ちなみに、死因統計の話。

投稿者: | 投稿日時: 2009年04月10日 13:30

昨日のエントリー(「死因究明は、生きている私たちのため」)に引き続き、死因究明に関する話です。昨日は主に、医療界で論争が今も続いている“診療経過責任追及のための死因究明”でなく、“病院外死”について、書かせていただきました。今日は、そういった個別の話でなく、それらをひっくるめた「死因統計」の話です。


というのも、異状死関連でネットサーフィンをしていたら、興味深いブログエントリーに出会ったのです。やっぱりちょうど一昨年、この話題が盛り上がっていた頃に書かれたものなのですが・・・。


【日本の死因統計のいいかげんさ】
(ブログ名:法医学者の悩み事 byももちゃん)

さっそく内容を一部引用させていただきますと、

【・・・日本の死因統計の年次推移を示したグラフを見ると、1990年代のある年に、心疾患の数が急減し、脳血管疾患に逆転されている。この年に心臓疾患の特効薬が発売されたのかといえば、そうではない。これは、厚生労働省が、死亡診断書、死体検案書の欄に心不全とはなるべく書くなと指導した結果、急激に心疾患が減ったというものだ。(中略)多くの変死事例が、心不全とされていたのだが、その診断名がかけなくなったので、心疾患の数が急に減り、くも膜下出血などの脳血管疾患の診断を書くものが増えた。それで、逆転が起こったのだ。しかし、死因診断が適性になったためのに発生した現象ではないところも問題だ。このように日本の死因診断は、解剖を経ずに出したいい加減なものであるので、世界的に信用されていない。また、このような死因統計で公衆衛生政策を立てられるはずもない・・・】


「1990年代のある年に・・・厚労省が・・・指導した結果」というのが気になって、何が起きたのか、もうすこし調べてみました。


すると、国立がんセンターの がん情報サービスというサイトの中に、冊子「がんの統計」(財団法人がん研究振興財団)のバックナンバーを紹介したページがあり、そこで「これか」という事象を説明している資料に出会いました。

心疾患以外にも、ご紹介した上記ブログエントリー内にあったグラフに現れていること、いないこと、いろいろ起きていたようです。まとめると、


①日本では、死因分類は1995年から「ICD-10」(「第10回修正国際疾病、傷害および死因統計分類」のこと。WHO加盟国で疾病等の分類を共通化するもの)を適用。それ以前のICD-9とICD-10では内容等に違いがある。
②さらに同年、厚労省が死亡診断書の様式を改訂。

⇒これにより、死因統計には以下のような変化が生じました。

①に関連して、
・肺炎による死亡数が減少・脳血管疾患が増加
・肝硬変による死亡数が減少・肝および肝内胆管の悪性新生物が増加
・がんの転移部位別死亡数が変化

②に関連して、
・死亡診断書に「疾患の終末期の状態としての心不全、呼吸不全等は書かないでください」という注意書きが追加された。
・それにより、1994年以降の心不全の記入が減少、心疾患全体としても減少。
・糖尿病による死亡数の増加。


と、いうわけで、死因統計を読む時にはそのあたりを念頭においておく必要があるようです・・・と言ってしまえばそれだけのことなのですが、こういうことがあると、死因分類のあいまいさがあらわになるのですね。


気になるのは、分類名があいまいなだけならいいのですが、実際に死因を推定する過程自体が適当なことが多いのじゃないか、ということです。なんだかよくわからないものは、とりあえず「心不全」にしておけばよかった、なんていう状況が目に浮かびます。ももちゃんさんも書いているように、やはり解剖をしない以上、厳密に判断しようとしても無理があるのは素人でもわかります。

ただ、昨日もコメントをいただいたように、死因究明といっても最期を迎える状況には犯罪性がなくともいろいろ想定できます。自宅で安らかな最期を迎えても、さらに解剖が必要というのはナンセンスでしょう。


結局、こうしたことについての国民の関心が低くて、コンセンサスどころか、議論がほとんどなされていないことが一番の問題に思えます。病院で最期を迎える人が増え、核家族化が進み、昨今の日本人は「死」の存在を忘れて、あるいは考えないようにして生きています。その感覚が、がんをはじめとする医療や、医療者との関係にも影響を及ぼしているように思います。

あらためて、健康な私たちも、健康な今のうちから、「死」ときちんと向きあってみないといけないんでしょうね。


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コメント

死亡統計は日本だけがあやふやなの?

