医業はただのサービス業か否か。

投稿者: | 投稿日時: 2009年04月19日 19:43

先日、「 共通の言語を使ってください。 」というエントリーを書かせていただきました。それに対して皆様からいただいたコメントのやり取りの中で、一内科医さんから興味深い投稿を頂きました。

おおまかに紹介すれば、これまで日本の医療は多くの信頼関係の上に、そして医師の献身的な努力により、驚異的な低コストを実現してきた。しかし医療が社会的に単なるサービス業と見なされるようになれば、当然サービス残業はしなくなり、医療は高騰するだろう、という内容。しかも最後はこう結んであります。
【不遜な言い方に聞こえるかもしれませんが「医師は特別である」ということを認識していただくのが、最終的には日本の社会を救う道なのではないでしょうか。】

いってみれば、今、医療現場が声を上げ始めたのとは逆のスタンス。今日はそのあたりについて考えてみたいと思います。

まずはあらためて、一内科医さんのコメントの気になった箇所をもう少し前から、引用し直させていただきます。

【良いことか悪いことかは別にして、今まで医療界は、医師と患者、雇う側と勤務する側、病院と社会の双方とも相互信頼の上で行動してきたのだと思います。だから驚異的な低コストで医療を実現することができていた。ところが何もわかっていない官僚や司法・その他が医療を一般労働と同列に置き、政治家が自由競争を唱えれば、医療労働の対価は飛躍的に増大します。具体的には、週3回当直しようとも、受け持ち患者さんの具合が悪ければ当直でなくても泊まり込みになろうとも文句は言わなかった。ところが医療が単なるサービス業だと社会から見なされれば、当然、サービス残業はしなくなります。さらに医師の日常生活というもの患者を持つ以上、自由は制限されるものですから単価は高くなります。不遜な言い方に聞こえるかもしれませんが「医師は特別である」ということを認識していただくのが、最終的には日本の社会を救う道なのではないでしょうか。】


私が「!」と意外に思ったのが、これが医師(と、お名前から推測される)方の発言であったことです。


医療崩壊が現実となってきた昨今、このブログの右側にも著書が出ている小松秀樹先生をはじめ、これまで黙って過重労働に耐えてきた勤務医の先生方が、だんだんと自ら声を上げ始めました。ようやくマスコミもことの重大さに気づき、今や現場の過酷な実態はワイドショーでも取り上げられるようになっています。
それでも状況にはなかなか改善がみられず、耐え切れなくなった医師が次々、あるいはいっせいに現場を去り、医師不足・医療崩壊の悪循環が今日まで絶たれることなく続いてきました。


問題が起きても、その取り上げ方や対応は、あいかわらずその場しのぎだったり、カタチを整備する議論に終始して、ほんとうに中身に切り込んだこと、「実際に労働基準法に反しないように医師を配備するには、どれくらいの人員がひつようになるのか」「そのためには予算がいくら必要になるのか」といった議論は事実上、回避されてきました。出てくる数字はおそらく、まず実現不可能。現状が説明のつかない状況であることがはっきりしすぎてしまうからでしょうか。そいうわけで、まさに「パンドラの箱」が開けられずにきたのです。


しかし、そういう意味では、私は、勤務医の方々としては「もうパンドラの箱を開けざるを得ない!自分たちも一労働者として適切な処遇がなされるべきだ!」という思いがあるんだろうなあ、と捉えてきたのです。


ところがそこに頂いたのが上記のコメントでした。「医療が単なるサービス業だと社会から見なされれば、当然、サービス残業はしなくなります。さらに医師の日常生活というもの患者を持つ以上、自由は制限されるものですから単価は高くなります」、確かにそうです。


はたして医業は「単純なサービス業」なのか否か、そうであるべきか否か。「単純なサービス業ではない」「一般労働と同列に自由競争に置くのはよくない」、医療は専門性が極めて高く、医師の育成には時間とお金と本人の多大な努力が不可欠である以上、そう答えることはある意味簡単です。しかし一方、「医療は特別である」と認識した時に、では何を基準として労働環境や予算の議論をするのか。


今、医師の数は圧倒的に不足しています。これを増やすことは当然です。しかし、全体としてみれば日本の人口は継続的に減少しています。戦後のベビーブームに生まれた人たちが今まさに高齢者の域に入ってきたこの数十年は、医師の需要は高まりますが、その後はまた需要は減少していきますよね。そういったことを見越して、医師の数や医学生の数は、今後も十年~数十年ごとに検討が繰り返されていくべきなのでしょう。そうしたときに、医療の自由競争をよしとしないならば、単純に言って「医師の時給はいくらなのか?いくらであるべきなのか?」といったことがわからないと、きちんとした国民負担の議論もできません。


ちなみに、医師を今後増やしていった場合、医師の賃金が今より多少なりとも価格破壊がおきることって、ありえないのでしょうか?今より負担を格段に減らすなら、それもありえることだと単純に思えてしまうのですが・・・。そのあたりの仕組みがよくわかりません(どなたかご指導くださると助かります!歯科などではそういう話も聞こえてきます)。もしそれがありえるとして、全国の医師の先生方は、それについて異存はないのか、やっぱり本音が気になるところです。

