「とりあえず謝」らなかった佐藤教授。 |
|
投稿者: | 投稿日時: 2009年03月06日 09:07 |
すこし前に、2回にわたって、医師の謝罪会見についての私見を書かせていただきました。たまたまテレビを見ていてふと違和感を覚えたことがきっかけだったのですが、そのコメントの中で、「とりあえず謝ってしまえ!」という風潮(?)について触れました。
それについて、あとから思い出したのは、くい止める会の代表を務めておられる佐藤章教授(福島県立医科大学産婦人科)でした。佐藤先生は県立大野病院事件に関して終始、毅然とした態度で望まれ、けっして「とりあえず謝る」ことはありませんでした
私は「とりあえずできるだけ早く、一番偉い人もしくは張本人が表に出て謝ってしまえ」みたいな謝罪会見が増えている、と書きましたが、おそらくこれは、経営学かなにかから出てきた発想(リスクマネジメント等)かと思います。結局、そうすることが事態を見かけの上で収拾するのに一番手っ取り早く、ダメージが広がるのを最小限にとどめることができ、広い意味でのコストを抑えることができるのでしょう。
しかし、その謝罪はときに、結果的だったとしても、真実から目をそらさせるまやかしや、ごまかしとなることはないのでしょうか。まして医療においては、結果として不幸な転帰をとられたケースでも、その原因が本当に過失等の事故によるものなのか、判断が難しく、時間をかけた調査が必要になることもあるでしょう。それを上記のような理由でとりあえず謝罪だけして済ませようとすれば、それこそ大きな問題です。
さらに福島県立大野病院事件では、「(訴訟を避け、)医師賠償責任保険で遺族への補償を賄いたい」という県の意向に沿うかたちで、早急に報告書がまとめられました。「遺族のサポートのため」という名目で、十分な調査も議論もなく「過失」が認定されたのです。しかしその結果として、遺族はより傷つくことになってしまいました。
佐藤教授にはそのあたりの歪んだ事情が、手に取るようにわかっていたのだと思います。そして、福島県立医大という県の組織に属しながらも、医師として正しいと信じることを訴え続けました。その姿勢が、全国の多くの医師の共感を呼び、正しいことを求めるだけでなく発信していこうという取り組みが広がり、その結果、しだいにマスコミや国民の理解を得ることにつながったのだと思います。
もちろん、くい止める会もその一翼を担いました。公判を追い、情報発信を続け、議論を喚起しました。そうして無罪判決を迎え、医療側からの発信に一定の手ごたえを感じた会は、情報発信を継続しながらも、次なるステップを踏み出しました。「妊産婦死亡した方のご家族を支える募金活動」です。募金の意義等については前にホームページを引用してご紹介しましたが、さらにその向かうところについて、次回書いてみたいと思います。
<<前の記事:妊娠の心得 筋腫治療5:手術前検査と入院準備:次の記事>>
コメント
堀米様
堀米様が書かれているように、日本人の謝罪は、形式的で責任逃れな場合が多いのは事実です。
その一方で、堀米様も御存知と思いますが、ハーバード大学では
「When Things Go Wrong Responding To Adverse Event
A Consensus Statement of the Harvard Hospitals」
というマニュアルが作られています。
このマニュアルには「医療事故が生じた場合には、過失の有無にかかわらず、真実を説明して、謝罪すべきである」と書かれており、この日本語翻訳版は全国の社会保険病院でも採用されたと新聞記事で読んだことがあります。
私個人も、このマニュアルには共感するところが多くありました。
つまり、大事なのは謝罪するかどうかではなく、どのように謝罪するかだと思います。いかがでしょうか。
>島田直樹さん、
貴重な情報提供をありがとうございます。島田さんがご指摘のとおりだと思います。私は言葉も足りませんでした。
私が疑問を持つのは、“「真実を説明」することなく「とりあえず謝ってしまえ」という姿勢”です。しかも、主に記者会見等、世間一般に対してその必要があるのか、ということです。
以前も書いたように、私が被害者なら、医師に過失があったときは、その過失の責任を当人が負うかどうかは別として、もちろん本人にも謝ってほしいはずです。問題は医師本人に過失がなかった、あるいは綿密な調査の上でしかその点について判断できない場合ですが、それでも島田さんのご指摘のとおり、医師が被害にあわれた患者やその家族に謝ることは、あってしかるべきだと思います。
それは責任等の問題というよりも、それこそグリーフケアの観点からです。
今、医療訴訟が増えているのも、ご紹介いただいたマニュアルにある「真実の説明」と「謝罪」が欠けている結果です。でも訴訟を起こしても本当に原告が求めているものが得られるかというと、そうとは限らないようです。むしろ訴訟によらずとも得られたはずのものがある――それが医師による真実の説明と謝罪ということですよね?