日本の死亡統計に堀米さんが書かれた通りの問題点と、これまでの経過があることは事実です。ただ、日本だけがあやふやなのかといえば、全然そんなことはありません。すべての死亡された方を解剖している国を私は知りません。いえ、同じようにあいまいな定義で死因を同定している国がほとんどです。外国の病院を見学された方は、その制度の説明を受けて素晴らしい仕組みのように考えるのでしょうが、村々を訪れて、どのように死亡された方の診断をしていくのか、見られた方はいったいどれぐらいいるのでしょうか。ICDは第8版以降急激に詳細度を増しましたが、ヨーロッパ各国では病院でしか使われていません。しかも医師は病名をつけることにかなりいい加減で、ICDに準じた診断よりも学会の診断名を優先しているように見受けられます。そこでコーダーと呼ばれる人たちがカルテをじっくりと読んでICDの病名を決定しています。コーダーは病院にしかいませんし、家庭医はICDを使わずICPCという病名集を使っている国が多いので家庭医が看取った方々の死亡診断病名はICDではありません。

分類があいまいな事は別に問題ではありません。死因の解明が病態の解明に、そして医学の進歩に寄与する、ごく少数の方の死因は本当に貴重なものです。しかしごく普通になくなられていく方々の病名がICD-10の詳細な診断でなされる必要性は全くないと思います。詳細な診断、厳密な診断には当然それだけたくさんの費用が必要になります。医師の直感に任せれば死亡診断のための費用は安く済みます。統計は必要以上に細かいことも、あまりに荒いことも、どちらもだめです。
少なくとも心不全に関する方針転換は非常に重要な、良い改革だったと思います。以前のデータとの継続性は確かに失われましたが、死因統計を見直すきっかけとなりました。
現在糖尿病は非常に関心の高い分野です。そこで死因の中のどれかの欄に糖尿病と書いてあれば全て拾い上げています。これはがんと同じ扱いです。通常の病名は主たる死因以外統計を取っていません。糖尿病とがんについては死者の有病率を調べているのです。

>少なくとも心不全に関する方針転換は非常に重要な、良い改革だったと思います。以前のデータとの継続性は確かに失われましたが、死因統計を見直すきっかけとなりました。

死因統計を見直すきっかけとなったことは確かですが、心不全のほかにはその後の死因統計改革が学問的に発展せぬうちに内因死と外因死・病死と異状死の境界の混乱を招き、病死の責任追及の風潮が生まれて今社会問題となっている医師法21条解釈の混乱が惹き起されたように思います。この現状を鑑みて心不全ひとつの改革を行なったことで死因統計改革全体がストップしている以上「良い改革『だった』」と総括するのはいまだ時期尚早の感があります。

> ふじたんさま 前々期高齢者さま

大変勉強になります。

まず、ふじたんさんがおっしゃる「しかしごく普通になくなられていく方々の病名がICD-10の詳細な診断でなされる必要性は全くないと思います。詳細な診断、厳密な診断には当然それだけたくさんの費用が必要になります。医師の直感に任せれば死亡診断のための費用は安く済みます」というのは、まったくもってそのとおりと思います。私も死因があいまいなことは、それほど気にしません。学者でもないですし。ただ、上にも書きましたように「実際に死因を推定する過程自体が適当」だとやっぱりいやだなあと思うのです。

そういう点とも関連して、もし前々期高齢者さんのおっしゃるように、統計の「内因死と外因死・病死と異状死の境界の混乱を招き、病死の責任追及の風潮が生まれて今社会問題となっている医師法21条解釈の混乱」の一端ともなっているのであれば、ちょっと見逃せません。

いずれにしても、全ての死亡事例について、100%的確に死因を特定することは不可能ですが、せめて医師が確信が持てなかったり、なにかおかしいと少しでも思ったときに、事後的にも確認できるよう、手軽に資料が残せるような体制(医師にとってそれがマイナスに働くようなことのない状況や風潮を含めて)を作っておいても良いのではないでしょうか?

死因を事後的に確認できる資料はありえません。

カルテや検査値を見れば、死因を「推定」出来ることもありますが、本当のところはわかりません。少しでもわかりたいと思えば解剖するしかありません。(とりあえずチームバチスタで有名になったAIは省きます)死因を求める解剖には病理解剖と司法解剖がありますが、その内容はかなり違います。主病名が正しかったか、その疾病がどの程度進行し、他の臓器にどの程度影響していたか、見落としていた疾病はないのか、という観点から解剖するのは病理解剖です。疾病の自然経過の中で死亡した場合には病理解剖が死因究明の最も有力な手段です。司法解剖は病理解剖とは全く別の観点の、疾病の自然経過では起こりえないことが何かないかという観点で解剖します。司法解剖と病理解剖では、解剖できる資格も違います。いずれの解剖でも死因が分からないことも稀ならずあります。たとえば「乳幼児突然死症候群」という病名は「死亡原因が不明な、乳幼児が突然死ぬ状態」です。

