1人でも辞めたら3人とも辞めざるを得ないのは目に見えている。今開業する人たちの多くがお金が儲かるからじゃない。このまま働かされたら死んじゃうから、家族を顧みない生活が限界だから。昔は自宅と診療所が同じ開業医がほとんどだったけれど、今は必ず離して夜間の責任は負わないようにしている。病院からあと1人でもいなくなったら病院の機能が絶えるというギリギリの状況なんだ。地域のお医者さんは宝なんだと住民と一緒になって医師を守ってくれないと、もはや我々だけではどうにもならない。その意味では大阪だかどこかのお母さんたちが小児科を守ろうと活動してくれたという話は元気づけられた」
嘉山
「科の偏在については根が深い。アメリカでも一番難しい手間のかかる医療はインドやイランから来た人がやっている。アメリカで一番人気があるのは耳鼻科。医療界だけの問題じゃなくて、困難な科に行くことをリスペクトする社会じゃないと、そういう科にはいかない。産婦人科だって、今急に減ったわけじゃなくて少子化で需要が少なくなるという話が報じられるようになった途端に減り始めた。社会全体で取り組まないと直らない。マスメディアの皆さんもその辺考えて筆をふるわないと将来業務上過失で捕まっちゃうよ」
渡邊
「高齢社会では全人的医療のできる医者が求められていると思う。それなのに日本は専門分化が進んで逆行している。小川先生の地域の理想の医師像というのは、我々が考えていた家庭医そのものであり、家庭医は素晴らしいという話をしてくれるのかと思ったら、その増員には反対だと言うので大混乱している。家庭医の定義をどのように考えているのか」
小川
「理想の地域の医師と家庭医というのが実態としてイコールであるならば、それで構わない。ただ単にインカムの問題で専門性が必要と考えるならば、アメリカのファミリープラクティスはそれではない。それを指して育てようとしているのなら、国民の要求と乖離しているのじゃないかと思う。ぜひ定義を明らかにしてご議論いただきたい。日本医師会、プライマリケア学会、定義が全部違う。定義してから進めないと混乱する」
有賀
「大学院大学のタテ割について。昭和大でも4月から一緒くたの大講座制にして、救急も生き死にかかわらない程度の分はその大講座の中に入れてしまった。その中でグルグル回れば相当幅広く診られるような仕組みはつくりつつある。医学部長病院長会議として、内科学の体系は全体としてそのような方向性にあるのだろうか。もしそれでうまくいくなら医学部の途中で国家試験を入れて、そのまま臨床研修のようなこともできると思うのだが」
嘉山
「大学によって温度差がある。山形大では私が学部長になってすぐ内科を分けるのをやめた。そもそも自然現象を勝手に人間が区分けしているだけだから。治療は専門でできなくてもよい。診断、どういう治療が必要かさえ判定できれば用は足りる。わりばし事件も、プライマリーケアとしては満点だった。しかし今何が必要かということの想像力が足りなかったから問題になった。医療界だけじゃなくてマスメディアも会社も全部、人間力がないので自分の知っていることしかできないのが問題だ」
有賀
「全体としてモディファイされる?」
嘉山
「検討会で福田先生にまた元に戻っちゃったんじゃないかと言った位、大学の授業がアドバンスドコースになっていてコアを教えていない。山田さん(?)あるいはハリソンの診断学のようなものをきちんとやってない」
有賀
「全国のたくさんの大学の内科の先生たちが必ずしもそういう方向じゃないとすると、やはり専門医として何とかするしかないのだろうか」
嘉山
「いくら言っても、各大学の学部長が2年とか4年で代わっちゃって、いくら意識統一しても元の木阿弥になっちゃう。そうは言っても10年前に比べれば大学も変わってきている」
土屋
「2つだけ。地域の理想の医師像に専門性が入っているが、大都会で開業する時にはインセンティブになると思うが、1人診療所では専門性の発揮しようがないということ。大学へ戻るキャリアパスはあるのだろうか」
小川
「開業する時には皆結構な歳。専門大得意ですよ、この分野なら盛岡まで行く必要ありませんよというのと、専門医に回して診てもらってから帰してもらってというのとが判断できればいいだけ。都会も田舎も変わらない」
土屋
「研究する心が大事というのはその通りだと思う。では、大元の大学院で、文部科学省のがん専門プロフッショナルのような職業人を育成するという時に授業料を取るというのはいかがなものか、むしろレジデントのように給料を払いながら養成するべきなんじゃないか。大学院どういう使い方があるだろうか」
嘉山
「あれはものの見事にやられた。がんプロは一番もらったところで9700万円、これが3大学、少ないところは12大学で5000万円だった。あれでどうやって教育しろというのか。とんでもないプログラムだった。日本の大学院の一番の欠点は片手間ということだ。ウチは講義も試験もやる。学者としての専門家を育てるということを考えたら当然必要だ」
小川
「先生のおっしゃったことは重要。個人的見解だが、単に学位をあげるという場なんじゃなくて、色々な意味での生涯学習の場になるんじゃないか。それができるかどうかは、高等教育費が少なすぎる現状では具現化するのが難しい。医療費と教育費の抑制を改善しないと難しい」
土屋
「あっという間に時間が過ぎてしまった。お互いに消化不良だろう。大変お手間だが再度お越しいただければと思う」
(了)