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コメント

>はたして医業は「単純なサービス業」なのか否か、そうであるべきか否か。「単純なサービス業ではない」「一般労働と同列に自由競争に置くのはよくない」、医療は専門性が極めて高く、医師の育成には時間とお金と本人の多大な努力が不可欠である以上、そう答えることはある意味簡単です。しかし一方、「医療は特別である」と認識した時に、では何を基準として労働環境や予算の議論をするのか。

スレッドの建て方に不同意。
こんな単純な二元論で論じきれないことは今までの経緯から十分ご承知のはず
より思慮深い整理を望みます。

医療関係者とも多少の繋がりがあった、一、一般人からの視点での意見ですが、全く同じような視点で現状の医療現場の状況を捉えています。
医療や教育はあくまでサービスではなく、それぞれの現場に携わる人間の信頼関係により成り立っていることを日本国民全体が忘れているのではないかと危惧しています。

小泉改革の弊害と言える部分が大きいとは思いますが、こうなるまで誰も気付かず放ったらかしにしたまま、そして、自分達に負担が押し寄せることになれば、その矛先は政治に向けるのではなく、現場の医師の先生方に向けるのはあまりにも酷だと思います。
マスコミによる医師叩きも酷いものだとは思いますが、こうなるまで何も手を打たなかったのは、日本国民として恥じるばかりです。
医療、健康は自らの人生を最適に過ごすためのライフワークの一部分であることをもう一度見つめなおすために、頑張っていきたいものです。

現場の先生方にはただただ応援の声を届けるばかりですが。。

> ちなみに、医師を今後増やしていった場合、医師の賃金が今より多少なりとも価格破壊がおきることって、ありえないのでしょうか?

 新規参入拡大では、質の低下と生産性の低下は必然です。

 当然に平均賃金は低下するでしょう。

 ただし、質と生産性の評価をしないのであれば、その高い層がいなくなるという逆淘汰の起こることも充分に予測できます。

 平均は下がりますが、幅が拡がるだけで済むのか、全体的低下という結果を生み出すのかは採用される政策次第です。

サービス業と残業

医療がサービス業であることは間違いないと思います。一次産業でも二次産業でもありません。医療というサービスを国民に提供しています。ですから顧客である患者の事を考えて行動するのは当然です。しかし「患者の事」とは「患者が望むこと」ではなく、「患者の健康」であり、「患者の生活」です。医学的に正しいことでなければ医師は「ノー」と言わねばなりません。ある種の薬に依存を生じ、患者がその薬を欲してやまない場合、医師はその薬を処方してはなりません。

医療がサービス業であることと、サービス残業はまるで次元の違う話です。医師には応需義務があって、病態が急変した患者さんに対して特別の理由がない限り医療を提供しなければなりません。しかしこの場合、医療は無料提供されるわけではなく、それなりの対価を求めることは当然の権利です。保険医療の場合は患者は医療機関に対して診療報酬制度に従って支払う義務があります。医療機関がその被雇用者である医師に対して時間外労働の対価を支払うことは、保険医療とは別の枠組み(労働基準法)で定められています。時間外労働の取り扱いについては医師の心意気とは全く関係ないものなのです。医療も教育も、信頼関係が重要な事はだれも異論ないでしょうが、信頼関係と労働に対する対価は別次元です。

現在の我が国の医療制度が「危機」に瀕していることは事実でしょう。しかしその主たる原因は人口の老齢化にあります。どこの国や地域においても年齢とともに有病率が上昇します。我が国は急速な高齢化によって医療需要が急速に増大しているのです。これまで通りの医療を提供しようとすれば、必要な医療従事者数は増加します。これまでの人口10万対の医療従事者数で賄おうとすれば破たんすることは当たり前でしょう。にもかかわらず、国民(厚生省だけではないでしょう)はこれまでよりも良い医療をのぞみ、専門医の診療、より多くの専門医による診療、より多くの看護師による診療を望んでいるのですから、医師・看護師が不足することは誰にでもわかることでしょう。これは小泉改革とは関係ないことで、人口の高齢化による医療需要の増大が必要な医療従事者数を増大させるという単純な原理に厚労省も文科省も気付かなかった(そのふりをした?)ためです。