西洋医学において、死因の究明が病態推移の理解を深め、急速に医学を発展させたことは間違いないことです。従って医師にとって病理解剖を行うことは非常に重要なことです。AI(死体に対するCTなどの画像検査)でわかることは病理解剖に比べればほんのわずかでしかなく、「やらないよりやった方がまし」程度の事だと私は思います。

しかしこういう解剖は、「残された家族にとってどれぐらい意味があるのか」ということになると、ほとんど意味はないでしょう。80歳で死んだ男性が老衰であっても、肺がんであっても、がん保険に入っていた場合以外は何の違いもないでしょう。家族にとっては、亡くなられた方が苦しまなかったか、家族が納得できる経過で死亡されたのか、が問題なのだと思います。死に至るプロセスをしっかりと支えてあげられる医療を考えずに、死因究明第一に考えるのは本末転倒だと思います。

死因を事後的に確認できる資料はありえません。

カルテや検査値を見れば、死因を「推定」出来ることもありますが、本当のところはわかりません。少しでもわかりたいと思えば解剖するしかありません。(とりあえずチームバチスタで有名になったAIは省きます)死因を求める解剖には病理解剖と司法解剖がありますが、その内容はかなり違います。主病名が正しかったか、その疾病がどの程度進行し、他の臓器にどの程度影響していたか、見落としていた疾病はないのか、という観点から解剖するのは病理解剖です。疾病の自然経過の中で死亡した場合には病理解剖が死因究明の最も有力な手段です。司法解剖は病理解剖とは全く別の観点の、疾病の自然経過では起こりえないことが何かないかという観点で解剖します。司法解剖と病理解剖では、解剖できる資格も違います。いずれの解剖でも死因が分からないことも稀ならずあります。たとえば「乳幼児突然死症候群」という病名は「死亡原因が不明な、乳幼児が突然死ぬ状態」です。

西洋医学において、死因の究明が病態推移の理解を深め、急速に医学を発展させたことは間違いないことです。従って医師にとって病理解剖を行うことは非常に重要なことです。AI(死体に対するCTなどの画像検査)でわかることは病理解剖に比べればほんのわずかでしかなく、「やらないよりやった方がまし」程度の事だと私は思います。

しかしこういう解剖は、「残された家族にとってどれぐらい意味があるのか」ということになると、ほとんど意味はないでしょう。80歳で死んだ男性が老衰であっても、肺がんであっても、がん保険に入っていた場合以外は何の違いもないでしょう。家族にとっては、亡くなられた方が苦しまなかったか、家族が納得できる経過で死亡されたのか、が問題なのだと思います。死に至るプロセスをしっかりと支えてあげられる医療を考えずに、死因究明第一に考えるのは本末転倒だと思います。

死亡診断書のタイトルを良く見ると「死亡診断書(死体検案書)」となっています。

病院で患者が亡くなる場合、その患者の病状をよく知っている主治医が死亡診断書を書くことが大半でしょうから、わりと正確に死亡原因が書かれると思います。

一方、孤独死や屋外で死体で見つかった場合などは、その仏さんを知らない医師(監察医、法医学、病理医或いはその時可能な医師など)が死体の状況を診て、場合によっては解剖を行って死因を特定しようと試みます。他殺のような事件性を思わせる場合には、後々の裁判の証拠にもなるので特に慎重に検案が行われると思います。

がんであれ、心臓病であれ、脳卒中であれ、およそ人が亡くなるときの最後は、心不全や肺炎(主に誤嚥性?)、多臓器不全、腎不全などに陥るので、その意味では心不全や肺炎などが「死亡の原因I」の「(ア)直接死因」の欄に記載されること自体は間違いではないと思います。

その直接死因の原因として「(イ)(ア)の原因」、さらにその原因として「(ウ)(イ)の原因」などと続き、直接には死因に関係しないがI欄の傷病経過に影響を及ぼした傷病名として「死亡の原因II」までありますので、カルテに書かれている主傷病名など、その患者が死亡した時の主たる病気は必ずどこかに記載されるようになっています。

集計する側も単に機械的に心不全だ肺炎だと処理するわけではないので、死亡診断書を記載する側がきちんと書けば反映されると思います。

なお、死亡診断書の様式はWHOが各国に示しているらしく、日本もそれに従っていると聞きました。また、ICD分類は100年程前に決められた分類を元に発展しているので、現在の臨床現場では必ずしも使いやすい分類ではないとの話も聞きます(例えばウイルス肝炎の分類されている場所など)。

最後に死亡後の病理解剖の話ですが、あれは色々な意味で医者を成長させると思います。生前の医師患者関係がうまくいっていて、そのことを家族もよく承知していて、なおかつ生前見舞いにも来なかったような遠い親戚が横槍を入れないという条件などがあって初めて病理解剖の話を切り出せるものです。