それに私は、日本人は本来、「相手が謝ったらそれで許す」という文化を持っていたはずだと思うのです。だから「sorry法」のようなものもいらなかった。それを逆手に取って世間一般からの追求を逃れようというのが「とりあえず謝る」ことです。しかし、それについては謝るほうも、それを当然のように受けるほう(マスコミ・それを求める世論)にも問題がある。「真実の説明」が抜けているというだけでなく、患者と向き合う姿勢とは別物だからです。そもそも謝るときは「相手の目を見て」と教わったはず。「謝ったら許す」のは、そこに誠意が込められているからこそですよね。
ただ現状では、「謝罪も責任追及の材料とされかねない」なんていう声が、あるいは上がってくるかもしれません。たしかに、患者が医療側に端から偏見や不信感を持っている現状では、患者側だけでなく医療側も疑心暗鬼になり、防御優先の姿勢となりかねません。
しかしそれでも、そんな現状を打開するには、情報公開はもとより、やっぱり担当医からの謝罪とその姿勢が必要なんだと思います。それこそsorry法が必要でしょうか? 私は、責任追及されるかどうかも、十分な「真実の説明」と「謝罪」、その質如何だと考えます。
そして一方、患者側も、日ごろからモラルある受診を心がけていくことは必要です。そうして少しずつお互いが歩み寄ることでしか、信頼関係は回復できないと思うのです。
堀米様、島田様、
ハーバードのマニュアル、原文の方は共感できるものなのかもしれませんね。ただ、日本語翻訳版やそれを取り上げた記者の報道姿勢の方は現場の臨床医からの批判が多かったようですよ。
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20090113
http://nuttycellist.blog77.fc2.com/blog-entry-991.html
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/weblog_eye103/details.php?blog_id=692
それを踏まえての堀米さんの記事かと思って拝見しておりました。
>医学科6年生さん、
いろいろな意見をご紹介いただきありがとうございました。やはりハーバードの原文のほうは、さすがそういうことにシビアな(裁判大国という事情から)だけあって、表現にあいまいさんがなくてわかりやすいですね。
一方、日本の全社連の指針とそれに関する新聞報道は、ざっと読んだだけだとちょっと混乱します。いろいろなところで指摘されているように、やはり「謝罪」と「遺憾」という言葉、それぞれがきちんと使い分けられていないことも大きな問題のように感じました。(そう思うと、日本の政治家はそういうこと、上手にやってきていますね。「遺憾の意」は彼らの常套句ですから。)
ただ、現場での実際の言葉遣いとなると、これはまたちょっと別の話な気がします。もし「遺憾」と「謝罪」の使い分けが明確に規定されたりしたら、現場での言葉遣いまで事実上マニュアル化されたようになってしまって、それこそ被害者や遺族には伝わらないし、意味がない。やっぱり大事なのは誠実な対応であり、心から発せられる言葉です。そして患者側もその揚げ足を取るようなことはやめたいですよね。となるとやはりお互いの信頼関係が大事、ということになるのですが、長期にわたる治療でなければ個人的な信頼関係が築かれることはなかなかありません。そこで結局、これから医療界が世間一般に向けてどれだけ信頼を取り戻せるか、ということにもなってくるんですよね。
それにはもちろん医療側からの働きかけも大切ですが、それだけでは難しいでしょう。そもそも医療への信頼が失われた過程には、医療側だけが関わっていたわけではないですから・・・。となると考えるべきはやはり、医療側やその周辺で起こしたアクションをいかにまわりに広げていくか、という点なのかもしれませんね。