医療機関、特に病院の経営が困難になっているのは、「医療費亡国論」に端を発する医療費抑制策にあることはみなさん御承知の通りです。そして診療報酬制度改定のたびに新たな薬や検査や医療機器についての上乗せを中心として、医療従事者の人件費と技術料の増加には無関心であったことが原因となっています。たとえばわが国ではCTの導入に際してCTの検査費用を機械代金をもとに診療報酬を設定しました。この結果世界で最も早く普及しました。これで診断精度は確かに上がりましたが、CTの読影料はアメリカの専門医が読影する場合を基準に考えれば話にならないほど低額に設定されました。言い換えれば放射線科の専門医に対して病院が十分な給与を払えないほどの読影料しか出ないということです。その結果はとにかくたくさんのCTを撮影して、読影料ではなく検査代金でCTの導入費用を回収することでした。そして放射線専門医が増えなくてもどんどんCTを導入できたので世界一速くCTが普及しました。おかげで日本のほとんどの臨床医はCTを読影できるようになり、平均水準で言えば世界一でしょう。日本がどんどんCTを買ったのでCTはどんどん安くなり、世界中の医療機関が性能の良いCTを以前よりずっと安価に買えるようになりました。確かに日本の国民は世界一早くからCTの恩恵を受けられるようになったわけですが、日本の国民は数年前にずっと性能が低くて高価なCTを買っていたのです。世界中の人々が日本の医療費のおかげで安くて高性能なCTの恩恵を受けられるようになったのであり、CTメーカーは良いものを開発しても売れないというリスクを日本のおかげで避けることができたのです。
そろそろ本題に入ります。「医療費亡国論」は先進医療機器や新薬に医療費を注ぎ込み過ぎると、メーカー、そして世界の人々を救うこととはなっても、我が国の国民の直接利益はあまり大きくならないということで「正しい理論」と強弁することもできますが、人口の老齢化によって増大する医療需要を考慮せず経済第一主義で考えたことが大きな誤りでしょう。そして病院がどんなに努力しても立ち行かなくなったのは平成20年度改定における平均6%の診療費切り下げと、7対1看護の導入が原因でしょう。そして診療報酬制度の改定(改悪)は一部の「識者」と呼ばれる人たちだけが行ったのではなく、統計とそこからの推論に弱い日本の国民全体が選択したものとさえ言えるでしょう。

>ちなみに、医師を今後増やしていった場合、医師の賃金が今より多少なりとも価格破壊がおきることって、ありえないのでしょうか?
→こうした現象はまだしばらく先の話であるとはしても、市場原理が働けばこれは当然あり得る話です。
ただここで不思議なのは「ならば、現在はこんなに医師が不足しているのに何故医師の待遇が向上しないのか?」と言うことです。医師過剰となった時に市場原理で医師の待遇が下がるなら、なぜ今、医師の待遇に市場原理が働かないのでしょうか?現在の勤務医不足は、医師の総数の話は否定できないとしても、根本的には医師の賃金に市場原理が働かないことが原因です。医師が適正に配置されないのは、現在の医師の待遇が適正でないからだけの話だと思います。
ですから同じ論理で考えれば、医師は過剰となったとしても勤務医の待遇が下がることはないと言う楽観論も可能ですが、きっと下がる時にだけは市場原理が働くのでしょう。世の中なんてそんなものです。
(注:ここで言うところの「待遇」とは賃金だけの問題ではなく、労働環境も全て含んでのことを指しています)

>KHPNさま

表題として、また前半部分の書き方として、二元論的になってしまっていることはご指摘のとおりです。ただ正直なところ、もとより「単純なサービス業ではない」という立場を取りたい自分がいます。それにしても、「『医療は特別である』と認識した時に、では何を基準として労働環境や予算の議論をするのか。」という問題意識が生まれてくる、ということなのです。

この議論の内容こそ、本当に二元論的には語れない複雑なものになってくるかと思います。エントリーの後半に書かせていただことと関連させて、上記の文を書き直すとすれば、「医療が特別なサービス業であるというなら、それをどうやって医師やその他医療従事者の勤務体系および賃金に反映させるのか」ということが私の素朴な疑問です。例えば、自由競争で医療の価格(⇒そこからさらに、基本となる賃金)を設定しないなら、何がベースとなるのか。そのあたりがよくわかりません。

出発点こそ、頂いたコメントおよび最初の質問だったのですが、あくまでメインの問題意識はそちらですので、よろしければお考え等を指導いただければ幸いです。

中村先生

>新規参入拡大では、質の低下と生産性の低下は必然です。
>当然に平均賃金は低下するでしょう。

そうとも言えません。
必要数に達するまでは雇用意欲が低下しませんので賃金は下がりません。
必要数付近になると雇用意欲が減退し賃金が下がり始めます。
賃金が下がり始めたときには、被雇用者は有利になろうとして自分の質を高めようとします。ちょうど今、就職希望者が会話学校や専門学校に行こうとするように。それでも雇用が厳しくなると、その職を目指す人が減って、質の低下が始まります。ただ、質の低下はかなり社会のムードに流されやすいので、必ずしも雇用状況と並行しない所もあります。

医療に話を戻せば、かなりの努力をしても病院が利益を出すことは難しくなっていますので、賢い経営者はこれ以上医師を雇うことをためらうでしょうが、厳しい経済状況を改善しようとしてより良い医師を求めて雇用を増やそうとするでしょう。経済効率の良い医者を探す手段を医療機関は持っていませんから、有期雇用を増やして、気に入った医者を常勤へと囲い込もうとするでしょう。経済効率の良い医者に巡り合えなかった医療機関は倒産するでしょう。