亡くなったばかりの患者の遺族にその話を切り出すのは、医師側も結構辛いものですし、先日まで意思疎通できていた患者が標本となっていくことに生命の儚さや因果な商売だなぁという感慨など、人それぞれ感じる部分があり、こういうことことが巡りめぐって良い医師をつくっていくのではないかと私は思っています。

ICDと死亡統計

確かにICDの起源は1900年に遡ります。WHOが管理するようになったのはICD-6からです。ICD-7までは死亡統計にしか使えないものでした。約1000しか病名はありませんでした。ICD-8から急激に病名が増えました。そして診療にも使えるように「死に至らない疾病」も「診断が下せず症状を書くしかない状態」も収載されるようになりました。

統計上の都合もあって、死因分類は、直接死因(ア)だけが統計処理されています。例外は「癌」と「糖尿病」で、これらは(イ)(ウ)(エ)欄あるいはⅡ蘭の直接死亡には関係しないが病状に影響を及ぼした疾患に記載されていても統計処理されます。

すなわち直接死因に「心停止」などと書かれると、突然の心停止であったのか、病状推移の結果として心停止にいたったのかが分からなくなるので、「心停止」や「心不全」とは書かないでほしいということです。世界中がこのルールで統計を取ってWHOに報告しています。

ICDを病名として医者が直接決めている国は、欧米では極少数派です。日常診療、特に診療所で用いているところは本当に例外的です。それは各国が統計を取るために分類の細かさを決めてきたためです。決して医者がICDを勉強して頭を整理するために分類してきたものではありません。従ってICDにはなぜこんなところに分類されているのか、なぜこんなに分類の細かさが違うのか、といった疑問を持つ所が多くあります。ICDには近い疾患をまとめて扱おうということもままならない部分が多くあります。内科学の教科書の目次のようには分類されていないのです。日本の診療報酬体系を作っている人たちの中にさえ、ICDの仕組みや成り立ちに詳しくない人がいるので、日本ではかなり無理な使い方でICD-10を使っています。ICDが100年前に起源をもつことと、日本で使いにくく感じる臨床医が少なからずいること(大多数かも?)とは全く無関係であることをご理解ください。ただ、日本の方式(医師が直接ICDを決める)ことは非常にコストを下げますので、欧米諸国も日本のやり方に大いに関心を持っており、どのタイミングで導入するかを図っているフシもあります。

なお主治医の最後の診察から24時間以内であって死に至ることが必然と考えられる病態であった方を除いて、すべての医師が立ち会わない死に対しては「死体検案書」を作成します。こちらは警察官を呼ぶ必要があり、解剖する場合は司法解剖となるので、病理医が見ることはありません。

>こちらは警察官を呼ぶ必要があり、解剖する場合は司法解剖となるので、病理医が見ることはありません。

細かな話で恐縮ですが、司法解剖は犯罪性ありと疑われたときに刑事訴訟法に基づいて行われるものですので、警察を呼んでも常に司法解剖になるわけではありません。犯罪性がないと判断されると行政解剖という扱いとなり、解剖に要する費用は遺族持ちです。

病理医が行うケースはゼロかどうかは知りませんが、可能性がゼロではないだろうということで病理医も例示しましたが、少ないことは確かでしょうね。

>ふじたんさま

>家族にとっては、亡くなられた方が苦しまなかったか、家族が納得できる経過で死亡されたのか、が問題なのだと思います。死に至るプロセスをしっかりと支えてあげられる医療を考えずに、死因究明第一に考えるのは本末転倒だと思います。

死因究明を第一に考えるとしたら、確かに本末転倒になってしまいます。だからこそ今、死因究明よりも医療の建て直しのほうが、一般的にも関心を集めているのですよね。

それでもやはり、死因究明の体制が、現状のまま放置されて良いようには思えません。とくに監察制度のない多くの都道府県・地域の実態は、おそらく「できれば解剖したほうがいいけれど、人手も無いし、とても無理」という理由でうやむやにされていることもあるのではと想像します。改善が必要なことは否めないかと思います。

ただ、一内科医さんが釘を刺されているように、

>いずれの解剖でも死因が分からないことも稀ならずあります。たとえば「乳幼児突然死症候群」という病名は「死亡原因が不明な、乳幼児が突然死ぬ状態」です。

ということは、国民も共通認識としてわきまえておく必要があるのですね。医療でさえ完全ではないのですから、まして死後の推定となれば、どうしてもわからないことも出てくるはずです。そうでないと、きっと今の医療と同様に、当事者間におかしなボタンの掛け違いが出てきてしまうということですよね。

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