終末期の治療方針、「家族の意見がバラバラ」 コメント欄

投稿者: 新井裕充 | 投稿日時: 2009年04月26日 03:31

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コメント

(新井裕充さま)

>自由記載の回答では(略)「日ごろ病院に訪れない身内・親族が多く、死期が切迫している状態になって初めて病院を訪れ、これまでの話し合いの経過を無視し、合意内容を一から構築し直すことが多い」など。

よくぞこれを書いてくださったと思います。

終末期医療に限らず、ゼク(死後の病理解剖)や臓器移植提供、果ては訴訟に至るまで、普段、病院に見舞いに来て患者を献身的にサポートしていた家族ではなく、この「日ごろ病院に訪れない身内・親族」がいざと言う時に嘴を突っ込んで話をおかしくするということは、意外とありがちなことかと思います。

「患者が死んでから葬式でもっともらしいことを言うよりも、生きている間に時間を作って患者に少しでも会ってやってくれ」とこういう人々には言いたいです。こういう無責任な人々が知らず知らずのうちに世の中をだめにしているのではないかと常日頃思っています。

重篤になった時に数回やってきた親族が、少し病状が良くなると全く現れず、同居親族だけに介護の負担が重なってきていることを、頻頻に経験しています。

そして患者さんが亡くなった後は、同居親族は介護で疲れ果てて何も言えず、遠い親戚だけがエネルギーを発散させて、これ見よがしに誠意を演出します。
辟易する場面です。

これは医師としての経験だけでなく、自分の親族の取った行動からも体験したことです。

医師としての行動規範も、こういった身勝手な親族の行動を許さない、介護している親族の発言権、生活を保護することが主眼となります。

我儘な事後的権利主張を許さないためには、事前の責任を明確にして果たしてもらい、評価することから始めないと、手遅れです。
死期にまつわる医療には、死後の混乱を避ける知恵も必要となり、医師はその親族の審判役に回ることができます。

なかなか仲介技術を伝授し難いものです。
余裕がなくなると感情のコントロールも難しくなります。
いろんな介護・福祉サービスも病院外で提供されているので、ほんの少しのアドバイスで直接看取る方の負担が減ることも多いのですが、医療だけ見ていて、医療と介護と福祉を切り離して考えると、全く見えてこないことだろうと思います

ロハス・メディアさんには後者の橋渡しもお願いしたいと切に思いますし、応援して行きたいと思います。

ありがとうございます。
今後とも、よろしくお願いいたします。

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