>がみさま

医療や教育が単なるサービス業ではないという点、私も本当にそう思います。

ただ、
>現場の先生方にはただただ応援の声を届けるばかりですが。。
という最後の文を読んでいて、1つだけ思い出したのが、「過酷な労働実態に耐える自分たちの姿を“素晴らしい犠牲精神”的に賞賛しないでほしい」という勤務医の先生からの声です。たしかに昨今、そうした現状がワイドショーなどでも「医師の先生たちはこんなに頑張ってくれている」という評価とともに伝えられるようになっています。しかし、「それでは実態は変わらず、逃げることさえ悪になり、ますます苦しくなる」というのです。

もちろん、がみさんがそういうおつもりで「応援」と書かれたのでないことは承知していますが、やはりテレビの前の暢気な国民の中には「そっか、大変だな。頑張って」と結局、他人事としか捉えていない(その自覚もない)人も多いと思うのです。でも、その人たちも、悪意があるわけでもありません。むしろ逆かもしれません。そう考えると、人を理解することって、本当に難しいですね。でも、基本はそこから始まるのかな、とも思います。がみさんのおっしゃるとおり「人間関係」から、ということですね。

>中村先生 ふじたんさま

やはりいろいろな要素が介入してきて、単なる需要供給曲線では考えられないのですね。

いずれにしても、お二方のご説明を伺っていると、昨今言われるような、患者側が受けられる医療の格差が今後広がっていく可能性のみならず、医師をはじめとする医療者間にも格差が今以上に出てくることになりそうですね。

そうしたことを、特に将来を担う医学生や今後ますます活躍していく研修医、若手の先生方は、どういう風に考え、将来設計されていくのか、第三者の私がとやかくいう立場ではありませんが、ちょっと気になるところです。

どの職業でもそうでしょうが、「仕事」には、直接業務を提供するものと、より良い業務を提供するために研修・研鑽を積むものがあります。とりわけ医師の場合は後者の比重が高く、ある意味四六時中そのことは考えているでしょうから、後者を一口に「労働」として捉えるべきかどうかは議論の余地があるように思います。そういう意味で「医師は特別」なのかもしれません。
しかしながら、広義の医師の「仕事」にかかるコストは国民全体で負担することは必要で、そのコンセンサスを作っていくことはメディアに課せられた課題であると思います。その点は、「とやかく言って」いただきたいように思います。

>地方新生児科医さま

ご指摘のとおり、今は医師が不足しているのだから、本来賃金その他の待遇はどんどん向上しているべきで、そうなっていないことが、まさに医療が市場原理とは別の世界の理屈で仕切られていることを表しているのですね。

市場原理が万能でないことは確かで、とくに医療、福祉、教育といった“お金に変えられない”と表現されるものを扱う分野の場合は、需給と価格を市場にまかせてほうっておくと、困る人たちが出てきてしまいます。しかし、だからといって市場原理を全く無視することも、人間の行動原理そのものの無視につながってしまい、不自然な結果をもたらすんですね。

>ですから同じ論理で考えれば、医師は過剰となったとしても勤務医の待遇が下がることはないと言う楽観論も可能ですが、きっと下がる時にだけは市場原理が働くのでしょう。世の中なんてそんなものです。

うーん、それが杞憂に終わればよいのですが・・・。結局は為政者は都合のいいように市場原理を振りかざしますから、ご心配が現実となることも十分考えられますね。医師を増やそうとしている(=まだ足りていない)今のうちに、そうした部分まで含めて議論していく必要が、本当はあるのかもしれませんね。

 掘米様、初めまして。下っ端内科医のもにょと申します。お役に立てるかどうか分かりませんが、私の感想を申し上げます。
 医師は特別だった。医療は信頼関係によって成り立っていた。いずれも既に過去形で語られるべき内容と思います。
 信頼関係だけでは物事が回らなくなったのも、「特別」の存在を認めないとする風潮も、医療に限った事ではなく、より大きな時代の変化の一環です。そしてそれは経済状況、国際関係、ライフスタイルの変化、人口構成など様々な要素によって自然に起こって来た事であり、ある種の必然なのだと感じます。医療崩壊はそれらの目に見える結果にすぎません。
 医師を特別だと言い直してみたところで、変化した人の意識は元には戻りません。それは国民も医師側もそうでしょう。逆に言えば、そのような時代の変化を感じるからこそ、もはや特別扱いに甘んじている事は不可能だ、と医師たちも気付き、一労働者としての権利を求めているのではないでしょうか。
 医師の賃金の低下については、当然起こりうる事と思います。その状態に満足な医師はそれで満足し、そうでない医師はより高給を求めて転職するなりスキルアップするなりする。市場原理に則ってそのようになれば、それはそれで理にかなっていると思います。

 堀米さん、ふじたん さま、こんにちは。

> やはりいろいろな要素が介入してきて、単なる需要供給曲線では考えられないのですね。

 近年のこの分野が特殊なのは、サービス価格が需要供給バランスを無視して決定されているところにあります。

 需要が供給を超えたところで価格が低く固定されているということで、病院外来の日夜を問わない混雑や看護師の高い離職率など、実に様々な現象が説明できます。

 ただ、医療サービス分野で問題とされるのは必需(ニーズ)と呼ばれるものであって、これは患者さん側の価格弾力性の非常に低いことが知られています。需要供給曲線で表現するなら、通常は需要が価格上昇に応じて低下するのに対して、必需は水平を保ちます。

 そうなると、供給側だけが問題となるわけです。必需的な医療サービスについての供給側にとっての異常な低価格は、救急の受け入れ不能から分娩予約の難しさまで、様々な現象を説明します。

 ふじたん さまがご指摘の「必要数」は、この必需的な医療サービスについての議論です。必需は飽和すると考えるなら、不連続的な賃金の「価格破壊」や突然の失業という現象が予測されます。

 ただ、経験的にそういう事態は観察されていません。

 供給曲線を新規参入だけで説明するなら、それは価格の上昇によって低い生産性の事業者の参入と生存が可能になるという場合も含みます。(…もちろん、実際には算入と退出とのバランスが供給を決定していますからそんなに簡単なお話ではありません。)サービス業に於いて生産性が低いとは、しばしば、単位時間当たりのサービス供給量が低いということを意味します。

 午前中の外来で何人こなせるか、必要なことをきちんと患者さんから聞き出し、やらねばならないことを過不足なくした上で一人何分かかるのか、その経済効率の高い医師でなければ生き延びられない、そういう医師を揃えた医療機関だけが存続するということがあるとすれば、そのまま逆の現象があり得るのではないでしょうか。

 経済効率の高い医師ばかりが充分にいるのであれば、そして常にそういう均質な医師ばかりが新規参入するのであれば、必需に対する飽和という現象が予測できます。しかし、それが常に必ず患者さんの求める医師ではない以上、効率の低い医師が生存できる環境は、患者さんにとっての多様性を供給しうる環境ということでもあります。

 医療においては、飽和現象とは別のロジックで動いていく可能性を示唆すると考えています。

 この表題に使用されているサービス業とは何を意味していますか?このサービス業との対になるのは公共なものなのでしょうか?
おそらくコンビニエンスストアに代表される「利用者が自己負担を代償に自己の欲求を満たすもの」としてイメージされていると理解し感想を述べたいと思います。
 日本の医療は利用者(患者)の負担の面から非公共(コンビニエンスストア等)、公共(警察・消防等)の2面性を持っています。受診時の自己負担からはコンビニエンスストア、国民皆保険制度からは警察・消防としての面です。他国の医療制度をみるとアメリカでは非公共、ヨーロッパの多くでは公共です。
 提供側からみるとコンビニエンスストアでは従業員の雇用・価格設定を自ら行い利益が得られなければ撤退します。警察・消防では税金を投入して従業員を雇用し、利用者負担はなく、あまねく限度のあるサービスを提供します。
日本の病院ではコンビニエンスストアと違い保険制度を利用すると価格設定が自由になりません。日本の医療制度は非公共・公共のどっちつかずの位置にあります。
 意識として医療が非公共もしくは公共と思うのはいいのですが、根本はシステムの問題であり日本がアメリカ型を選ぶのかヨーロッパ型を選ぶのかだと思います。今の日本のシステムでは利用者・提供側が自分の都合のいい理屈を利用し議論の結論は出ないと思います。

>パンダさま

>しかしながら、広義の医師の「仕事」にかかるコストは国民全体で負担することは必要で、そのコンセンサスを作っていくことはメディアに課せられた課題であると思います。その点は、「とやかく言って」いただきたいように思います。

なんだか恐縮です。ご指摘していただいたとおり、メディアにはメディアのすべきこと、しなければならないことがありますね。とやかく言われた側は、それでもやっぱり「まったく何もわかってないくせに」と思うことでしょうが、そうであれば、もっとわかるように当事者自ら説明していただきたいというのも正直なところです。というわけでこれからも懲りずに口出しさせていただきたいと思います。

今の医療のほとんどが保険診療であることはご承知と思います。
現場の当事者に価格決定権のないサービス業というものは経済学的に成り立つものなのでしょうか。自由診療ならということでなく、純粋に保険診療だけを想定して、教えていただければ幸いです。
 価格決定権のないサービス業は公共財であり、経済原則には従わないと思います。そういうところを飛ばして、医療はサービス業か否かでは話が進まないように思います。

もにょさま

>信頼関係だけでは物事が回らなくなったのも、「特別」の存在を認めないとする風潮も、医療に限った事ではなく、より大きな時代の変化の一環です。そしてそれは経済状況、国際関係、ライフスタイルの変化、人口構成など様々な要素によって自然に起こって来た事であり、ある種の必然なのだと感じます。

この点、おっしゃるとおりに思います。むしろこれまでの議論は視野が狭かったことに気づかされました。信頼関係の喪失の問題でさえ、医療に原因があったり、医療に限ったことではなく、国民性の変化という中で考え、それを踏まえた上で方策を考える必要があるのですね。現場の医師たちは、それを肌で感じているからこそ、声を上げ始めたということなのですね。

ふと思ったのですが、しかし医師の方々も国民である以上、もし患者の出方が変化していなかったとしても、意識の変化など起きていなかったのでしょうか。例えば「近頃の大学生は幼稚化している」などといわれますが、医学生も、やはり大学生ですよね。

中村先生

>経済効率の高い医師ばかりが充分にいるのであれば、そして常にそういう均質な医師ばかりが新規参入するのであれば、必需に対する飽和という現象が予測できます。しかし、それが常に必ず患者さんの求める医師ではない以上、効率の低い医師が生存できる環境は、患者さんにとっての多様性を供給しうる環境ということでもあります。

確かに、そういう部分はますます求められてくることになりそうですね。ただし気になるのは、そうした効率の低い医療の価格です。よく言われるように、結局は医療が二分化し、時間をかけてじっくり医師と向き合えるような医療は、お金持ちにしか手が届かなくなってしまうのでしょうか。そうした事態を回避することは出来ないのでしょうか。確かに今、国民は低価格で上質の医療を享受していて、これが続くとは思ってはいないのですが・・・。

通りがかりさま ミヤテツさま

医療は公共財(サービス)か非公共財(サービス)か。たしかにそこがきちんと議論されていませんね。ただ、やはり保険診療で価格が別途決定されている以上、公共サービスの性質を有しているといってよいと思います。

いろいろな方にご指導いただいて話が複雑になってきたので、この公共サービスというところから、いったん話を振り返ってみます。

身近な公共サービスといえば、例えば路線バスがあります。価格は一律200円。運転士がどんなに丁寧な運転をしようと、乱暴運転をしようと、値段は変わりません。乗客は運転士を信用し、信頼して命を預けています。では医師と何が違うのか、それは技術習得までの先行投資の大きさ、そして何より、背負っているリスクとそれがもたらす結果の重大さです。バスに乗っていて命を落とす事故に巻き込まれることは、日本ではあまり考えられません。一方、医療はもともと命や身体機能に関わる事態と隣り合わせです。だからこそ、より高い信頼を必要とし、そのリスクに見合うだけの賃金が保証されねばならないのです。ただ、その賃金が不足していたとしても、医師はその信頼と名誉によって、診療を続けてきました。

しかし、状況はかわってきました。国民性の変化(経済観念や職業観の変化、モラルの低下など)、マスコミの誤った誘導、医療側内部の思惑の交錯・・・いろいろな要素が絡み合って、医療や医師への信頼は低下し、医師を医療現場にとどめるほどの力を失いました。一方で医師のリスクや負担はますます増大しています。そこで彼らは、信頼や名誉のかわりに、単純に労働環境や賃金の適正化を求め始めました。

その対策のひとつが、医師の増加による医師の負担の削減です。しかし、その暁に待っている医療のカタチは、不透明なままです。ひとつだけ確かなことは、今までのような低医療費で上質医療をすべての国民が享受するには、おそらく非現実的な予算が必要になるということです。そして医師も、これまで以上に自分のキャリアパスについて考えねばならなくなるだろうということです。

国民も本来は、どうしたいのか、きちんと意思を表明しなければならない時がきているのでしょうね。しかし、医療者ほどに緊迫感がないのが実際のところです(本当は政治がそのあるべき姿を発揮して、国民を代弁してくれたらいいのですが、実際のところは主に病院の代弁者のようです)。

最初に、あえて医療を「公共サービス」としましたが、「公」であって「官」ではないものと、みんなが認識するべきなのかもしれません。すなわち、医療は「国が維持するもの」というより、「みんなで維持すべきもの」なのだと思います。その自覚が国民にはないと始まらないかなあ、と思います。

「医師は特別」は過去のものであって……労働者としての権利を求めている……
 本当にそれでよいのでしょうかね。医師の特別たる所以は「(腕の如何により)患者さんの生殺与奪の可能性があること」よって対価は計算できない(しにくい)ものであるということです。対価が計算できない(現在は過小評価)のであれば厚労省や社会は守ってやるべきだった。すくなくとも、思いやりの気持ちを持つべきだったのではないでしょうか。
 飛躍するように聞こえるかもしれませんが、医業が一般的な職業のひとつであるならば、大野病院事件でも大淀病院事件でも刑事裁判の遡上に上っても当然のことになると考えます。
 そうではないのは「人智を尽くした上でのこと」があたりまえの「特別な業務の上でのこと」であるからだと思うわけです。

 成功報酬としては成り立たない業務を医師はなぜ行なっているのか。
 人間の幸福には「自由」「財産」「名誉」の3つがあるといいます。医業においては「自由」はないものに等しい職業ですが、いままで「名誉」と「ある程度の利益」は供給されていました。
 財産については、生活できる範囲内ならば自分の減収は我慢できるのです。ところが我慢できるとは言っても、昨今はとうとうコスト割れまで来てしまい(多くの自治体病院が赤字であるように)業務を継続できるかどうかまできています。
 さらに、マスコミの風潮、司法の介入、モンスターペイシェントの増殖。これらが折角の良好な関係をすべてぶちこわしにしています。つまり名誉まで不当に剥奪されている状態に来ていると思います。
 自由・財産・名誉の3つまで奪われた状態であるならば、一労働者であると認識し労働条件の追求を命題とするのも仕方のないことかもしれませんが、私個人はそんな職業であるならば続けたくはありません。日々努力をし尽くすことによって尊敬を得ることのできる職業であって欲しいと思うのです。

 なんか精神論になってしまってイヤなんですが、究極のところここに行き着きますので。

堀米様、初めまして。お返事ありがとうございます。
まさに堀米様が「結局は為政者は都合のいいように市場原理を振りかざしますから」と書かれている通りです。
確かに医療や教育に市場原理を持ち込むことの危険性は当然のことなのですが、ここで区別しておかなければならないのは、「市場原理を持ち組むべきではないところに市場原理が持ち込まれ、市場原理が導入されるべきところに導入されていない」と言うことなんだと思います。

> 時間をかけてじっくり医師と向き合えるような医療は、お金持ちにしか手が届かなくなってしまうのでしょうか。

 全くの経験則として知られていることですが、医療サービスは放置すれば過少供給に陥るという性質があります。

 それはおそらく、いざ病気になるまで、医療サービスの必要は実感されないものだからでしょう。

 お金持ちであっても事情は一緒です。お金持ちが…お金持ちだけが、非効率な医療に充分な支払いをするということは経験則から言って考えられません。

 公的医療保険制度の中であれば、貧富に関わりなく、そういうこともあり得るのですが、それはそれで、国民の間で、必要な人にはそういう非効率な医療であっても供給するのだというコンセンサスができない限りは、無理です。

一内科医さま

今回は先日いただいたコメントを勝手にお借りしてしまいすみません。でも、やはり大変興味深いご意見です。

一内科医さんのご意見は、多くの医師の方々の本音でもあるだろうなあ、と感じます。医師という職業を選ばれ、過酷な条件の中でも続けてこられたのは、やはりそれが「特別」な職業とのご自負がおありになるからだと思います。そして国や国民も、それをある意味逆手にとって甘んじてきたために、「名」ばかり上に据え置かれ、労働環境の実態がどんどん低下してきた。そして昨今は、その「名」さえも危うい状態です。マスコミやそれに流された国民の間では急速に医師の「特別」感がなくなっています。

しかし、やはり医業は本来「特別」なものであるはずなのでしょうね。人の生死を負っているということが、軽んじられていいはずがありません。でも、それ以上に、労働条件の厳しさが医師の一人の人間としての体力的・精神的限界を超えてしまっているのが現実で、そこを改善しなければ実際、続けようがない状態なんだと理解しています。

「特別」というプラスアルファは重要な要素だけれども、職業としての最低条件が備わらなければやりようがない、ということでしょうか。

地方新生児科医さま

>「市場原理を持ち組むべきではないところに市場原理が持ち込まれ、市場原理が導入されるべきところに導入されていない」

本当にそのとおりと思います!
私は政治経済のことはよくわからないのですが、物心ついたときには「規制緩和」があちこちで叫ばれていて、いろいろなことが民営化の真っ最中でした。規制は諸悪の根源かのように言われ、いろいろなところに市場原理が導入されました。しかし、それによって本当に国民の生活が良くなったのかというと、すごく疑問です。その恩恵を享受したのは民間かもしれませんが、国民でないように思えます。そしてそうこうするうちに、今はまた密かに規制強化、官庁の権限強化が始まっています。そうして結局、国民のためには国が介入すべきところが野放しにされ、規制すべきでないところに規制がかかっていたりと、すごく場当たり的で凸凹な印象です。

医療は今まさに、そのターゲットになっているんですね。だから本当は今のうちに国民もいろいろ口出しをしておかないと馬鹿を見てしまうんでしょうが、どうも話が難しすぎるなあ、と思ってしまうんですよね。その場その場であちこち少しずついじってきた制度だから余計、ややこしいんでしょうか。

中村先生

>公的医療保険制度の中であれば、貧富に関わりなく、そういうこともあり得るのですが、それはそれで、国民の間で、必要な人にはそういう非効率な医療であっても供給するのだというコンセンサスができない限りは、無理です。

これはつまり、いまのままいくと公的医療保険制度の中では無理になっていくだろう、ということでしょうか?(結局は自由診療で、ということ?)

> (結局は自由診療で、ということ?)

 あ〜、もしそうなら、既にそうなっているはずですが、そうはなっていません。おそらく、今後もそうはならないでしょう。

 医療制度は公共財ですが、医療サービスは私的財です。公共財を占有することは不可能ですが、私的財は囲い込みができます。日本であれば優秀な医師の自由診療という形が取れます。

 しかし、そういう例はあるにしてもごく部分的なもので、しかもごくごく少数派です。たとえば比較的高額な室料差額を設定している有名病院もいくつかありますが、その全病床数に占める割合はせいぜい半分です。これには規制制約もありますが、それだけではないようにも思います。

 やはりなぜかは分かりませんが、医療という私的財はやはり供給過少に陥りやすい性質があるとしか言いようがありません。

中村先生

ご丁寧な説明ありがとうございます。たしかにそうした自由診療はそれほど一般的ではないですね。なぜなのでしょう・・・。やはりお金をたくさん使うのは、健康な人で、当座お金があっても病気等を抱えて先々の収入に不安があれば、贅沢を控えようということになるのでしょうか。また、じっさい病気がちの人は、たいてい、そこまでの資金力がないのかもしれませんね。

医業がサービス業かどうかという議論では、その問題提起の時点において顧客(患者)の要求にどの程度応えるか(応えられるか)という問題を内包しているように思います。

医療、特に保険医療においては結局のところ人員や財政に限りがありますから、大局的には患者の希望にはほどほどに応えます、ということになってしまい、温かい便座にウォシュレットがつくほどサービス好きで、どうせ診てもらうなら大病院というような権威好きの日本では、保険医療のサービスがなっていないとクレームが出るのはある意味当然のような気もします。

ただ、かつての右肩上がりの経済成長を背景に、医師会や政府が「医者にかかると安心です。負担金は国が負担します」という働きかけをすれば、国民がそれに乗るのは当たり前で、イケイケの保険制度は高度経済成長期を終えれば修正を迫られることもまた必然と言えます。

市販薬を買うよりも保険を使って医者にかかるほうが安い、というような制度の歪みのせいで、薬局は薬屋から雑貨屋に変わったそうです。

政権与党との距離ではなく、成熟した議論によって今後の医療制度が設計されることを望みます。

逃亡者さま

>イケイケの保険制度は高度経済成長期を終えれば修正を迫られることもまた必然と言えます。

そうなんですよね。でも国民はそのあたりをわかっていない。きちんと説明されていないんですから、しょうがないと思います。また説明されたところで、だれしも既得権を失うことには強く抵抗するものです。それでも、そうはいっていられないところまでもう来ています。だったら国民としてはせめて、きちんとしたデータとともに、どの程度の負担でどの程度の給付が得られるのか、いくつかの選択肢を示してもらいたいなあと思います。

特別と普通

大変議論が盛り上がっていて、いろんな意見が聞けることは本当に良いことだと思います。

ひとつだけ。
すべての物事は特別なひとつですが、その物事が起こす問題は特別ではなく普通の事柄の積み重ねと思わなければなりません。
個人個人の健康問題は特別な事象ですが、医学としてみる時は特例とせず、一般論の中で病態の原因を考えなければなりません。一般論で話をすることが科学です。
医療問題のなかで、どこかの病院の医師が辞めた、急病患者の搬送先を見つけるのに120分かかった、などはどれも特別な事象の一つですが、社会の中で医療制度が抱える問題としてみる時は、なぜそのような事が起きたのか、次にも起こる可能性があるのか、一般論として考える必要があります。
我が国の医療問題を考えるときには、医療は特殊、医者は特別という考え方は一切やめるべきです。医師も疲れます。面倒な患者や自信のない分野の疾患は診たくなくなります。労力に見合った所得は欲しいです。家族と過ごす時間も、一人で遊ぶ時間もほしいです。かならず失敗もします。すべて人間として当たり前のこと、精神論や理想論ではどうにもなりません。無理の積み重ねは必ず破綻します。医師の所得を年間1000万円以下にすれば、やがてはそういう人材しか集まらなくなります。500万円以下にすれば6年制大学に入学しようとする人すらいなくなるでしょう。それでも医療費をもっと抑制すべきなのでしょうか。確かに医療に携わって得られる喜びはひとしおですが、これを特別の喜びと考えて平均年収500万円の医師が生まれると思うのでしょうか。

ふじたんさま

医療が特殊、医師が特別だというのは、ひとえに、他人の人体に傷をつけることを法的に許され、また人の生き死にを多くの場面で背負っているから、ということに尽きます。そういう意味では、やはり他のサービス業と同質とは思えませんし、その責任の大きさが賃金に反映されてしかるべきなのだと思います。

もちろん医師の方々も普通の人間ですが、少なくとも医業に従事している時間帯だけは、患者にしてみれば特別な存在です。そういう職業です。(その話と、プライベートの確保できる勤務形態等の問題は、別に考える必要があると思います。)

また、「特別」の意味を上記のように解し、賃金と結びつけて考えるなら、診療科や医療の内容を問わず(率直な話、診療科や医師により、施術の質や心象はやはり異なります)医師の時給が一律に高額だとしたら、昨今の国民の感覚からしたら簡単に納得しない気もします。まさにおっしゃるとおり、「労力にみあった所得」でなければ、医師の側も国民も納得しないと思います。ただ、「特別」の度合いや責任の重さ等を数字にするのは実際問題、非常に難しいことなのですが・・・。

Anonymousさま

>医師の時給が一律に高額
ほとんどの医師はそう思っていないでしょうね。
研修医の給与は約18万円。病院によってはもう少しもらえますが、高くとも1.5倍までです。
「研修」という言葉で、高いイメージを持つかもしれませんが、国家資格をとった、24歳以上の、大学に6年も通った高学歴者です。(「研修医」という言葉は本当に酷いと思います)
大学病院の、臨床講座の教授が平均年収900万円ぐらいです。雑誌によると、ほとんどの大手企業の足元にも及びません。しかも医師は多くの場合、いろいろな経験を積むために一つの病院で働きつづけません。言い換えれば退職金はほとんど期待できません。少なくとも勤務医は労働量に比べると著しく薄給だと思いますが。

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